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作品タイトル不明

第三六話天文十二年七月中旬『一世一代の大勝負』太原雪斎side

「雪斎方丈、対岸の織田勢が退いていきます。これで安全に渡河できるかと」

「ふふふっ、どうやら松平広忠が上手くやってくれたようですね」

物見からの報告に、雪斎は満足げに頷く。

ここまでは雪斎の目論見通りである。

前もって調略しておいた上野城主酒井忠尚の領土をすり抜け、山崎城を奇襲し、陥落させる。

そうして後背を取られた状況では、織田勢は挟撃を恐れて今川勢の渡河を見過ごすしかなくなり、安全に渡河できるという寸法だ。

元々、対岸に陣取る織田勢は奇襲の影響もあってかわずか五〇〇ほどであり、今川勢一万をもってすれば、物の数ではないが、兵力はできる限り温存したいところである。

なぜなら――

「このまま安祥城を一気呵成に攻め落としますよ」

――のだから。

安祥城がこのわずかの間に動員できる兵など高が知れている。

多めに見積もっても、二〇〇〇かそこらといったところであろう。

松平勢を加えた現在の今川方の総兵力は一二〇〇〇。

城攻めには五倍の兵力が必要という兵法の常道から考えれば、落とすには十分な兵力である。

とはいえ本来であれば、城攻めなど安易にやるものではない。

安祥城は、森と深田に囲まれた台地の上に築かれた、なかなかに堅固な城だ。

そんな難所に陣取る敵を下手に攻めれば、自軍の被害は甚大なものとなるのは火を見るより明らかだ。

しかも、だ。

(仮に安祥を攻め落とせたところで、織田の本隊がくれば、たちどころに奪い返されるでしょうね)

さすがにこれは口にはできず、心の中で独りごちる。

安祥城を強攻し損耗した状態では、信秀率いる織田本隊と渡り合うだけの余力はまず残っていまい。

下手をすれば、勢いに乗った織田勢に、三河の大半を奪われる、なんてことになるやもしれぬ。

だが、それでも雪斎は全く構わなかった。

「今が織田から鳳雛を奪う千載一遇の好機なのですから……っ!」

これさえ果たせれば、十分すぎるほどにお釣りがくるのだから。

彼女を織田から奪えれば、此度の戦に負けても、長期的視野に立てば、織田のほうが失うものがはるかに大きい。

拷問でもなんでもして情報を引き出せるようになれば、今川の大勝ちとさえ言える。

それだけの価値が、彼女にはあった。

彼女はまさに御伽噺に出てくる打ち出の小槌なのだから。

普段は清須城の奥深くで守られている彼女が、のこのこ前線の安祥城まで出張ってきてくれている。

しかも忍び込ませた草からの報告を見るに、信秀が挙兵の準備をしていた形跡はない。

尾張からの後詰めが来るまで、どれだけ早く見積もっても、二日はかかる。

こんな好機はおそらく、後にも先にもないだろう。

何がなんでもつかみ取るしかなかった。

(一か八かの賭けなど柄ではないのだがな)

思わず自嘲がこぼれる。

地道に根回しし、入念に準備を整え、勝つべくして勝つ。

それが雪斎の本来の流儀である。

だが、そんなことはもう言っていられなかった。

この機を逃せば、今川はジリ貧だ。

織田家の勢いに呑まれ、一〇年も経たぬ内に滅ぼされかねない。

座して死を待つのは、彼の流儀ではなかった。

「……吉報を待っておれ、芳菊丸」

思わず愛弟子の名がこぼれる。

それは主君今川義元の幼名である。

雪斎は彼がわずか四歳で、善得寺に預けられた頃から面倒を見てきた。

共に上洛し、様々な寺で高僧となるための修行をしてきた。

雪斎にとって義元は、愛弟子であり、弟弟子であり、さらには不遜の極みではあるが、我が子のようにさえ感じていた。

長年彼を見てきた者として、断言できる。

義元にはこの日ノ本を治める器量がある。

彼が自らの下に弟子として現れたのは、もはや天命だと雪斎は信じて疑わない。

義元を将軍に据える。

そして天下に、ひいては日ノ本全土に静謐をもたらす。

その大望を果たす為、雪斎は一世一代の大勝負に出たのだ。