作品タイトル不明
伊賀越えをお坊さんと雑談しながら歩く。命がけですが伊勢松坂屋さんが道を作ってくれたおかげで通れます。伊賀の住職の話。信楽焼の道。地侍や子供たちの変化。変な飯屋やな。意味が分かり始める
伊賀越えは命がけ。
藤井寺の鍛冶の親方たちは、そう聞かされていた。
実際、山に入る前は、若い職人たちもかなり身構えていた。道は細く、木々は深く、
ところどころ足元も悪い。少し横を見れば、獣道のような場所もある。
けれど、実際に歩き始めてみると、思っていた様子とは少し違っていた。
奈良の僧たちは、案外よく喋る。
「伊勢の魚のすり身揚げは、なかなか面白いですぞ」
「松阪郊外の和尚様の話は、一度聞いておいた方がよろしい」
「伊勢神宮の値段は、最初ほんまに目を疑います」
そんな話をしながら、山道を進んでいく。
親方は、思わず漏らした。
「伊賀越えは命がけやと聞いてましたけど、こんなに喋りながら行くとは思ってませんでしたわ」
すると、奈良の僧がすぐに首を振った。
「いやいやいやいや。命がけです」
「そうなんですか」
「ええ。ただ、伊勢松坂屋さんだけがおかしいのです」
僧は、周囲を見回しながら言った。
「この道には、もともと危ない者もおりました。食い詰めた者、地侍、追い剥ぎまがいの者。
けれど伊勢松坂屋さんは、銭を撒き、拠点を作り、飯場を置き、宿を整え、信楽焼を通す道として
価値を作りました」
案内役も頷く。
「護衛の仕事にも銭を落としてます。地侍衆にも筋を通してます。だから、今こうして
通れているだけです」
「なるほどなあ」
「周りをよく見てください。ちょこちょこ人影があるでしょう」
そう言われて、親方たちはぎくりとした。
木の陰、少し高い斜面、道の先。確かに、ちらりと人の気配がある。
「見られてるんですか」
「見られてます」
案内役は平然と言った。
「我々は、見られているという認識で歩いた方がいいです」
若い職人が、急に背筋を伸ばした。
「怖いこと言わんといてください」
「怖い道ですから」
すると、少し先から袴姿の地侍が現れた。伊勢松坂屋の印が入った袴を見て、案内役が声をかける。
「ご苦労様です」
「おう。奈良のお坊様方と、藤井寺の鍛冶の方々やな」
「はい。松阪までお連れします」
「この先、少しぬかるんどる。足元気をつけてな」
「ありがとうございます」
地侍はそれだけ言うと、また木々の間へ消えた。
親方は、ぽかんとした。
「なんや今の」
「道を見てくれている者です」
「伊勢松坂屋の袴、ほんまに効くんやな」
「効くというより、積み上げた関係です」
僧が静かに言った。
「飯と銭と仕事を落とし続けた結果です」
親方は、袴の袖を見下ろした。
「飯屋の袴で山道を守られるとは、変な気分や」
「皆さん、最初はそうおっしゃいます」
そうして一行は、慎重に山道を進んだ。
険しい場所では案内役が足を止め、わらじを締め直させた。ぬかるみでは杖を使い、
若い職人が滑りかければ、地侍がどこからともなく現れて手を貸した。
親方は、だんだん分かってきた。
この道は安全なのではない。
安全に見えるよう、誰かがずっと手を入れているのだ。
夕方前、一行は伊賀の宿場町に着いた。
そこには伊勢松坂屋の小さな横丁があり、飯場があり、旅人が休む場所があった。
鍛冶場の親方たちは、疲れた足を引きずりながらも、その整い方に驚いた。
「こんな山の中に、ちゃんと飯が出る場所があるんか」
出されたのは、温かい汁、飯、漬物、少しの肉あん、そして香ばしい魚のすり身揚げだった。
親方は汁をすすり、思わず息を吐いた。
「……うまい」
その夜、宿場近くの寺の住職が挨拶に来た。
「遠いところ、ようお越しくださいました」
親方は頭を下げる。
