軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 水平線

ひかりが活動を休止してから、しばらく経った。

ダンジョンの運営自体は問題ない。安定しているし評判も上々で、蓄積魔力は順調に増加している。

だが、どうにも気持ちが乗らない。

ひかりのことが気になる。ひかりを送り出してしまった自分の選択が、本当に正しかったのか。もっと何か言えたんじゃないか。

いや、何を言っても状況は変わらない。俺にできることは、ひかりが戻ってきた時にちゃんと迎えられるよう、やれることをやっておくことだ。

頭では分かっている。分かっているのに、気分が晴れない。

ぼんやりと座っていると、向かいにユキが座った。

「ご主人様。」

「ん?」

「今日は、外に出ませんか。」

ユキの方から外出を提案してくるのは初めてだ。

「外?」

「はい。海を、見てみたいのです。」

海。そういえば、前にユキを街に連れ出したのは商店街と定食屋だった。海は行っていない。ユキの元の世界に海があったかどうかも、俺は知らない。

「海か。ユキは見たことないのか?」

「はい。お忙しければ、無理にとは……。」

「いや、行こう。ダンジョンはリンドヴルムとハヤテに任せれば大丈夫だ。」

少しだけ、ユキの口元が緩んだ。

リンドヴルムには火山エリアで伝えた。

「好きにせい。わらわが見ておいてやる。」

「ありがとうな。今度リンドヴルムも外に出かけよう。」

「ふん。」

ハヤテは案の定、目を輝かせた。

「海っすか! いいなぁ。自分も行きたい……。」

「留守番頼む。」

「えー。」

「今度連れてくから。」

「約束っすよ! 絶対っすよ!」

ハヤテが翼をバサバサと振った。はいはい、約束な。

ユキは前回と同じように変化の魔法で耳を人間のかたちに変え、シンプルな白いブラウスと薄いブルーのスカートに着替えて出てきた。夏らしい、涼しげな装いだ。

ダンジョンを出る際、ふと思い出した。前回の外出の時に決めたルールだ。

「ユキ、外では。」

「はい。遥さん、ですね。」

前回は慣れない響きに戸惑っていたが、今はすんなりと口に乗せている。

前は恥ずかしがっていたが、慣れたんだろうか。……ちょっと残念だ。

バスと電車を乗り継いで、海沿いの街に出た。片道1時間半ほど。車窓から見える風景が、住宅街から田園地帯へ、田園地帯から海岸線へと移り変わっていく。

ユキは窓際に座って、流れていく景色を静かに見つめていた。前回の外出でもそうだったが、ユキは移動中の車窓が好きらしい。

駅を出ると、潮の匂いが鼻を突いた。

真夏の太陽が高い。空は雲ひとつない青。駅から5分も歩けば、視界が一気に開けた。

海だ。

水平線まで、遮るものが何もない。太陽の光が海面に砕けて、無数の光の粒が散らばっている。波が浜に寄せては返す音が、ずっと続いている。

ユキが立ち止まった。

蒼い瞳が、海の色を映していた。

「……広い。」

ユキが呟いた。

「私の故郷にも大きな湖はありましたが、こんなに広い水は初めてです。」

「世界の7割は海だって言われてるからな。」

「7割。」

ユキが目を見開いて俺を見た。

「すごい世界ですね。」

砂浜に下りた。夏の浜辺だが、平日の昼間とあって人はまばらだ。サンダルで砂を踏みしめながら、波打ち際まで歩く。ユキは靴を脱いで、裸足で砂浜を歩いていた。

「砂が温かい。」

波が足元まで来て、ユキのつま先を濡らした。ユキが一歩下がって、それからまた一歩前に出た。次の波が来て、今度は足首まで浸かる。

「……冷たい。」

少しだけ、驚いたような声だった。

しばらく波打ち際で遊んでから、堤防に腰を下ろした。2人並んで海を眺める。潮風が髪を揺らしていく。ユキの白銀の髪が風にたなびいて、太陽の光を受けて淡く輝いている。

「いい景色だな。」

「はい。」

堤防のコンクリートに手をついて、海を見る。水平線の向こうにはどこかの国がある。そんな当たり前のことを、ぼんやりと考えていた。

「遥さん。」

「ん?」

「彼女のこと、気にされていますか。」

「まぁ、な。パーティー仲間だし。弟さんの件も心配だ。」

「そうですか。」

少し間があった。ユキが海の方を向いたまま言った。

「遥さんが強くなることは、置いていくことではないと思います。」

ランクアップの話だ。ひかりに「先に行ってください」と言われて、保留にしていたこと。

「むしろ遥さんが先に進んでいれば、助けられることが増えるのではないでしょうか。」

「……そうだな。」

たぶん、ユキの言う通りだ。ひかりを待つことと、自分が足踏みすることは、同じじゃない。先に進んで、ひかりが戻ってきた時に助けてやれなければ、仲間とは言えない。

「ありがとう、ユキ。」

「お礼を言われるようなことでは。」

ユキが少しだけ目を伏せた。

堤防の上で、しばらく何も言わずに海を見た。波の音だけが、ずっと続いている。

「なぁ、ユキ。」

「はい。」

「もしかしなくても、今日誘ってくれたのって……。」

「海が見たかったからですよ。」

「そうか?」

「ふふ、そうですよ。」

帰りの電車は、来たときと同じ窓際にユキが座った。西日が車内に差し込んで、全体をオレンジ色に染めている。

駅で降りて、バスに乗り換え、祖父母の家の前を過ぎてダンジョンへの裏山に入った。

