作品タイトル不明
年始に松坂城主に挨拶。根無し草だった博之を懐かしむ城主。長野の一件等。年末の市もよかったぞ
正月、博之は松阪の城主のもとへ年始の挨拶に向かった。
いつもなら、博之とお花、ヨイチ、数人の供で済むところである。だが今年は少し違った
正月の屋敷で博之が「うちは俺とヨイチとお花さんがいなくなっても続くようにせなあかん」と、
寝転びながら話したせいで、若い衆や買い付け隊、帳場の者、さらには奈良から来ていた僧までが
「見聞を広げたい」とついてくることになった。
結果、ちょっとした一団である。
松阪の城主は、その様子を見て、すぐに笑った。
「なんや、今年の伊勢松坂屋さんは人数が多いな。国取りでも始めるつもりか」
博之は慌てて頭を下げた。
「洒落にならないんで、やめてください」
「いやいや、津の港と郊外を押さえて、奈良の坊主を連れて、草津や四日市まで伸ばしてる飯屋が、
今さら何を言う」
「飯屋です。あくまで飯屋です」
「飯屋が年始の挨拶に、こんだけ引き連れてくるか」
上司は笑いながら、一行を中へ通した。
座敷に入ると、博之は持参した正月の飯を並べさせた。肉あん、鯛味噌の混ぜ飯、魚のすり身揚げ、
蜂蜜柚子湯、少しの甘味。奈良の僧も丁寧に挨拶をし、若い衆は緊張した面持ちで座っている。
「で、なんでこんなに連れてきたんや」
上司に問われ、博之は少し照れたように言った。
「正月に、ちょっとありがたい話をしたんです」
「ほう」
「寝転びながら」
「寝転びながらする話か」
「それでいいんです。周りがしっかりしてますから」
座敷に笑いが起きた。
上司は、博之をじっと見てから、ふっと笑った。
「まあ、そうやな。お前はもともと、根無し草の時に、松阪の城の普請で貯めた小銭を元手にして、
ボロ小屋で豚汁を始めたところから始まってんねんからな」
博之は、少し苦笑した。
「ほんまに、あの頃は小銭しかなかったですからね」
「城の普請で飯を食うて、そこに残った小銭を握って、ボロ小屋で豚汁や。今の若い者に言うても、
信じへんやろ」
「今のうちの店に、私が下から入ったら絶対やっていけない自信があります」
その言葉に、座敷がまた笑った。
博之は肩をすくめる。
「今は立派になりすぎました。帳面が読めます、買い付けできます、伊勢神宮で働きたいです、
奈良へ行きたいです、草津の拠点を任されたいです、みたいな人が来るんです。
ありがたいですけど、うちは飯屋です。大名家に仕官するつもりで来られても困るんです」
上司は肉あんをつまみながら、少し真面目な顔になった。
「けどな、まともすぎる人間ばかりでは、今のお前のところはできてへんぞ」
「それは思います」
「長野とやり合えたのもそうや。あれ、そんな昔の話ちゃうぞ。津の寺で殿様に飯を食わせる時に
殺されかけた話もあった。信楽焼を巡って揉めた話もあった。名張の地侍が身代金みたいな銭を
持ってきて、そこから信楽焼の買い付けが始まった話も、まだ最近や」
博之は、少し遠い目をした。
「短期間でいろいろありすぎて、忘れますね」
「こっちは楽しく信楽焼を眺めてるが、あれだって元をたどれば、かなり危ない話やったやろ」
「そうですね」
「そういう破天荒なことを、怖がりながらもやれるやつがいたから、今がある。立派な人間ばかり
集めて、格式ばかり高くなったら、そういうやつが入ってこなくなる」
その言葉に、博之は深く頷いた。
「そこが、ちょっともったいないと思ってます。今ある店は立派になりすぎました。
新しく入ってくる人も、大きい仕事がしたい、伊勢神宮の買い付け隊に入りたい、奈良に行きたい、
草津に行きたい、と言う。もちろんありがたいんですけど、根なし草の感覚が薄れていく」
「新しい拠点には、まだそういう者がおるんちゃうか」
「大和高田とか奈良の郊外とか、津の港とか、ああいうところにはまだいます。だから
広げる意味はあるんです。食い詰めた者に口を作る意味でも」
「贅沢な悩みやな」
城主は笑った。
「そのうち長野だけやなく、北畠も胃袋と懐を掴まれるかもしれんな」
「滅相もない」
「いや、お前ならやりかねん」
「本当にやめてください」
座敷にまた笑いが起きた。
城主は、少し声を落として続けた。
「まあ、なんやかんや言うても、お前が飯を持ってくるからええんやろな。変に刀を持たず、
変に領地を取らず、飯と銭と仕事を持ってくる。その姿勢があるから、まだ周りも笑って見とる」
「そうだといいんですけど」
「ただし、お前がしっかりしすぎたら危ないな」
「え?」
「完璧に帳面を押さえ、現場も押さえ、飯も作り、挨拶も完璧で、しかも野心まで見えたら、
さすがに何かきっかけ作って切り捨てるかもしれん」
「そういうこと言わないでくださいよ」
「だから今ぐらいでええ。ゴロゴロして、飯のことばかり考えて、周りに怒られてるくらいがな」
博之は苦笑した。
「それ、褒めてます?」
「半分な」
そこへ上司が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、この前の年末の市、良かったぞ」
「ありがとうございます。私は隅っこに追いやられてましたけど」
「それが良かったんやろ」
「皆それ言いますね」
「聞くところによると、買い付けの品もだいぶ売れたらしいな」
「はい。伊勢の小物だけじゃなく、北伊勢のもの、草津のもの、奈良の香や筆、信楽焼も
喜ばれました。普段見られないものですから」
「そういうのをやってくれるとな、真似したくても真似できん」
「そうですか」
「品を集める道がいる。飯を出す腕がいる。寺社に人を集める筋がいる。周りの店を潰さん配慮もいる。
お前のところは、その全部を持ち始めてる」
博之は、少しだけ黙った。
城主は、にやりと笑う。
「だから、さじ加減や。あんまり立派になりすぎるな。あんまりゴロゴロするのも見習わせるな」
「最後だけ余計です」
「いや、そこが一番大事や」
若い衆たちが堪えきれずに笑った。
奈良の僧も、静かに目を細めていた。
正月の挨拶は、堅苦しいものではなかった。
だが、博之にとっては、自分たちがどこから来て、どこへ向かうのかを改めて考える場になった。
身の代を出され、松阪の城の不審で食べた小銭を元手に、ボロ小屋で豚汁を出したところから
始まった店。
その店が、今では伊勢神宮に肉あんを出し、奈良の僧を招き、津の港を動かし、信楽焼を各地に
運んでいる。
立派になりすぎてもいけない。
だが、いつまでも根なし草のままでもいけない。
飯を作り、銭を落とし、仕事を作り、町に溶ける。
その微妙なさじ加減こそ、伊勢松坂屋が今年も生き残るために必要なものだった。