作品タイトル不明
長野家を抜け伊勢松坂屋に来た若武者をいったん引き受ける。まずは給金三倍出すが下働きに耐えろ
若侍たちが飯を食い終えた頃、博之は改めて彼らの前に座った。
「まず、確認しとく」
若侍たちは背筋を伸ばす。
「うちは飯屋や。武家の屋敷やない。刀を差して偉そうに座ってたら飯が出てくる場所でもない。
下働きもあるし、荷運びもあるし、買い付け隊の護衛もある。道も歩く。飯も炊く。場合によっては、
皿も洗う」
「承知しております」
伊賀越えをした三人が、真っ先に頭を下げた。
博之は頷いた。
「ただし、前に言うたことは守る。伊賀越えした三人には、お前らの給金の三倍で雇うたると言うた。
だから、その建前は通す」
若侍たちの顔が揺れた。
「本当に、三倍でございますか」
「本当にや。約束したからな」
ヨイチが横で帳面を開く。
「現在の給金を教えてください。正確に。見栄を張って多く言えば、すぐに分かります。
少なく言っても意味がありません」
「はい」
「その三倍を、仮採用期間中も支給します。ただし、正式採用ではありません。
まず二週間、耐えていただきます」
別の若侍が、少し不安げに聞いた。
「二週間、でございますか」
「そうや」
博之は少し身を乗り出した。
「耐えろ。うちの仕事のやり方に耐えろ。飯屋の空気に耐えろ。女衆に怒られるのに耐えろ。
帳簿方に数字を聞かれるのに耐えろ。あと、武家の感覚が通じへんことにも耐えろ」
お花がにっこり笑う。
「特に最後が大事です」
若侍たちは、少し緊張した。
博之は続けた。
「うちの者は、基本として四十文で飯と寝床を用意してる。給金とは別に
食うところと寝るところがある。だから銭が残る。あんたらも同じ扱いや。
三倍の給金を出す代わりに、ちゃんと働いてもらう」
「はい」
「伊賀越えした三人以外の者も、ここへ来る覚悟をしたからには、同じように扱う。給金は三倍。
ただし、遊びに来たわけではない。逃げ場所として甘えるなら、二週間で帰ってもらう」
若侍の一人が、ぐっと拳を握った。
「働きます」
「よし」
博之は、そこで少し表情を変えた。
「で、その後や。殿様と仲直りするかどうかは知らん。戻ることになるかもしれんし、
うちで働くことになるかもしれん。そこはまだ決めん」
「はい」
「ただ、二週間耐えたら、まず白子、四日市あたりを見てきてもらう」
「白子、四日市ですか」
「船便で、買い付け隊と一緒に行け。九鬼水軍の筋もある。白子、四日市の港、亀山、関、
そのあたりを見てこい」
ヨイチが補足する。
「北伊勢の道と港の状況を見ていただきます。買い付け隊の護衛にもなりますし、
各拠点の様子を知ることにもなります」
博之は若侍たちを見た。
「あんたらが長野様のところに戻るにしても、その辺の情報を持っておくのは損やないやろ。
北伊勢の国人衆、港、街道、関から草津へ向かう道。そういうものを実際に見た若い侍は、
絶対に強い」
「草津まで行くのでございますか」
「草津まで行けるけど、今回は行かんでええ。そこまで行くと話が大きくなる。まずは白子、四日市、
亀山、関や」
「承知しました」
「ただし」
博之は、少し強く言った。
「長野家の者として行くんやない。伊勢松坂屋の者として行く。うちの袴を着て行け」
若侍たちは、少しだけ戸惑った。
「伊勢松坂屋の袴を」
「そうや。そこら辺は、うちの袴で通れる。少なくとも話は聞いてもらえる。逆に、
長野の名だけで通ろうとしたら、また変なことになる」
伊賀越えをした若者の一人が、深く頷いた。
「それは、身に染みております」
「やろ」
博之は苦笑した。