「こちらこそ世話になります。正直、伊賀でこんなに飯が出るとは思ってませんでした」
住職は苦笑した。
「これも伊勢松坂屋さんとのやり取りのおかげです」
「ここもですか」
「ええ。もともとは食い口がなく、本当に苦しかった。施しを受けても、その日を越えるだけでした。
そこで伊勢松坂屋の旦那様が、“施しだけでは残らん”と言われましてな」
「施しだけでは残らん」
「はい。飯場を置き、宿場町を整え、横丁を作り、仕事を作ってくださった。最初は赤字も
ありましたが、今では多少の赤はあっても、ほぼ横丁の収入でいろいろ回せるようになっております」
住職は、少し誇らしげに言った。
「ここは信楽焼を大量に通す道にもなりました。荷が通るということは、人が通る。人が通れば飯がいる。宿がいる。護衛もいる。私らも、その価値を分かっております」
親方は腕を組んだ。
「飯屋が道を作ったんやな」
「そう言ってもよいかもしれません」
住職は続けた。
「それに、子どもたちにも変化がありました。口減らしで捨てられる子、親を失った子、
そういう子を引き取って、飯を食わせ、読み書きそろばんを教えることが少しずつできるように
なりました」
「子どもまで?」
「ええ。時々、松坂まで連れて行くのです」
「松坂まで?」
「向こうの子どもたちと交流します。最初は読み書きそろばんに乗り気でなかった子も、
松坂の子が帳面を読んだり、店で働いたりしているのを見て、“自分も働くんや”と言うように
なりましてな」
若い職人が、思わず声を漏らした。
「子どもにまで影響あるんかい」
住職は穏やかに笑った。
「飯があると、人は明日のことを考えられます。明日のことを考えられれば、字を覚えようと思える。
伊勢松坂屋さんがくださったのは、飯だけではありませんな」
親方は、しばらく黙っていた。
鉄を叩く職人として、道具が人の暮らしを変えることは知っていた。鍬があれば畑が耕せる。
刃物があれば木が削れる。鉄砲があれば戦が変わる。
だが、飯屋の仕組みが、山道や子どもたちの未来まで変えているという話は、初めて聞いた。
「……ほんまに変な飯屋やな」
「ええ。変です」
住職は笑った。
「しかし、ありがたい変さです」
その晩、親方たちは早めに眠った。
翌朝、再び伊賀の道を進む。
足は痛い。肩も重い。山道は、やはり楽ではなかった。若い職人の一人は、途中で
何度も息を切らした。
「これを奈良のお坊さんが何度もやってるんですか」
「慣れても、きついものはきついです」
僧は笑った。
「けれど、向こうに行けば得るものがありますから」
その言葉に、親方は少しだけ頷いた。
夕方近く、ようやく松坂の方へ下りてきた。
山の空気が変わり、道が広がり、人の声が増えてくる。遠くに町の気配が見えた時、
若い職人は思わず声を上げた。
「着いた……」
「まだ拠点まで少しあります」
「もう十分しんどいです」
親方も、さすがに疲れた顔をしていた。
「初めての伊賀越えは、堪えるな」
だが、松坂の拠点に着くと、すでに伊勢松坂屋の者たちが待っていた。
「ようお越しくださいました」
「長旅、お疲れ様でございます」
「まずは湯で足を休めてください。飯もすぐにご用意します」
温かい湯、清潔な布、替えの草鞋、そして湯気の立つ飯。
親方は、それを見て思わず笑った。
「なるほどな」
「何がですか」
若い職人が聞くと、親方は疲れた顔で答えた。
「伊賀越えしてまで来る者がおる理由が、ちょっと分かってきたわ」
こうして藤井寺の鍛冶職人たちは、ようやく松坂へたどり着いた。
自分たちの作った金型が、どのように人を集め、飯を生み、さらに伊勢神宮へつながっていくのか。
それを見るための旅は、ここからが本番だった。