作品タイトル不明
楽しい楽しい帳簿の時間。11月1週目。10月末までの帳簿2,870万文→3,500万文
「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
ヨイチが帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は畳に転がった。
「楽しくない」
「今回はかなりざっくりです」
「ほんまか」
「前回が細かすぎましたので、今回は四日市、奈良、草津の変化を見る程度でございます」
「ああ、それなら楽やな」
「楽かどうかは別です」
「なんでや」
ヨイチは、にこりともせず帳面を開いた。
「まず、四日市です。港だけではなく、城下町が立ち上がりました」
「早いな」
「早いです。余計に銭を撒いておりますので」
「余計言うな」
「必要以上に、と言い換えましょうか」
「もっと悪い」
「いずれにせよ、四日市は港があるため、荷が動きます。白子、亀山、関への見通しもあり、
北伊勢の中継としてかなり使いやすいです」
「よしよし」
「次に奈良です。郊外に二か所、追加で拠点ができました」
「奈良も早いな」
「こちらも銭を撒いておりますので」
「また言うた」
「実際そうです。奈良は寺社筋との関係が重要ですから、最初に渋ると後が難しくなります。
ですので、飯場、荷置き場、簡易の寝床、寺社への礼、案内役への心づけ、このあたりを
厚めに見ています」
「まあ、奈良は丁寧にやらなあかんわな」
「はい。そして草津です。こちらも上町、下町が立ち上がりました」
「草津もか」
「はい。関から入る道、信楽へつなぐ道、近江方面の情報を拾う道として、かなり重要です」
博之は、半分起き上がった。
「なんか、思ったより早く進んでるな」
「余計な銭を払っておりますので」
「もうそれでええわ」
ヨイチは帳面をめくり、淡々と言った。
「諸々合わせまして、現在の総額は三千五百三十万文です」
博之は固まった。
「……は?」
「三千五百三十万文です」
「なんでそんなにでかくなんねん」
「まるっとまとめるなら、三千五百万文です」
「まとめても怖いわ」
「原因は買い付け隊です」
「やっぱりそこか」
「はい。今まで一拠点六万文だった買い付けを、十万文に引き上げました。奈良に物を運ぶことも
始まりますので、伊勢小物、松阪木綿、信楽焼、紙、墨、香、薬種、包み紙、器、食材、それぞれの
流れが太くなっています」
「六万から十万は、まあ増やしたな」
「さらに、松阪と伊勢については、もともと十万文買い付けていたところへ、五万文ずつ追加しました」
「なんで俺が知らん間に増えてるんや」
「旦那様が“奈良にも回すなら物が足らんやろ”とおっしゃったからです」
「言った気がする」
「言いました」
お花が横から笑った。
「旦那様は、思いつきで言ったことをよく忘れます」
「忘れたいこともある」
「帳簿は忘れません」
ヨイチは続けた。
「その買い付け増加分だけで、利益の上乗せが八十七万文ほど出ています」
「買い付け強すぎるやろ」
「強いです。さらに、四日市と奈良の新拠点分を合わせますと、ざっくり百二十万文ほど
上乗せになっています」
「そんだけでそんな増えるんか」
「はい。飯屋の利益、買い付けの利益、拠点の立ち上がりによる荷の回転、この三つが重なっています」
博之は頭を抱えた。
「もっと撒かなあかんやんけ」
「撒きながら進めるしかありません」
「ほんまに金が増えると怖いな」
「怖がってください。怖がる旦那様の方が、まだ安全です」
「まだって何や」
「怖がらなくなった旦那様は、三百万文を縁談に積みかねません」
「それは相談する」
「必ずしてください」
お花が即座に釘を刺した。
ヨイチは、さらに今後の話に移った。
「大和八木については、一旦整備が落ち着きました。郊外、城下、荷置き場、飯場、最低限の形は
整っています」
「大和八木は、奈良への足場やな」
「はい。ですので、次は大和高田方面を見てもよろしいかと」