「だから、まずはうちの店の者として動く。特別扱いではある。給金も三倍や。けど、
うちの者には変わりない。偉そうにせず、相手の話を聞き、飯を食い、荷を守り、
見たものをちゃんと報告する」
「はい」
「それができるなら、うちは守る」
若侍たちは、一斉に頭を下げた。
「雇っていただき、ありがとうございます」
「まだ仮や」
「それでも、ありがとうございます」
博之は少し照れたように鼻をかいた。
「まあ、今日は疲れたやろ。話も重かったし」
若侍たちは、顔を上げる。
「はい」
「とりあえず、湯あみの高い方に入ってこい」
「今日は俺のおごりや。汚れ落として、飯食って、寝ろ。明日から働け」
若侍たちの顔が、ぱっと明るくなった。
「よろしいのですか」
「ええ。三倍の給金もらうんやから、最初くらい高い湯のありがたみ知っとけ」
「ありがとうございます!」
さっきまで重苦しかった若者たちは、案内役に連れられて、少し浮き足立ちながら湯浴みどころへ
向かった。
その背中を見送りながら、博之は小さく息を吐いた。
「……ややこしいことになったな」
ヨイチがすかさず言う。
「旦那様が以前、“来たら守る”とおっしゃったからです」
「それは言うた」
「そして本当に来ました」
「来たなあ」
お花が、少し柔らかい目で若侍たちの背中を見た。
「でも、若い子がああやって反骨心を持って、自分で居場所を選ぼうとしているのを見ると、
守りたくなるのでしょう」
「なるな」
博之は素直に言った。
「あいつら、伊賀越えして、信楽で恥かいて、殿様に言うべきこと言うて、それで飛び出して
きたんやろ。そら、ほっとけへんやん」
お花は苦笑した。
「旦那様、それがトラブルを持ち込んでいるんですよ」
「分かってる」
「分かっていてやるんですね」
「まあな」
ヨイチは帳面に新しい項目を書き込んだ。
「長野若侍仮採用。給金三倍。二週間観察。北伊勢買い付け隊同行予定」
「帳簿に書くなあ」
「書きます。揉め事ほど帳簿に残します」
「嫌な帳簿やな」
「必要な帳簿です」
博之は、畳にごろりと転がった。
「飯屋やのに、侍を三倍で雇って、北伊勢に送るって、何してるんやろな俺」
お花が笑った。
「飯屋だからです」
「飯屋だから侍雇うんか」
「飯と道を守るためには、侍も必要です」
ヨイチも頷いた。
「それに、彼らは長野家の内情を知り、伊賀越えも経験し、北伊勢を見れば、
今後の調整役としても使えます」
「お前、冷静に使い道考えるな」
「給金三倍ですので」
「元取る気満々やな」
「当然です」
博之は苦笑しながら、湯浴みどころの方を見た。
若侍たちの笑い声が、かすかに聞こえる。
彼らはまだ、伊勢松坂屋の者ではない。
長野家を完全に捨てたわけでもない。
けれど、少なくとも今夜は、飯があり、湯があり、寝床がある。
博之は、ぽつりと言った。
「まず飯や。まず湯や。話はその後や」
お花が静かに頷いた。
「そういうところが、旦那様らしいです」
「褒めてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
「面倒ごとを増やす人やな、と思っています」
「ひどい」
それでも広間には、どこか温かい空気があった。
長野から飛び出した若侍たちは、伊勢松坂屋に新しい火種を持ち込んだ。
だが同時に、新しい道の種でもあった。
白子、四日市、亀山、関。
北伊勢の道へ、彼らはこれから出ていく。
博之は天井を見ながら、少しだけ笑った。
「ほんま、どんどん飯屋から離れていくな」
ヨイチが即答した。
「いいえ。飯屋を広げすぎているだけです」
お花も笑った。
「それが一番厄介なんですけどね」
博之は、何も言い返せなかった。