軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

未来のための投資をしましょう2

「お嬢ちゃん、メモリアのお店だけど——閉店しない?」

「は?」

治療院の廊下で投げかけられた、思わぬ言葉。静かな空気の中、マリウムの静かな瞳がこちらを見下ろしていた。

彼はとてもわかりやすい人だ。己の欲求に正直で、口にする言葉に嘘がない。心の中で悪巧みをするようなタイプでもない。気に入らないことは気に入らないと、言葉のみならず行動で示す。過去にいろんな職場でうまくいかず、一級品の技術の持ち主であるにも関わらず居場所を転々とせざるを得なかったその理由も、わかるというものだ。

加えてとても頭のいい人だ。傍若無人を地で行っているが、状況はすべて把握している。その上で無茶を、いや無茶のぎりぎりの下限を要求してくるような人だ。

だから彼はわかっているはずなのだ。メモリアのお店がどういう意味を持つのかを。背後にあるリカルド様やトゥキルスとの関係性はもちろん、馬車事業への無理な出資を押し通した我が家の経済状況も、その費用を賄うために出資を募る我が家が、王都から店を撤退させることに伴う風評の危険さも。

「……理由を教えてもらえるかしら」

すべてを理解している彼が言い出したことに、意味がないはずがなかった。震えそうになる声を抑え、彼を見上げた。

「……小僧のためを思うなら、店は畳んだ方がいいって、そう思ったのよ」

「ラファエロのため?」

予想外の答えに私は首を傾げた。だが、ラファエロが倒れた今の段階でマリウムが切り出した話だ。無関係ではないだろうと納得する。

「小僧には、この仕事は難しいわ」

「この仕事が難しいって……そんなことはないでしょう」

彼の調香の才能はマリウムも太鼓判を推したはずだ。

けれどマリウムは微かに首を振った。

「調香技術のことを言ってるんじゃないわよ。店に立たせること自体が難しいってこと」

「それって、接客が無理ってこと? 確かにマリウムや他のスタッフが指導してくれたけど、メインで任せるのは難しいだろうって結論にはなったわ。でも、だから彼は直接応対はせずに、お客さんの前でパフォーマンス的に調合だけしてもらうってことで話はついてたんじゃなかった?」

「そうなんだけど、その“お客さんの前で調合だけ”っていう働き方が、すでにしんどいって言ってるの。接客は他のスタッフがやるけれど、同じ空間にあの子もいることになる。そして調香のオーダメイドの客のほとんどが貴族。無味無臭の貴族のお客さんが、いったいどれほどいると思う?」

「あ……」

そこまで言われて私はようやく悟った。ラファエロは天才的な鼻の持ち主だ。それが故に余計な匂いまで嗅ぎ取ってしまう。特に人工的な香り——香水やタバコ、安い洗剤や石鹸――そうしたものを異常に苦手にしていた。それはただの好き嫌いを通り越して、身体に影響するほどに。

「まさか、ラファエロが倒れた理由って……」

「あの子、自由人に見えるけど、相当努力していたわよ。いえ、させられてたというべきかしらね。嫌な匂いに遭遇しても、ちょっとは我慢するようにって、アタシもほかのスタッフも注意してた。孤児院を卒業するときにも向こうで相当言いふくめられたみたい。だからわざわざ嫌いな匂いの洗剤を手に入れて、アパートに置いたりもしてたわ。慣れる練習をしてたんでしょうね」

子どもとはいえ13歳。自分が自立しなければならないことは十分に理解しているはずだ。ほかの子どもたちがどんどん仕事を得ていく中で、自分だけが何もできないことを、なんとも思っていないわけがなかった。そこへ提示された調香の仕事。彼自身、苦手と立ち向かいながら、なんとか慣れようと努力していた。

私は俯き、奥歯を噛んだ。彼がそこまで自分の身体を酷使して頑張っていたことを、私は「少しは慣れてきたようだ」と勘違いしていた。彼のために衣食住を整えてあげたと、どこか上から目線で世話をしていたようにも思う。

