作品タイトル不明
翌朝、奈良の僧たちは九鬼水軍に挨拶に行き伊勢神宮に海路で向かう。信楽の値段が原価の三倍になる意味や魚のすり身に100文の値が付く物語をきかされる
翌朝、奈良の僧たちは、九鬼水軍のもとへ向かった。
松阪で朝飯を食べ、袴を整え、案内役に連れられて港へ向かう。昨日まで伊賀の山道を越えてきた
身からすると、今度は海である。奈良の寺で暮らす者たちにとって、海の男たちというだけで、
どこか荒々しく、恐ろしいもののように思えた。
若い僧の一人が、小声で言う。
「九鬼水軍というのは、やはり怖い方々なのでしょうか」
案内役の女衆が笑った。
「怖いところは怖いですけど、今日は大丈夫です。伊勢松坂屋の客として行きますから」
「それは安心してよい言葉なのでしょうか」
「少なくとも、取って食われることはありません」
「昨日からそればかり言われますな」
そんなことを言いながら港へ着くと、そこには屈強な男たちがいた。
日に焼けた顔。太い腕。潮で色の変わった衣。
船の上で荷を動かし、網を整え、魚の入った籠を運んでいる。
奈良の僧たちは、思わず足を止めた。
「おお、来たか」
その中の一人、九鬼の顔役らしき男が、豪快に笑いながら近づいてきた。
「奈良の坊様方やな。遠いところよう来たなあ」
思ったよりも気さくな声だった。
年配の僧は、慌てて頭を下げる。
「このたびは、お世話になります」
「かたいかたい。今日は伊勢まで船に乗ってもらうだけや。山道よりは楽やろ」
「それは、ありがたいことでございます」
「まあ、船に酔わんかったらな」
若い僧たちの顔が少し青くなった。
九鬼の男たちは、それを見て笑った。
「心配すんな。今日は海も穏やかや」
そうして少し話しているうちに、奈良の僧たちの緊張も、少しずつほどけていった。
九鬼の顔役は、博之の方を見た。
「松坂屋さんとは、もう付き合い長いよな」
博之は頷いた。
「はい。いつもお世話になっております」
「最初は松阪の港や鳥羽の魚の話からやったか。あれが、今では伊勢、鳥羽、北伊勢、四日市、
信楽焼まで絡んでくるんやから、分からんもんや」
「私も分かってません」
「お前はだいたい分からんまま大きくするからな」
九鬼の顔役は笑い、奈良の僧たちへ向き直った。
「まあ、坊様方。松坂屋さんと仲良くしとる理由は簡単や。こっちは食わなあかん」
「食わなあかん、でございますか」
「そうや。わしらは海で飯を取る。魚を獲る。船を出す。人を抱える。働く者に給金を払う。
船も直す。網も買う。綺麗ごとだけでは回らん」
奈良の若い僧が、少し身を縮めた。
九鬼の顔役は続ける。
「寄進だけを待ってる寺さんとは違う、とは言わん。寺には寺の苦労があるやろう。けどな、
こっちは魚が売れんかったら、その日の銭が入らん。魚が腐ったら終わりや。船が壊れたら
修理代がいる。人が怪我したら面倒も見る。そうなると、金を稼ぐことから逃げられへん」
年配の僧は、静かに頭を下げた。
「耳が痛い話でございます」
「責めとるんやない。分かればええ」
九鬼の男は、少し声を柔らかくした。
「ただ、まだ全然分かってへんところがあるから、伊勢まで行く話になっとるんやと思うで」
「伊勢へ行くことが、でございますか」
「そうや。伊勢に連れて行かれるのはな、松坂屋さんの恒例行事みたいなもんや」
博之が横で苦笑する。
「恒例行事って言わんといてください」
「いや、実際そうやろ。揉めたら伊勢に連れて行く。分かってへん奴は伊勢に連れて行く。
飯食わせて、内宮見せて、店見せて、船に乗せて、だいたい考えが変わる」
奈良の僧たちは、顔を見合わせた。
昨日の伊賀越え、松阪の寺、松阪の城主、そして九鬼水軍。すでに十分考えは変わりつつあったが、
まだ伊勢が残っているらしい。
九鬼の顔役は、ふと思い出したように言った。
「そうそう。伊勢神宮の方で、松坂屋さんは魚のすり身を棒状にして、天ぷらで揚げたやつを
売っとるんや」
「魚のすり身を、棒に?」
「そうや。魚をすり身にして、形を整えて、棒状にして、油で揚げる。熱いうちに出す。
これがな、八十文や百文で売れとる」
若い僧の一人が、思わず言った。
「八十文、百文……でございますか」
「そうや」
「それは……かなり高いのでは」
「高いな」
九鬼の顔役は、平然と頷いた。
「どれほど上乗せしておられるのですか」
別の僧が恐る恐る聞くと、九鬼の男はにやりと笑った。
「そこや。坊様方、まだ分かってへん」
「分かっていない、ですか」
「伊勢神宮は、安く売ったらあかんのや」
奈良の僧たちは、さらに困惑した。
「安く売っては、いけない?」
「当たり前や。あそこはただの町場やない。参る人、泊まる人、土産を買う人、特別な日として
銭を使う人が集まる。そこで安く売ったら、周りの店も崩れる。場所の値打ちも崩れる。
しかも、あそこでは茶一杯三十文の世界やぞ」
「茶一杯、三十文……」
若い僧が、ほとんど呆然とした声で言った。
