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本物の母ではないから黙れと言われました。では、継子の後見契約は王宮に提出いたします

作者: Sophia Rose

本文

「本物の母ではないのだから、黙っていなさい」

義母がそう言った時、私は泣かなかった。

泣けば、きっとまた言われると思ったからだ。

感情的になるな。

侯爵夫人ならば、もっと慎みなさい。

子を産んだこともない女が、母親の顔をするものではありません。

だから私は、膝の上で握りしめていた記録帳の角をそっと撫でただけだった。

その記録帳には、ノアの五年間が詰まっている。

初めて熱を出した夜のこと。

悪夢で泣いて、明け方まで私の袖を離さなかったこと。

パン粥に蜂蜜を一滴落とすと、少しだけ食べられたこと。

左手で文字を書く癖があり、筆記教師が叱ったため、三日間ペンを持てなくなったこと。

八歳の誕生日に、初めて私へ花をくれたこと。

そして、その日の頁の端には、たどたどしい文字でこう書かれていた。

お母さまへ。

ただそれだけの短い言葉を、ノアは何度も書き直した。

私は、その頁を見るたびに胸の奥が温かくなる。

けれど今、義母であるヴァレンティア侯爵太夫人は、その記録帳を汚らわしいものでも見るように眺めていた。

「エレノアさん。あなたは勘違いをしているのです」

太夫人は優雅に紅茶を置いた。

白い指には、大粒の真珠の指輪が光っている。

「あなたは確かに、ノアの世話をしてきました。それは認めましょう。ですが、それは侯爵家に嫁いだ女として当然の務めです。母親になったつもりで振る舞うこととは違います」

