軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 悪女と呼ばれた夜会/夫の印章、妻の筆跡

王都の噂は、雨より早く人を濡らす。侯爵家を出て三日目、私は外務院主催の小夜会に出ることになった。南方連盟の使節を迎えるための形式的な集まりで、通常なら夫が出席し、私は屋敷で清書をしていただろう。今夜は違う。招待状には、イザベル・レヴィエ殿と書かれていた。

ドレスは新調できなかった。マルタが侯爵家から持ち出した私物の中から、紺色の古い夜会服を選び、襟元のほつれを丁寧に直してくれた。宝石は小さな真珠だけ。派手ではないが、動きやすい。

「戦いに行く服としては、よろしいかと」

マルタが背中の紐を結びながら言った。

「夜会は戦場ではありません」

「奥様の夜会は、だいたい戦場でした」

「奥様ではないわ」

「失礼いたしました、イザベル様」

彼女は訂正しながら、少しも反省していない顔をした。会場に入ると、会話が一拍遅れた。その遅れだけで、噂の内容は分かる。夫を捨てた女。侯爵家の恩を忘れた妻。大使に媚び、隣国公爵に取り入った悪女。直接言う者はいない。貴族の夜会では、悪意も絹で包む。ただし包んでも匂いは漏れる。

「まあ、レヴィエ様。お久しぶりですこと」

最初に近づいてきたのは、伯爵夫人のエヴァンジェリンだった。社交界の噂を集めることで有名な人だ。扇の奥で微笑んでいる。

「侯爵家を出られたとか。お疲れだったのでしょうね」

「ええ。睡眠時間は増えました」

彼女の眉が少し動く。

「でも、旦那様はお困りでしょう。夫婦のことは、夫婦で収めるのが一番ですわ」

「外交文書の誤訳は、夫婦では収まりません」

「まあ、堅いお話」

「今夜の夜会は外務院主催ですから」

周囲の数人が視線をそらした。私は杯を受け取った。酒ではなく、薄い果実水だ。仕事の席で酔う癖はない。会場の奥には、アルマンとリリーヌがいた。リリーヌは淡い桃色のドレスで、私が南書庫に置いていった真珠の髪飾りをつけている。私物ではなく侯爵家の備品だと彼女は思っているのかもしれない。アルマンは私に気づくと、顔をこわばらせた。

そこへ、クロイツ公爵が現れた。彼が入ってくるだけで、会場の音が少し低くなる。冷淡な公爵は噂話の相手には向かない。誰も余計な言葉を投げられないのだ。公爵は私の横に立った。

「レヴィエ顧問」

「クロイツ公爵閣下」

その呼び方だけで、周囲に小さな波が立った。顧問。妻でも、悪女でもない。業務上の肩書きだ。

「南方連盟の代表が到着しました。港湾語を交えた挨拶を望んでいる」

「承知しました」

私は会場中央へ進んだ。南方連盟の代表、レイモンド商務使は、ふくよかな体格の中年男性だった。彼は私を見ると、目を細めた。

「あなたが、衝立の通訳官か」

港湾語だった。私は同じ港湾語で返した。

「今夜は、衝立の前におります」

彼は声を上げて笑った。その笑いで、会場の緊張が少しほどける。挨拶は長くなかった。私は南方連盟の商務上の懸念に触れつつ、第七条の修正案が港湾側の労働契約と混同されないよう補強してあることを説明した。港湾語で説明し、王国語で要約し、最後に北方語の一文を添える。

大使たちが頷くのが見えた。アルマンの顔色は悪くなっていた。挨拶が終わると、レイモンド商務使が私の手を取った。

「名前を聞いてもよいか」

「イザベル・レヴィエです」

「覚えておこう。文は人の名で責任を持つものだからな」

その言葉は、会場のあちこちへ届いた。リリーヌが目を伏せる。アルマンは杯を握りしめていた。夜会の後半、エヴァンジェリン伯爵夫人が再び近づいてきた。

「レヴィエ様、先ほどのご挨拶、皆様お褒めでしたわ。やはり才能のある方は、少し個性的でも許されるのね」

「個性的ですか」

「ええ。夫君を置いて出ていくなんて、普通はなかなか」

私は杯を置いた。

「夫君を置いて出たのではありません。私の名を置いていくのをやめただけです」

伯爵夫人は扇を止めた。言い返す言葉を探す前に、クロイツ公爵が横から静かに言った。

「今夜の議事録には、レヴィエ顧問の発言として記録されます。伯爵夫人のご懸念も、記録に必要ですか」

「まさか」

伯爵夫人は笑顔を固め、軽やかに離れていった。私は公爵を見上げた。

「助けていただくほどのことでは」

「記録に残した方がよい悪意と、残す価値のない悪意がある」

「今のは後者ですか」

「あなたが傷ついたなら、前者になる」

不意に、返す言葉がなくなった。会場の音楽がゆっくり流れる。シャンデリアの光が、彼の銀灰の髪に淡く乗っていた。言葉のプロが二人、並んでいる。それなのに私は、ただ杯の縁を見つめた。公爵も何も言わなかった。その沈黙は、衝立の後ろにいた頃の沈黙とは違った。

