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作品タイトル不明

第四五話 天文十二年三月下旬『岡崎の戦いその参』松平広忠SIDE

「殿! 矢作川に船がぞろぞろと河口より遡上してきました!」

「来たかっ!」

物見からの報告に、松平広忠はがたっと勢いよく立ち上がった。

まさにこの時を一日千秋の想いでずっと待ち焦がれてきたのだ。

三河はこの数十年、争いが絶えぬ土地である。

防衛上の理由から矢作川には橋がかかっておらず、また川幅が一町(約一〇九メートル)以上はある。

ゆえに軍を動かすとなれば、近くの漁民たちから船をいくつも借り受け、船橋をかけてもらわねばならない。

言い換えれば、大量の船が川上に遡上してきたのならば、敵は退却しようとしているということである。

「くっ、くくくっ、太鼓を打ち鳴らせ! 全軍出撃! 追撃にかかるぞ!」

叫ぶや、広忠はいてもたってもいられぬ様子で部屋を飛び出す。

広忠自身は、いつでも出撃できるよう、すでに具足に身を固めてある。

勝機はここにしかない。

その覚悟の現れであった。

二の丸へと走る中、脳裏に蘇るのは、広忠が妻である於大の方を斬ろうとしていた時の事である。

家臣が必死に止める中、現れたのが太原雪斎であった。

今川家は松平家にとっては主家であり、中でも雪斎には広忠が松平家当主に復帰するために、色々と骨を折ってもらった恩がある。

そんな人間から、

『水野は風見鶏です。情勢次第ではまたこちらに付きます。が、於大の方を殺せば、仇となりそれも叶わなくなりましょう』

と説得されては受け入れないわけにもいかなかった。

さらには広忠の継室(後妻)として戸田家の真喜姫との縁談を薦めるとともに、

『一向宗が尾張に攻め込む手筈となっております。少し耐えれば、織田は退きましょう。そこが好機です』

と、必勝の策を授けていってくれたのだ。

撤退中は軍の戦闘力が最も弱まる時だ。

そこを突けば、数倍の兵力差もひっくり返せる、と。

それ自体は戦術の基本ではあるが、実際に織田勢を撤退せざるを得ない状況に追い込む手腕が凄まじい。

(全て雪斎殿の手のひらの上、か。恐ろしいお方よ)

怖いもの知らずの暴君、広忠であるが、この男だけは敵に回すまいと心に誓う。

広忠の目的はただ一つ。

松平家当主としての地位を盤石とすること、である。

これほどの男がそれを後見してくれるというのであれば、まさに鬼に金棒であった。

戸田家との縁組にしても、広忠の地位確立に寄与してくれることは間違いない。

そしてこの戦いに勝てば、広忠の勇名も轟く。

至れり尽くせりとはまさにこの事だった。

「出撃ですか?」

二の丸に着くや、ゆらりと幽鬼のような男が出迎えてくれる。

肌は青白く、身体も細くその頬も痩せこけ、目の下の隈も深い。

だが、その病的な外見に舐めて攻めかかった者は皆、あの世で後悔することになるだろう。

男の名は長坂信政。

比類なき槍の達人であり、戦に出れば必ずその槍は紅く染まることから、畏怖とともに『 血鑓九郎(ちやりくろう) 』と呼ばれる家中随一の猛将である。

「うむ、今日はその槍、存分に振るってもらうぞ!」

「承知」

端的に返すや、血鑓九郎は愛馬にまたがる。

いつも言葉が少なく、表情にも乏しく、いったい何を考えているのかわからない。

その不気味な容姿も相まって正直、接するのも気持ち悪いとさえ思う。

だが、今だけは頼もしい。

その強さはまさしく、人外と呼べるほどのものなのだから。