作品タイトル不明
旧友の背中、届かぬ頂(前編)
Bランク最上位ボスを酔い潰れながら(物理的に)圧殺し、深層への鍵を手に入れた翌日。
俺は安アパートの四畳半で、手に入れたばかりの漆黒の鍵――【深層の 鍵(ディープ・パス) 】を無言で見つめていた。
これを使えば、特級エリクサーをドロップするAランクのエリアボス、『 蒼竜(ブルードラゴン) 』の元へ辿り着くことができる。
だが、今の俺にはAランクダンジョンに関する知識が決定的に不足していた。ただの事務員だった頃、取り扱う書類はせいぜいCランク以下の冒険者に関するものばかりで、Aランクという国家機密レベルの領域については、ほとんど情報を持っていなかったのだ。
「……誰かに、正確な情報を聞くしかないな」
裏社会の令嬢であるまどかに聞くという手もあるが、これ以上彼女を深く巻き込めば、左京の毒牙が彼女の命を本格的に刈り取りに来かねない。それに、昨日あれだけ「自殺行為だ」と止められたばかりだ。
となれば、頼れる人間は一人しかいない。
俺はスマホの連絡先を開き、一つの番号を見つめた。
冒険者協会時代の元同僚であり、今や日本に数人しかいない最高位、Sランク冒険者へと上り詰めた男―― 剣崎(けんざき) だ。
適性なしを理由に協会を理不尽に解雇されたあの日。絶望の底にいた俺に電話をかけ、「妹さんの治療費なら、俺がなんとか一億円融通してやる」と申し出てくれた親友。
だが、当時の俺は自暴自棄になっており、「Sランク様のご同情なんていらねえよ」とその厚意を無下に断ってしまったのだ。
ずっと、胸の奥に刺さったままの棘。
俺は小さく深呼吸をして、通話ボタンを押した。
『……もしもし?』
「……剣崎。俺だ、結城誠だ」
数回のコールの後、少し驚いたような、しかしどこか懐かしむような声が響いた。
『誠か……! お前、ずっと連絡がつかなかったから心配してたんだぞ。妹さんの具合はどうなんだ?』
「ああ、なんとかやっている。……剣崎、その節は悪かった」
俺は、スマホ越しに深く頭を下げた。
「お前があの時、一億円を融通してくれるって言ってくれたのに、俺は酷い言葉で突っぱねた。自分の不甲斐なさを、お前に八つ当たりしたんだ。……本当に、すまなかった」
『……バカ言うな。そんなこと気にしてたのか。俺がお前の立場でも、同じように荒れてたはずだ。謝る必要なんてないさ。それより、無事だったことが何より嬉しいよ』
日本最強の一角となった今も、その声の温かさは昔のままだ。
「ありがとう。……剣崎、少し頼みがあるんだ。お前にしか聞けないことがある。一度、会って話せないか?」
『ああ、もちろんだ。明日、ちょうどオフなんだ。昔よく行ってた、あそこのカフェでどうだ?』
◆
翌日。
約束の場所は、人の良い姉弟が切り盛りしている、路地裏の静かなカフェテリアだった。
ここは協会時代、二人で良くサボりに来ていた思い出の場所だ。
カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、すでに奥の席に「それ」はいた。
剣崎だ。
見た目は以前の大人しかった面影を残しているが、その纏う空気はもはや別次元だった。
ラフなTシャツ姿なのに、周囲の空間が歪んでいるかのような圧倒的な魔力密度。
鍛え抜かれた肉体から漏れ出す、野生の猛獣すら凍りつかせるような強者のプレッシャー。
店内の他の客たちが、無意識のうちに彼から数メートル距離を置いているのが、今の俺の【気配察知】には手に取るように分かった。
「誠! こっちだ」
笑顔で手を振る彼。立ち振る舞い自体は以前の気のいい剣崎そのものだが、その背後に見える「死線を潜り抜けた英雄」の影に、俺は一瞬だけ足を止めた。
「剣崎……お前、本当に遠くへ行ったんだな。座ってるだけで空気が震えてるぞ」
俺が向かいの席に座ると、剣崎は苦笑いして魔力によるプレッシャーをスッと消した。
「よせよ、誠。仕事の癖が抜けないんだ。お前こそ……なんだそのガタイは。それに、今の俺の魔力を感じ取ったのか? ただの事務員じゃ、今のプレッシャーには耐えられないはずだが」
鋭い。
Sランクともなれば、隠しきれない俺の肉体の変貌を敏感に嗅ぎ取っているようだ。
俺は「ジムに通い詰めただけだ」と適当に誤魔化し、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。
♦︎
「で、美桜ちゃんの具合はどうなんだ? お金の工面は……」
「ああ、美桜は今のところ安定している。金に関しても、とあるツテができてな。とりあえず当面の維持費である一億円の目処は、なんとか立ちそうなんだ」
俺がそう告げると、剣崎は心底ホッとしたように息を吐いた。