木漏れ日が小道を斑に照らしている。夕方の森は静かで、蝉の声だけが響いていた。

不意に、左腕にそっと何かが触れた。

ユキの指先が、俺の腕に添えられていた。

前回は手だった。今度は腕。少し近い距離。ユキの指先は相変わらず少し冷たい。

入口まであと数メートルというところで、ユキが言った。

「また、連れて行ってくださいますか。」

ユキの方を見ると、まっすぐ前を向いていた。ただ、頬にかすかな朱が差している。蒼い瞳が、一瞬だけ俺の方を見て、すぐに逸らされた。

「ああ、次はもっと遠くに行くか。」

「……はい。」

ダンジョンの入口をくぐった。中に入った瞬間、ユキの手が離れた。

居住エリアに戻ると、ハヤテが翼をはためかせて飛んできた。

「おかえりっす! 海どうだったっすか!」

「良かったぞ。天気も最高だった。」

「うわー、やっぱ自分も行きたかったっす……。次は絶対連れてってくださいっすよ! 約束したっすからね!」

「分かってるって。」

「ユキ先輩も楽しかったっすか?」

「ええ。とても。」

ユキの返答は短かったが、ハヤテは嬉しそうに翼を振った。

「自分、海って見たことないんすよね。見てみたいっす! あ、ご主人、自分飛べるから上から見たらすごそうじゃないっすか?」

ハヤテのマシンガントークが止まらない。リンドヴルムが火山エリアの入口から顔を出して、呆れたように言った。

「騒がしいのう。留守番は問題なかったぞ。」

「ありがとう、リンドヴルム。」

「構わん。」

賑やかな居住エリアで、夕食の支度が始まった。ユキがキッチンに立ち、ハヤテが食器を並べ、リンドヴルムはテーブルの上座に堂々と座っている。いつもの光景だ。

テーブルについて、ユキが作った夕食を食べた。今日のメニューは焼き魚と野菜の煮物。魚は、前に定食屋でユキが選んだ鯵だった。自分で作るようになったらしい。

「美味いな。」

「ありがとうございます、ご主人様。」

ハヤテがご飯をおかわりしながら、まだ海の話をしている。リンドヴルムが「わらわは海より山の方がよい」と言い、ハヤテが「リンドヴルムさんはそうっすよね」と笑う。

賑やかで、温かい食卓だった。

夜、自分のベッドに横になった。左腕に、まだユキの指先の感触が残っている気がする。

ランクアップ、受けてみるか。ひかりが戻ってきた時に、少しでも力になれるように。今日は、だいぶ背中を押してもらったな。

side:ユキ

自室に戻り、扉を閉めた。

棚の一番手前に並べてある、蒼い陶器のカップが目に入る。前回の外出で、ご主人様に買っていただいたもの。自室をいただいてからずっと、ここに置いている。

今日、海を見た。

この世界の海は、私が知っていたどの湖よりも広かった。水平線というものを初めて目にした。境界のない水面がどこまでも続いて、空と溶け合うところで終わる。あんな光景は、元の世界にはなかった。

でも、正直に言えば、海の広さはそれほど重要ではなかった。

重要だったのは、隣にご主人様がいたこと。

堤防に並んで座った時、ご主人様の肩がすぐそこにあった。潮風がご主人様の髪を揺らしていた。それを横目で見ていた。それだけのことが、海の広さよりもずっと、胸に残っている。

ただ、堤防でご主人様に彼女のことを尋ねた時、ご主人様の声が少しだけ柔らかくなったのが気になった。気になった、という感情の正体が、私には分からない。

帰り道、私はご主人様の腕に触れた。

前はご主人様の手にそっと指を重ねて、ダンジョンの入口が見えた瞬間に離した。あの時は、自分がなぜそんなことをしたのか分からなかった。身体が勝手に動いた、としか言えなかった。

今回は違う。

触れた。そして、離さなかった。入口が見えても、離さなかった。

あの感覚が何なのか、私にはまだ分からない。ご主人様に救われた恩義なのか。封印の中で失ったものを取り戻す過程なのか。それとも。

……それとも。

言葉にするのが、怖い。

私は長い時を生きた。仲間を守り、裏切られ、封印された。あの永い暗闇の中で、感情はほとんど摩耗した。何も感じないことが当たり前になっていた。

ご主人様が私を召喚してくださってから、少しずつ、感情が戻ってきている。それに、また連れて行ってほしいと、自分の望みを言葉にすることができた。

あの時、少しだけ、顔が熱くなった。目を逸らしてしまった。ご主人様に気づかれただろうか。気づかれていたら、少し恥ずかしい。気づかれていなかったら、少し寂しい。

……感情が戻った、というのは少し嘘かもしれない。こんな感情は、初めてだ。

蒼いカップを手に取った。冷たい陶器の感触が、掌に馴染む。

――――

貯金残高:820,500円 / ダンジョン蓄積魔力:179

HP:9,100 / MP:17,600 / STR:10,600 / VIT:10,200 / DEX:9,700 / INT:15,000

スキル:【剣術】Lv.5 / 【身体強化】Lv.5 / 【戦闘機動】Lv.3 / 【危機感知】Lv.3 / 【状態異常耐性】Lv.2

眷属:ユキ(エルダーエルフ)/ ハヤテ(鷹獣人)/ リンドヴルム(祖竜)

【ダンジョン構成】

入口 → 森エリア(初級者向け/管理:ユキ&ハヤテ)→ 物資補給エリア → 火山・大空洞エリア(中・上級者向け/管理:リンドヴルム)→ 居住エリア → コアの小部屋

――――