隠されるためではなく、待つための沈黙だった。

南方連盟の夜会の翌朝、外務院にアルマンの抗議文が届いた。宛先は外務卿。内容は、私が侯爵家の公的文書を不当に持ち出し、隣国公爵へ機密を漏らしているというものだった。封蝋はヴァルニエ侯爵家の印章。文面は王国語。末尾には堂々と夫の署名がある。

私は公文書館の机で、それを静かに読んだ。オリーヌは隣で固まっている。サラは写字練習用の紙を握りしめたまま、眉を吊り上げていた。

「ひどいです」

「声を落として」

「でも、イザベル様は何も盗んでません」

「だから証明します」

怒りに言葉を任せると、相手の望む形になる。紙には紙で返す。私は抗議文を三つに分けて読んだ。事実、推測、感情。外交文書では、この三つを混ぜるほど弱くなる。

「持ち出したとされる文書名が曖昧ですね」

オリーヌが恐る恐る言った。

「そう。原本なのか写しなのか、草案なのか、注記なのかが書かれていません」

「機密漏洩の箇所も、具体的ではありません」

「具体的に書けないからです。私が持っているのは、私名義の学習写しと任用証の控えだけですから」

私は別紙を用意した。まず、侯爵家に置いてきた公文書原本の一覧。次に、私が持ち出した私物の一覧。最後に、侯爵家が過去十年に私の筆跡で提出した文書の照合表。ここが厄介だった。夫の印章が押された文書の中に、私の筆跡がある。

それは、私が存在した証でもあり、夫が私を使った証でもある。しかし同時に、彼が「妻が勝手に書いた」と主張する余地も残す。名がない労働は、後から誰のものにもされる。私はその怖さを、今さら骨で理解していた。

「レヴィエ顧問」

クロイツ公爵が書庫へ入ってきた。彼は抗議文を一読し、眉をわずかに動かした。

「雑だな」

「雑な文ほど面倒です。穴が多すぎて、どこから塞ぐか迷います」

「必要ならカルヴァレン側から、あなたが機密を提供していない証明書を出す」

「ありがとうございます。ただ、まず王国側の記録で対応します。隣国公爵の証明だけに頼ると、夫の主張を補強します」

「私と近すぎると思われるからか」

その言葉に、オリーヌが下を向いた。サラはきょとんとしている。私は羽根ペンを置いた。

「はい」

正直に答えるしかなかった。

「私はあなたの契約で働いています。それは正当です。けれど、王都の噂は正当性より絵を好みます。夫を捨てた女が隣国公爵の庇護に入った、という絵を」

「不快だな」

「私もです」

公爵は少し沈黙した。

「では、私が離れるべきか」

その問いに、胸が詰まった。彼の声は淡々としている。だが、そこにあるのは冷たさではない。私の仕事を守るためなら、自分が悪く言われる場所から退くという提案だった。私はすぐに返事をしなかった。近すぎると噂になる。離れすぎると、夫は私を孤立させたと見る。

外交と同じだ。距離を間違えれば、意味が変わる。

「離れないでください」

言ったあと、自分の声が少し硬くなったのが分かった。オリーヌがペンを落とした。

「業務上、必要な距離でいてください。私も、あなたの庇護ではなく契約で立ちます」

公爵は私を見た。

「分かった」

たったそれだけだった。けれど、私にはありがたかった。昼過ぎ、外務院の記録室から過去の文書が運ばれてきた。厚い革表紙の綴りが六冊。そこには夫の印章と、私の筆跡が交互に並んでいる。

「これ、全部イザベル様が?」

サラが小声で言った。

「全部ではないわ。夫が本当に書いた箇所もある」

「どこですか」

私は一冊を開いた。夫の筆跡は大きく、末尾の飾りが派手だ。私の筆跡は行間が狭く、修正記号が古帝国式。二つは明らかに違う。

「ここ。挨拶文と、称号の部分」

「少ないです」

「挨拶も大事よ」

そう言うと、サラは不満そうに頬を膨らませた。私は笑いそうになり、すぐに真顔へ戻った。抗議文への返答には、感情を書かない。持ち出していない事実。持ち出した物が私物である証明。過去文書の作成実態については、外務院の内部監査に委ねること。

最後に一文だけ、私の意思を入れた。私は今後、私の名が記録されない文書作成には関与しない。書き終えると、指が少し痛かった。オリーヌが清書を始める。サラは乾いた砂でインクを押さえる。マルタは昼食のパンを切ってくれた。

机の上に、夫の印章と妻の筆跡が並んでいる。同じ紙の上にあったものを、ようやく分ける時間が来ていた。