ここ以外に居場所はないと気を張って、苦手な匂いが充満する店内でも我慢して。その結果がこれだとしたら、やはりその責任は私にある。

けれど。

「ラファエロがもし、まだお店に残ってくれるのだとしたら、もう店頭には出なくていいってことにするわ。応接室の出入りもなしで。調香だけに集中できるよう、離れ屋を作るとか……それじゃ駄目かしら」

ラファエロをこんな目に合わせておきながら、それでも今、メモリアを失うことはできなかった。彼の犠牲を極力取り除いて、新たな環境のもと仕事をしてもらえないか。

そう願ってしまう私に、マリウムはまた凪いだ目を向けた。

「栄養失調の原因は、ちゃんとした食事がとれていないからよ。ポテト食堂で3食とれるよう手配したみたいだけど、あの子が食べられるものが食堂のメニューにはほとんどないのよ。あの子、極度の偏食でしょう?」

マリウムの発言にまたしても目を丸くする。同時に以前クレメント院長から聞いた話を思い出す。食べ物に対するこだわりも強く、白っぽいものしか食べないと。孤児院では彼のために特別メニューを出すことも多かったが、一番安心して食べられるのがふかして塩をふったじゃがいもだった。ほかにもじゃがいもを使った料理は白いものが多いのでとても助かっているという話も。

とはいえポテト食堂は食堂だから、メニューが決まっている。料理人は初代のガンじいさんから、孤児院出身の若いスタッフに既に変わっていた。大教会近くには食事を出す店が少なく、連日大賑わいのポテト食堂。既に孤児院を出たラファエロのために、特別メニューを出してはくれない。

「社宅のアパートで調理器具を買って、スタッフが教えてはいたそうよ。自分でじゃがいもを買って、茹でたり潰したりってことくらいはできてたみたいだし、ほかにもいろいろ。だけど連日の仕事疲れと気疲れで、買い物に出るのも大変だったのか、食欲自体がわかなかったのか。店を本格オープンしてからはほとんど食べてなかったみたい」

医師の診察の際、一瞬目を覚ましたラファエロの問診に立ち会ったマリウムは、彼の現状を直接聞いたそうだ。

「食事に関しては、なんとかテコ入れできるでしょうね。スタッフがローテーションでも組んで彼の食事の世話をするとか。それくらいの予算をつけても、あの子の稼ぎで十分お釣りがでるわ。……でも、それだけじゃないのよ。そもそも人の多い王都で、これだけたくさんの喧騒や匂いに溢れている中で、あの子の身体や精神が、今以上に摩耗していく未来しか見えない。孤児院のような隔離された規則正しい空間でならなんとかなったのかもしれないけど……正直、この先は厳しいと思う」

つまり仕事環境だけでなく、生きていく環境として、この都が彼には合っていないということ。今は持ち直しても、また同じように身体を壊してしまう状況がやってくることは否めない。

マリウムは大きく息を吐いたあと、不意に低い声を出した。

「……メモリアはラファエロがいるから成り立つ店だ。そのラファエロが、ここでは生きられねぇって心の中で訴えてる。だったら店は――終わりにすべきだ」

久々に聞いた、彼の地の声。いつものやや甲高い響きのない、素の思いが滲んだことばは、彼の本気の呟きだと、私は既に知っている。

「メモリアを、閉店……」

オープンしてまだ3日。ありがたいことに予約はそこそこ埋まっている。既製品のシャティ・クロウ名付け製品の売れ行きも悪くない。収支報告をリカルド様にするのが楽しみなほどに。

目先の売上だけの話ではなかった。頭の中にトゥキルスへの旅路の記憶が蘇る。あちらで見た光景、女王陛下やマクシミリアン王配殿下のお言葉、国軍のノゼッティ隊長との会話、伯爵翁様やパトリアシア様等、アッシュバーン家の方々の思い、ギルフォードと思い描いた未来――。それらの上にようやく建てることができた、小さな道標。それがメモリアだ。

事業に失敗したのならともかく、歩み始めたばかりの未来あるこの道を、あえて終わらせる必要が、どこにあるというのか——。

噛み締めた奥歯をゆるめ、私は毅然と顔を上げた。