「そうか……! よかった、本当によかった。お前が一人で無理して、怪しい連中に利用されてないか心配だったんだ」
……現在進行形で裏社会の組織の専属護衛をやっているとは、死んでも言えない。
俺は少し視線を逸らしつつ話を本題へと切り替えた。
「心配かけてすまない。……それで今日の本題なんだが、剣崎。Sランクの……現場を知るお前にしか聞けない。Aランクダンジョンについて教えてほしい」
「Aランク……?」
剣崎の顔つきが、旧友の顔から、一瞬にして冒険者としての険しいものへと変わる。
「……誠。お前も元職員なら知っているはずだ。BランクとAランクの間には、決して越えられない『次元の壁』があることを」
「次元の壁?」
「ああ。Bランクは『攻略対象』だが、Aランクは『災害』だ。
そこに棲む魔物たちは、物理法則そのものを書き換える。特にお前が名前を出した『蒼竜』のダンジョン……あれはAランクの中でも、上位に位置する死地だ」
剣崎の言葉には、実体験に基づいた重みがあった。
「蒼竜の吐くブレスは地形を変え、その鱗は並の物理攻撃を無効化する魔法障壁を纏っている。
……誠、あれは人間が挑む領域じゃない。
俺たちSランクがパーティーを組んで、ようやく『生存』できるかどうかの場所だ」
生還率の問題ではない。
最高位のSランクですら「死」を意識せざるを得ない場所。
俺がこれまでに殴り殺してきたBランクのボスたちが、まるで幼稚園児の喧嘩に思えるほどの絶望感が、そこにはあった。
「……なるほどな。そのAランクの最深部へは、どうやって入るんだ? Bランクの深層から繋がっているというのは本当か?」
「入り方……? ああ、第8エリアなどの高難易度ダンジョンの最深部には、Aランク領域へ繋がる『特異ゲート』がある。
そこを通るには、通常Bランクのボスが守っている『深層の鍵』と協会が発行するライセンスが必要不可欠だ。……だが誠」
剣崎は身を乗り出し、射抜くような鋭い視線で俺を捉えた。
「……なんでお前、そんなことを聞くんだ? こんなこと言うのはアレだが、そもそも、お前は冒険者としての『適性なし』の烙印を押されてるだろ?
Aランクダンジョンの入り方なんて知って、どうするつもりだ?」
友人の忠告であり、最強の冒険者としての警告。
俺は冷や汗を流しながら、必死に「事務員時代からの個人的な好奇心だ」とお茶を濁した。
金の問題もクリアしたし、ただ気になっただけだと。
「……本当にそうか? 誠、何か困ったことがあれば、いつでも俺に相談してくれ。お前がもし、無茶なことをしようとしているなら、俺は全力で止めるぞ。……友人を失いたくないからな」
その言葉に俺は何も言えなくなった。
親友にこれ以上の嘘を重ねる罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、俺たちはそのまま別れの挨拶を交わし、カフェを出た。
◆
剣崎の背中を見送った後、俺は新宿の冷たいビル風に吹かれながら、一人立ち尽くしていた。
Sランクですら死を覚悟する蒼竜の強さ。
それに知力20の俺が挑むという無謀さ。
「……蒼竜。Sランクの部隊でも、生存がやっと、か」
だが、俺を戦慄させたのは、蒼竜の圧倒的な暴力だけではなかった。
剣崎との会話を脳内で反芻し、ある「致命的な欠落」に気づいてしまったのだ。
「……待てよ。特異ゲートを通過するには、協会が発行する『ライセンス』が必須だと言っていたな」
俺の背筋に、氷を流し込まれたような寒気が走った。
今の俺のインベントリには、クリスタル・セージから強奪した【深層の鍵】がある。物理的な関門を突破する手段はあるのだ。
しかし、ダンジョンという巨大なインフラは、国と協会によって厳重に管理されている。
最高難易度のAランクゲート。
そこを通過するためには、最高レベルの身元確認と、国が認めた『Aランク以上の冒険者ライセンス』の提示が絶対に必要になる。
「俺は……『適性なし』で協会をクビになった、ライセンス無所持のただの一般人だぞ……?」
どれだけ筋力が1500を超えようと。
どれだけ強力なボスの鍵を持っていようと。
そもそも、ゲートの「受付」を通るための、たった一枚のプラスチックカードが、俺には存在しない。
「マスター……。どうやら私たちは、ドラゴンを殴り殺す以前に、ゲートの警備員に『部外者立ち入り禁止です』と怒られて追い返されるという、あまりにも社会的な壁にぶち当たったようです……」
エク子の絶望的な宣告が、脳内に響き渡る。
100億の特級エリクサーを目前にして、俺は「資格がないから入場できません」という、元事務員にとってあまりにも皮肉で、そしてどうしようもない現実の前に、戦慄し、立ち尽くすことしかできなかった。