「どんな世界なんですか」
「そういう世界や」
九鬼の男たちは笑った。
博之も苦笑しながら説明する。
「お伊勢さんは、日常の飯場とは違います。安く腹を満たす場所ではなく、参った記念に
食べる場所です。魚のすり身を揚げただけと言えばそれまでですが、伊勢で食べる、
熱々を食べる、魚の香りがする、参拝の記憶に残る。そこに値が乗るんです」
九鬼の顔役が続ける。
「わしらから見てもありがたいんや。今まで値がつきにくかった魚や、余りがちな魚が、
すり身になって、揚げ物になって、伊勢で八十文、百文になる。もちろん全部が利益やない。
人も使う。油も使う。場所も使う。神宮周りの筋も通す。寄進もする。けど、魚の価値が
上がるのは確かや」
年配の僧は、深く頷いた。
「なるほど。値は、品そのものだけでは決まらぬのですね」
「そうや。場所、物語、手間、見せ方、人の流れ。全部で値が決まる」
博之が小さく言った。
「それを最近、私も痛感しております」
「お前は痛感しながら次々やりすぎや」
「そこは反省してます」
「嘘つけ」
九鬼の男たちはまた笑った。
そこで九鬼の顔役は、近くに置かれていた信楽焼の小皿を手に取った。
「それと、坊様方。これも同じ話や」
「信楽焼でございますか」
「そうや。松坂屋さんは、信楽焼を買い付けて、こっち側でだいたい三倍くらいの値で売っとる」
若い僧が目を丸くした。
「三倍ですか」
「そう聞くと高いやろ」
「はい。かなり」
「でもな、これも道があるんや。伊賀を越えて、信楽まで行って、顔を作って、買い付けて、
荷を守って、寺に寄進して、地侍に護衛料を払って、飯場を置いて、荷を運んで、
割れんように気を使って、ようやく松阪や伊勢に届く」
奈良の僧たちは、昨日自分たちが通ってきた伊賀の道を思い出した。
足が痛み、草鞋が切れ、地侍に迎えられ、寺で泊まり、飯を食わせてもらった道。
その道を、器を抱えて何度も通る。
それを思えば、三倍という値も、ただの上乗せではないのだと少し分かってきた。
九鬼の顔役は続けた。
「それに、信楽焼を使うと飯がうまそうに見える。店の格も上がる。従業員も欲しがる。
客も欲しがる。そうなると、ただの皿ではなくなる」
博之が頷く。
「うちでは、信楽焼を従業員向けにも売っています。ただし、一人一個までとかにして。
そうしないと古参衆が買い占めますから」
「金持っとるからな、あいつら」
九鬼の男が笑う。
奈良の僧は、少し呆れたように聞いた。
「従業員の方々が、信楽焼を買うのですか」
「買います。飯と寝床があるので、給金が残るんです。だから、そういうところで銭を使わせる。
使わせると言うと悪いですが、町や道へ銭を戻す意味もあります」
年配の僧は、静かに呟いた。
「魚のすり身も、信楽焼も、値が上がる理由があるのですね」
「そうや」
九鬼の顔役が頷いた。
「高いから悪い、安いから善い、という話ではない。高く売る場所、高く売る意味、
高く売った後の銭の流し方。それがあるかどうかや」
若い僧は、言葉を失っていた。
寺の中で考えていた寄進や商いとは、まるで違う。
値段は、物の量だけではない。
場所、道、信用、手間、物語、危険、そしてその後に銭がどこへ流れるか。
そこまで含めて値になる。
やがて、船の準備が整った。
「さあ、乗ってくれ」
奈良の僧たちは、少し緊張しながら船へ足をかけた。揺れる足場に、若い僧の一人が思わず
手すりを掴む。
「おお、慌てるな。足は広げて、船と一緒に揺れろ」
九鬼の若い衆が、気さくに手を貸してくれた。
「す、すみません」
「山の坊様には船は怖いやろ。わしらは逆に、伊賀の山道が嫌や」
「それは、少し分かります」
年配の僧も、案内されて船に座った。
潮の匂いが濃くなる。
岸では、魚籠を運ぶ者、網を干す者、伊勢松坂屋の袴を着た案内役が見送っている。
船がゆっくり動き出した。
奈良の僧たちは、思わず息をのんだ。
陸が離れていく。
波が船底を叩く。
海の光が揺れる。
九鬼の顔役が、海を見ながら言った。
「これが海の道や。松坂屋さんは、陸の飯屋やと思われがちやけど、今は海も使っとる。
魚が入り、伊勢へ流れ、鳥羽へ流れ、北伊勢へ流れる。そこで銭が生まれる」
年配の僧は、その言葉を聞きながら、昨日からの話を思い返していた。
郊外の寺では、寄進の意味を聞いた。
松阪の上司からは、町に銭を戻す商いを聞いた。
九鬼水軍からは、食っていくための実利を聞いた。
そして今、船の上で、値段とは品だけではなく、場所と道と物語で決まるのだと聞いている。
若い僧の一人が、小さく呟いた。
「我らは、本当に寺の中しか見ておりませんでしたな」
年配の僧は、静かに頷いた。
「だからこそ、来た意味があるのでしょう」
船は、伊勢へ向かって進んでいく。
奈良の僧たちは、まだ少し船に怯えながらも、目の前に広がる海から目を離せなかった。
伊勢松坂屋が作った道は、山だけではない。
町だけでもない。
海の上にも、確かに伸びていた。