作品タイトル不明
一方奈良のお坊様は奈良に戻ってから体験談を広める。継続的な交流を行うことを考え動く。
奈良の僧たちが戻ってきた時、寺の中は妙な緊張に包まれていた。
まず、銭がある。
伊勢松坂屋から寄進として積まれた百五十万文。すでに第一便、第二便と届き、
帳面も添えられている。大和八木の利益から出した分、伊賀の道を整えて送った分、
すべてきちんと筋が通っている。
若い僧たちは、その銭を見るたびに落ち着かなかった。
「本当に、これを受け取ってよかったのか」
「五十万文と書いたのはこちらだが……三倍で返ってくるとは」
「しかも、ただの寄進ではなく、交流のための銭だと言うておる」
そんな中、伊勢へ向かった一行が帰ってきた。
足取りは疲れている。だが、顔つきは出発前とは違っていた。
伊賀越えで鍛えられ、松阪で学び、伊勢で驚き、鳥羽や九鬼水軍の話まで聞いて帰ってきた顔だった。
寺の者たちは、すぐに集まってきた。
「どうでございましたか」
「伊勢松坂屋とは、どれほどのものだったのですか」
「百五十万文に見合う話でしたか」
年配の僧は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「世界が広がった」
その一言で、周りの僧たちは黙った。
「まず、松阪郊外の小さな寺で話を聞いた。そこは大寺ではない。豊かでもない。
だが、掃除が行き届き、町とつながっておった」
年配の僧は、座敷に腰を下ろし、旅の話を始めた。
「奈良や京では、寄進というものが身近にある。だが、松阪のような地方では、
大きな寄進などほとんどない。子どもに読み書きを教えて、少し米や銭をいただく。
法事でわずかな礼を受ける。時に炊き出しをする。それでどうにか寺を保っている」
若い僧たちは、息をのんだ。
「それで、どうやって寺が成り立つのですか」
「成り立たぬ。だから工夫するのだ」
年配の僧は続けた。
「そこへ伊勢松坂屋が現れた。最初はボロ小屋で豚汁を出すだけの店だったという。
飯が食えぬ子ども、行き場のない侍、身寄りのない者を集め、飯と寝床を与えた。
読み書きも算盤もできぬ者に、寺や食い詰めた侍が教えた。そこから縁が始まった」
「飯屋が、寺と?」
「そうだ。今では、伊勢松坂屋は大きくなりすぎた。働く者に飯と寝床を与え、給金も出す。
すると、働く者たちが町に出ず、うちうちで固まってしまう恐れがある。旦那はそれを怖がっていた」
「金持ちの悩みでございますか」
「いや、町を壊さぬための悩みだ」
年配の僧は首を振った。
「彼らは、寺を使って縁会を開く。お見合いの場、町の者が集まる場、飯を食べる場を作る。
お好み焼きというものを焼き、参加者から銭を取り、その売り上げを寺社へ寄進する」
「ただ寄進するのではないのですか」
「違う。寺が場を作り、人を集め、町とつながり、その結果として銭を受け取る。
もらうだけではない。寺も働くのだ」
その言葉に、僧たちはざわめいた。
「さらに、松阪の上司にも会った。伊勢松坂屋の飯は安くない。むしろ高い。だが、うまい。
高く売ることで、周りの飯屋を潰さぬようにしている。そして従業員には、よその飯屋へ行けと
札まで配っている」
「なぜ、そのようなことを」
「千人も抱える店だ。その者たちが三食すべてまかないで済ませたら、町から飯の客を奪うことになる。だから、あえて外で食わせる。町へ銭を戻すためだ」
若い僧の一人が、小さく呟いた。
「そこまで考えているのですか」
「考えている部分もあるし、飯を食わせたい、人を集めたいという思いが、
結果としてそうなっている部分もある」
年配の僧は、少し笑った。
「その後、九鬼水軍の船に乗った」
そこで、座敷の空気がまた変わった。
「船に?」
「海へ出られたのですか」
「怖くはなかったのですか」
「怖かった」
年配の僧は正直に言った。
「だが、見てよかった。海の男たちは、綺麗ごとでは生きておらぬ。魚を獲り、船を直し、
人に給金を払い、魚が売れねば困る。だから伊勢松坂屋と組む。魚のすり身を棒状にして揚げ、
伊勢で八十文、百文で売る。高いと思うだろう」
「高いです」
「だが、売れる。伊勢だからだ。参拝の記憶、熱々を食べる楽しさ、場所の物語。そこに値が乗る」
僧たちは、身を乗り出して聞いていた。
「伊勢神宮は、想像以上であった。人が多い。茶一杯が三十文で売れる。土産物屋が並び、飯屋が並び、祈りと商いが同じ道の上で息をしている。奈良とはまた違う世界だった」
「それほどですか」
「それほどだ」
年配の僧は、しみじみと言った。
「また、信楽焼の話も聞いた。伊勢松坂屋は信楽で仕入れた器を、こちら側で三倍ほどで売る。
最初は高いと思った。だが伊賀を越えてみれば分かる。あの道を荷を持って通る。寺に礼をし、地侍に筋を通し、飯場を置き、割れ物を守る。その手間を思えば、ただの上乗せとは言えぬ」
若い僧たちは、黙って聞いていた。
「伊勢松坂屋は、飯屋でありながら、道を作っている。奈良から大和八木を通り、
伊賀を越えて松阪へ来る道。近江の草津から関を通って伊勢へ入る道。どちらも見ている。
道に飯場を置き、荷を動かし、銭を流す。これは、ただの商いではない」
そこまで聞いて、別の僧が言った。
「定期的な交流を望んでおられる、という話は本当ですか」
「本当だ」
年配の僧は頷いた。
「奈良の僧が伊勢へ行き、伊勢の寺社や飯屋、神宮、港を見て学ぶ。逆に、こちらは奈良の書物、
薬、暦、寺社運営、仏法の知恵を伝える。そういう場を持ちたいと言われた」
「それは……私も行ってみたい」
一人が言うと、別の者もすぐに続いた。
「私もです。伊勢神宮の門前を見てみたい」
「九鬼水軍の船にも乗れるのですか」
「松阪の郊外の和尚という方と話してみたい」
「お好み焼きというものも見たい」
「魚のすり身が百文で売れる場を見たい」
座敷は、にわかに騒がしくなった。
最初、百五十万文の寄進は、重く、怖いものだった。
だが今、帰ってきた者たちの話を聞くにつれ、それはただの銭ではないと分かってきた。
伊勢へ行く道を買った銭。
奈良の知恵を外へ出すきっかけの銭。
寺社が町とどう関わるかを学ぶための銭。
年配の僧は、若い者たちを見回して、静かに言った。
「行きたい者は多かろう。だが、物見遊山ではない。学びに行くのだ。伊勢松坂屋は、
こちらをもてなすだろう。飯も出すだろう。だが、その分、こちらも何を持ち帰り、
何を返すかを考えねばならぬ」
若い僧たちは、真剣な顔で頷いた。
「はい」
「心得ます」
「それでも、行きたいです」
年配の僧は、少しだけ笑った。
「ならば、次の交流の人選を考えよう」
その言葉に、座敷が明るくなった。
伊勢松坂屋から来た百五十万文は、まだ重い。
けれど、その重さは、ただの負担ではなくなっていた。
奈良の寺社に、新しい外の世界への扉が開き始めていた。