「そこにも銭を撒くか」
「撒くというより、筋を作る、です。寺社、地元の顔役、飯場、荷置き場。いきなり横丁を作るより、
まずは通れる道と休める場所です」
「なるほどな」
「一方で、奈良本体は慎重にいくべきです」
ヨイチの声が少し重くなった。
「奈良は規模が大きいです。寺社も多い。檀家衆、武家筋、町衆、学僧、職人、それぞれの
顔があります。ここで荒く動くと、すぐに面倒になります」
「わかる」
「ですので、奈良ではまず郊外を固める。炊き出し、ご縁の会、写経会、薬草の話、信楽焼を
使った寄進の会。このあたりを小さく試すのがよいでしょう」
「いきなり城下町に大きな横丁やなくて、郊外からやな」
「はい。城下町でじっくり作るためにも、まず郊外で住民との接点を作るべきです」
お花が頷いた。
「奈良のお坊様方も、炊き出しや地域との交流を学びたいとおっしゃっていました。そこから
始めるのが自然です」
「ご縁の会も、いきなり婚活婚活ってやると角が立つしな」
「はい。最初は茶会、写経会、器を見る会、薬草の話、食の話。その中で若い方同士が自然に
話す形がよいでしょう」
「ええな。マイルドにご縁をつなぐ感じや」
「旦那様が前面に出なければ、かなりよいと思います」
「また俺だけ弾かれるんか」
「旦那様が出ると、ご縁が逃げます」
「ひどい」
ヨイチは筆を置いた。
「規模を大きくすること自体は、悪くありません。ですが、荒く使ってはいけません。
三千五百万文規模になったからこそ、取れるところは取り、撒くところは撒き、待つところは待つ。
そこを間違えると、一気に恨まれます」
「せやな。高く売るなら、理由がいる。銭を取るなら、返す場所がいる」
「その通りです」
「奈良は、焦らず、でも確実に広げる。草津は道。四日市は港。大和高田は次の足場。買い付け隊は
増やした分、ちゃんと回す」
「はい」
「ぼちぼちやっていこう」
「ぼちぼちの規模ではありませんが、方針としては正しいです」
博之は茶を飲み、少しだけ落ち着いた顔になった。
「でも、なんかいいご縁があったら、また使うかもな」
その瞬間、ヨイチとお花が同時にこちらを見た。
「旦那様」
「はい」
「それは一回相談してください」
「まだ何もしてへんやん」
「しそうな顔をしました」
「顔で止められるんか」
「止めます」
お花もにっこり笑った。
「三千五百万文あるからといって、縁談に三百万文積むのは禁止です」
「まだ言うてへん」
「言う前に止めます」
博之は畳に転がった。
「俺のご縁だけ厳重警備やな」
「店の存亡に関わりますので」
「そんな大層な」
「大層です」
ヨイチは帳面を閉じた。
「今期まとめです。総額三千五百三十万文。まるっと三千五百万文。買い付け隊増強により
八十七万文の上乗せ。四日市、奈良、草津の拠点増加により約百二十万文の上乗せ。
今後は奈良郊外の炊き出し、ご縁の会、大和高田方面の下準備、四日市港の安定化、
草津の道作りを優先」
「聞くだけで疲れる」
「やることは多いです」
「でも、まあ、道が見えてるならええか」
お花が静かに言った。
「旦那様。怖いでしょうけど、今回の増え方は悪くないと思います。人が動き、品が動き、
お坊様方も学びに来てくださっている。銭がただ積み上がっているわけではありません」
「そうやな」
博之は天井を見上げた。
「飯屋が、奈良と草津と四日市まで来たか」
「まだまだ広がります」
「そこは言わんでええ」
「事実です」
博之は、少し笑ってため息をついた。
「ほな、ぼちぼち、きっちりやっていこう。荒く使わず、でも必要なところには積む」
「それでよろしいかと」
「ただし、ご縁は相談」
「必ずです」
広間に笑いが起きた。
三千五百万文。
もはや、ただの飯屋の帳簿ではない。
けれど、博之はまだ畳に転がり、帳簿から逃げようとし、女衆に刺され、ヨイチに詰められている。
その情けなさが残っている限り、伊勢松坂屋はまだ、ただの金持ちにはならずに済むのかも
しれなかった。