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作品タイトル不明

第三七話 天文十二年三月下旬『黒衣の宰相』太原雪斎side

時はわずかに巻き戻る。

「まさか雪斎方丈、自ら使番として現れるとは、さすがに驚きましたぞ」

「お久しぶりでございます、証恵御院。此度の戦は、東海の命運を左右するものですからな」

案内された願証寺の一室にて、太原雪斎はある僧との再会を果たしていた。

ちなみに方丈は雪斎の宗派、臨済宗の住職の呼び名であり、御院が一向宗(浄土真宗)の住職の呼び名である。

僧――証恵は二〇代後半ぐらいに見えた。

今年四八になる雪斎からすればまだまだ若造の域である。

さらに言えば、あまり僧侶らしくも見えない。

まず清貧な食生活をしたとはとても思えぬ、なんともふくよかな恵体をしている。

着ている袈裟も金の刺繍をふんだんに使ったずいぶんと豪華なものである。

それに比して、高僧と言われる者たちが等しく持つ徳のようなものは全く感じない。

酒と女性が髪に塗る椿油の甘い匂いが、雪斎の鼻腔をかすかにくすぐる。

昼間からお盛んなことである。

内心で「下衆が」と吐き捨てつつも、

「改めまして、ご協力感謝致しまする。またお忙しい中、拝謁賜り恐縮至極にございます」

雪斎は対面に腰かけるや、へりくだった挨拶とともに額を畳に擦り付けんばかりに頭を下げる。

明らかに生臭坊主にしか見えないが、この男こそが伊勢、尾張、美濃の三カ国の一向宗門徒を号令一つで動かしうる願証寺の住持なのは間違いのない事実なのだから。

同盟相手(・・・・) として最大限の礼は尽くさねばならぬ。

「礼には及びませぬ、雪斎殿。スサノオの巫女などと自称し民を惑わす仏敵は、我々も 折伏(しゃくふく) せねばならぬと思っていたところです」

言いつつ、証恵はなんとも忌々しめに顔を歪めたものである。

よほど『織田の鳳雛』に恨み骨髄の様子である。

それも致し方なし、か。

(嬉しい誤算であったわ)

願証寺にとって、尾張の民や、熱田と津島からあがってくる莫大な寄進料は富の源泉である。

しかし最近、劔神社なるものが興り、凄まじい勢いで氏子を増やしていると聞く。

つや姫のほうが、仏などよりよほど現世利益をバラまいているからだろう。

となればおそらく、願証寺への寄進料はその分だけ激減しているに違いない。

一向宗との交渉は難航を極めると思っていただけに、これには思わず雪斎もほくそ笑んだものだ。

人間、既得権益を奪われることには、激しい怒りと憎悪を抱く。

協力を取り付けるのに苦労するどころか、むしろあちらのほうが俄然乗り気であり、容易に交渉をまとめる事が出来た。

まったく僥倖と言うしかなかった。

とは言え、信秀の戦略が間違っていたわけではない。

一向宗は大名の政策に何か気に入らないことがあれば徒党を組み一揆を起こす、実に鬱陶しい連中である。

一国を治める立場として、その勢力を減じたいという気持ちは大いに理解できる。

雪斎自身もまた、いずれ今川仮名目録に項目を追加し、彼らの持つ権益を奪い、その力を減じようと腹案を抱いていたぐらいだ。

『織田の鳳雛』に民心の信仰を集めるという策も、敵ながら天晴な策と言うしかない。

ただ運と時期が致命的に悪かった。

雪斎が織田包囲網を敷こうと暗躍していたまさにその時だったのだから。

「実に頼もしい限りですな」

この言葉は、雪斎の嘘偽りのない本音である。

数万もの動員力を誇る一向宗が、躍進著しい織田を西から脅かしてくれるのだ。

東海の覇者たらんとする今川家からしたら、これほど有難いことはなかった。

だが、まだ足りない。

万全には万全を期すのが、太原雪斎の流儀である。

「しかし、願証寺の方々だけに骨を折ってもらうのは心苦しい限り。つきましては拙僧も、客将として戦列の末席に御加え頂きたく存じます」

証恵の眼を見据え、雪斎は本題を切り出す。

「ほう? かの高名な黒衣の宰相殿が、我が戦列に加わってくださる、と」

「はっ、宗派は違えど拙僧も御仏に仕える身。微力ながら仏敵折伏のお手伝いを致したく」

もちろん、これはただの方便である。

一向宗は、信仰の力で死を恐れず突き進む士気の高さと圧倒的な動員数を誇るが、一方で兵をまとめあげる有能な将がほとんどいないのが玉に 瑕(きず) である。

それでは所詮、烏合の衆に過ぎない。

有能な将がまとめあげた 軍隊(・・) には手も足も出ないだろう。

しかし雪斎が指南すれば、その弱点は十分克服できる。

(この機に織田は是が非でも叩いておかねばな)

雪斎の望みはただ一つ、自らが手に掛け育てた愛弟子、今川義元を将軍の座に就け、天下に 静謐(せいひつ) をもたらすことである。

まずは東海を統べ地盤を固めねばならないのだが、その最大の難敵と目されるのが躍進著しい織田だった。

このまま放っておけば、逆に今川のほうが呑まれかねない。

なんとしてもここで楔は打ち込んでおく。

その為に、雪斎はこの遠方までわざわざ出張ってきたのだ。