軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

迷宮氾濫8  喪失

「あ……ああ……」

溢れ出す記憶。

そうだ。思い出した。

わたしの名前は、ユト。誇り高き鬼人族の姫。

そして、あの白髪の大男は、幼い頃からずっとわたしを守り、わたしのために命を懸けてくれていた忠臣、キバ。

キバは、わたしを探しに来てくれたんだ。

わたしを助けるために、こんな暗い森の奥底まで。

でも。

脳裏に浮かぶのは、それだけではなかった。

『ほら、食べてみろ。弁当に入ってた唐揚げの、もっとデカくて熱いやつだ』

『凛とした強さを持って、元気に育ってほしいっていう願いを込めてな』

『おじさんが、パパッと追い払ってやるから』

結城誠(おじさん) と過ごした、短かったけれど、温かくて、美味しくて、楽しくて、たまらなく幸せだった日常。

人間は、餌じゃなかった。

一緒に笑って、一緒にご飯を食べてくれる、温かい存在だった。

だけど。

(……わたしは、鬼人族の姫……)

ニンゲンと魔物は、決して相容れない。

キバは人間を殺すし、人間はキバを殺す。

わたしが『ユト』である以上、あの温かいアパートに帰ることは、もう、許されないのだと。

凛は、その残酷な事実を、完全に理解してしまった。

戦場は、すでに終局を迎えていた。

「ガハッ……! ば、ばかな……私が、ニンゲンごときに……!」

能力の大部分を奪い尽くされたキバは、両膝を突き、口から大量の血を吐いて黒曜石の地面に倒れ伏した。

もはや抵抗する力は残されていない。逃げることすら叶わない。

暴走状態の俺は、一切の感情を持たない亡者のように、ゆっくりとキバの前に立った。

右腕を振り上げる。

キバの命を、存在を、完全にこの世界から消し去るための、無慈悲な処刑の一撃。

俺の拳が、キバの心臓を目掛けて撃ち抜かれる、その刹那だった。

「だめぇッ!!!」

小さな影が、俺とキバの間に飛び込んできた。

凛だった。

「ユト、様……!?」

キバが絶望に目を見開く。

俺の拳は、止まらなかった。

いや、暴走した意識下では、止めることなど不可能だった。

肉を断ち、骨を砕く、生々しい感触。

俺の右腕は、凛の小さな背中から胸を貫通し、さらにその後ろにいたキバの心臓をも、一直線に貫き通していた。

「あ……ごほッ……」

凛の口から、おびただしい量の鮮血が吐き出され、俺のジャージを赤く染め上げた。

それでも、俺の暴走は止まらない。

スキル【強欲】は、目の前の命を完全に塵にするまで破壊を続けようと、さらに左腕を振りかぶった。

このまま渾身の一撃を叩き込めば、二人まとめて完全に消滅させることができる。

その時だ。

『マスターッ!! お願い、止まって!! 目を開けて!! 自分が何をしてるか見てよォォォッ!!!』

エク子の悲痛な絶叫が響き渡った。

「……ッ!」

振り下ろそうとした左拳が、空中でピタリと止まる。

漆黒のオーラが霧散し、俺の混濁していた意識に、冷水のような理性が急速に戻ってきた。

「……え?」

視界がクリアになる。

俺の目の前にあったのは。

俺自身の右腕が、凛の胸を無残に貫いているという、信じがたい光景だった。

「あ……」

俺は、震える手で腕を引き抜いた。

支えを失った凛の小さな体が、キバの体と共に力なく地面へと崩れ落ちる。

「ああ……あああ……ッ!!」

俺は喉の奥から獣のような悲鳴を上げ、血だまりの中に膝をついた。

「凛! 凛ッ!! 何やってんだ俺は! 違う、俺は、お前をッ……!」

俺は血まみれの両手で、凛の体を抱き寄せた。

冷たくなっていく体温。

胸に空いた、致命的すぎる大穴。俺の【超速再生】を分けてやることもできず、命の灯火が消えかかっているのがわかった。

「ッ! 俺のせいだ、俺が力をなんて願ったからッ!! 凛、死なないでくれ、お願いだ……!」

俺は、三十五歳のいい大人が、子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。

「……泣かないで、おじさん」

凛が、震える血まみれの手を伸ばし、俺の頬に触れた。

「おじさんのせいじゃないよ。……わたしが、勝手にやったの。キバを、殺させたくなかったから」

「なんでだよ……ッ! あいつはお前を!」

「キバはね……わたしの、大事な家族だったの」

凛は、力なく微笑んだ。

「思い出したの。……わたし、鬼人の姫なんだって。

だから……ニンゲンのおじさんとは、これ以上、一緒にいられない。

……わたし、ニンゲンには、なれないや」

自嘲気味に笑う凛の言葉に、俺はただ首を横に振ることしかできなかった。

凛は、少しだけ顔を横に向け、自分と一緒に心臓を貫かれて倒れているキバを見つめた。

「……キバ。ごめんなさい。……あなたをずっと一人にして」

「ユ、ト……さま……」

キバの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

彼もまた、愛する主を守れなかった絶望と共に、静かにその命を終わらせようとしていた。

凛の息が、次第に弱くなっていく。

彼女は最後に、もう一度だけ俺の顔を見上げた。

その赤い瞳は、いつものファミレスでパフェを見つめていた時のような、無邪気で優しい光を宿していた。

「……おじさん」

「……なんだ、凛」

「短かったけど……すっごく、楽しかった。

……お腹いっぱい、美味しいもの、いっぱいいっぱい食べさせてくれて……ありがとう」

凛の声が、風に溶けるように掠れていく。

「おじさんは……わたしの、ほんとうのお父さんみたいだと思ってたの……ありがとう、お父さん」

スッ、と。

俺の頬に触れていた凛の手が、力なく地面へと滑り落ちた。

赤い瞳が静かに閉じられ、小さな胸の上下運動が、完全に停止し光の粒子のなり崩れ去る。

隣で、キバの身体もまた光の粒子となって崩れ去っていく。

「……ああ。あああああァァァァァァァッ!!!」

俺の絶叫だけが、冷たい黒曜の森に虚しく木霊した。

どんなに叫んでも、どんなに後悔しても、もう彼女が俺に「お腹空いた」と笑いかけてくれることはない。

『――対象の討伐を確認しました』

『――固有スキル【存在強奪】が発動します』

『――ステータスが上昇します。筋力+1300、耐久+1300、敏捷+1300』

『――スキル、及びアイテムの獲得はありません』

俺の悲しみなどお構いなしに、システムは無慈悲に俺のステータスを押し上げていく。

上がったのは力だけ。守りたかったものは、もうこの腕の中にはないというのに。

キバの死。

それは、ダンジョンブレイクという厄災の完全なる終焉を意味していた。

「お、おい……魔物が! バケモノたちが消えていくぞ!」

「あの大男が死んだんだ! 俺たちの勝ちだ!!」

遥か後方の防衛線で、キバの生み出した無数の眷属たちが一斉に泥のように崩れ落ち、消滅していく。

生き残った冒険者たちの歓喜の叫びと、安堵の涙。

新宿の街は、何とかして守り抜かれたのだ。

だが、そのダンジョンの中で俺は、凛が着ていた服を抱きしめたまま、いつまでも、いつまでも動くことができなかった。

理不尽にすべてを奪うスキルを手に入れた代償。

俺は初めて、世界から『大切なもの』を強奪されるという絶望を、その身に刻み込んだのだった。