私は静かに答えた。

「私は、母親の座を奪うつもりはありません」

「では、なぜノアに母と呼ばせるのです」

「呼ばせたのではありません。ノアが、そう呼びました」

その言葉に、太夫人の眉がぴくりと動いた。

「なおさら悪いわ。あの子はまだ幼い。大人が正しい呼び方を教えなければなりません」

「正しい呼び方、ですか」

「ええ。あの子の母は、亡くなったセレスティアだけです」

セレスティア。

夫レオンハルトの先妻であり、ノアの実母。

私は彼女に会ったことがない。

肖像画の中の彼女は、美しく、優しく、どこか寂しげに微笑んでいる。

その人の存在を消したいと思ったことは、一度もない。

ノアが夜中に泣きながら「母上」と呼んだ時、私はただ隣に座っていた。

彼が私を初めて「エレノア様」ではなく「お母さま」と呼んだ日も、私は答えに迷った。

それでもノアは、震える声で言った。

呼んでは、いけませんか。

私は、その時、彼の小さな手を握った。

呼びたい時に、呼んでいいのよ。

それだけだった。

それだけのことを、太夫人は許さなかった。

「今日から、ノアにはあなたをエレノア様と呼ばせます。いいですね」

「ノア本人の気持ちは」

「子どもの気持ちなど、移ろいやすいものです」

「では、大人の都合で傷つけてもよいと?」

「傷つく?」

太夫人は薄く笑った。

「傷ついているのは、亡きセレスティアの名誉です。後妻が母親面をして、先妻の子を取り込むなど、あってはならないことです」

そこへ、夫のレオンハルトが入ってきた。

濃紺の礼服を着た彼は、相変わらず整った顔をしていた。

その顔を見て、昔は何度も期待した。

話せば分かってくれるのではないか。

ノアのためなら、耳を傾けてくれるのではないか。

けれど五年をかけて、私は知った。

彼は、面倒なことから目を逸らす人だった。

「母上、まだその話をしているのですか」

「大切な話です。あなたからも言ってくださいな。エレノアさんが、ノアの母親面をして困っているのです」

レオンハルトは、私を見た。

責める目ではない。

けれど、味方する目でもなかった。

「エレノア。母上の言うことにも一理ある」

「そうですか」

「君には感謝している。ノアの世話をよくしてくれていることも分かっている。だが、あの子の母はセレスティアだ。それは変わらない」

「変えようとはしていません」

「なら、少し距離を置いてくれ」

私は夫を見つめた。

「距離を置く、とは」

「ノアの教育方針には、今後、母上が関わる。君は屋敷の差配に専念してくれ」

「ノアの朝の発作は、誰が見るのですか」

「発作?」

「緊張すると、呼吸が浅くなることがあります。家庭教師が変わる時期は特に注意が必要です」

夫は、わずかに顔をしかめた。

知らなかったのだ。

「それは医師に任せればいい」

「医師が来る頃には治まっていることが多いのです。だから記録して、兆候を見ています」

「またその記録か」

夫の声に、わずかな苛立ちが混じった。

「君は何でも記録、記録だな」

「必要だからです」

「ノアを帳面の中に閉じ込めるな」

私は息を止めた。

その言葉は、思いのほか胸に刺さった。

帳面に閉じ込めているのではない。

忘れないようにしているのだ。

ノアが何を怖がり、何に笑い、何を食べられて、何に傷ついたのか。

彼自身がまだ言葉にできないことを、大人が忘れないために。

「あなたは、ノアの好きな花をご存じですか」

私が尋ねると、夫は眉を寄せた。

「急に何を」

「ご存じですか」

「……薔薇だろう。セレスティアが好きだった」

「違います」

私は記録帳を開いた。

「ノアが好きなのは、青い矢車草です。庭師のハンスが植えたものを、毎朝見に行っています。理由は、亡くなった母君の瞳の色に似ているからだそうです」

夫が黙った。

「ノアはセレスティア様を忘れていません。私も忘れさせていません。毎年、命日には青い矢車草を供えています」

「それは……」

「あなたは、いつ供えてくださいましたか」

夫の顔が強張った。

太夫人が鋭く言う。

「エレノアさん、口が過ぎます」

「申し訳ありません」

私は記録帳を閉じた。

「ですが、ノアに関わることです。黙ることはできません」

太夫人は立ち上がった。

そして私の手から記録帳を奪った。

「あっ」

思わず声が漏れた。

「このようなものがあるから、あなたは勘違いをするのです」

「お返しください」

「いいえ。これは私が預かります」

「それはノアの記録です」

「ノアは侯爵家の跡取りです。あなた個人の所有物ではありません」

太夫人は暖炉の方へ歩いた。

私は立ち上がった。

「お義母様」

「今日から、この家の教育は私が見ます。あなたは一歩下がりなさい」

「その帳面だけは、返してください」

「後妻が母親ごっこをした証など、必要ありません」

太夫人が記録帳を暖炉に投げ込もうとした、その時だった。

「やめてください!」

扉の向こうから、ノアが飛び込んできた。

薄茶色の髪を乱し、息を切らしている。

八歳の小さな体で、彼は太夫人の前に立った。

「おばあさま、それは、僕の」

「ノア」

太夫人の声が急に甘くなった。

「聞いていたのですか。いけませんね、大人の話を盗み聞きするなんて」

「それは、お母さまの帳面です」

部屋が静まり返った。

ノアは言ってしまった、という顔をした。

太夫人の表情から、笑みが消える。

「ノア。今、何と言いましたか」

ノアの肩が震えた。

私は彼のもとへ行こうとした。

けれど夫が先に口を開いた。

「ノア。エレノアを母と呼ぶのはやめなさい」

その声は、普段より低かった。

ノアは父を見上げた。

「でも」

「お前の母は、セレスティアだけだ」

「知っています」

ノアの声は震えていた。

「母上のこと、忘れていません。でも、エレノア様は、夜に怖い夢を見た時、そばにいてくれます。熱が出た時、手を握ってくれます。僕が文字を間違えても、怒りません」

「それは世話だ」

夫が言った。

「母親とは違う」

ノアの顔から血の気が引いた。

「……違うのですか」

夫は答えなかった。

太夫人が近づき、ノアの肩に手を置く。

「そうです。分かったなら、今日からきちんと呼びなさい。エレノア様、と」

ノアの唇が震えた。

彼は私を見た。

助けを求める目だった。

けれど、その場で私は彼を抱きしめることができなかった。

抱きしめれば、太夫人はきっと言う。

ほら、また母親面をして。

だから私は、ゆっくり膝を折り、ノアの目線に合わせた。

「ノア様」

わざと、そう呼んだ。

ノアの瞳が揺れる。

「今は、お部屋に戻りましょう」

「……はい」

彼は小さく頷いた。

その日の夜、ノアは私の部屋を訪ねてきた。

寝間着の上に薄いガウンを羽織り、片手には小さな封筒を握っていた。

「眠れないの?」

私が尋ねると、ノアは首を振った。

「これを、返してもらいました」

封筒の中には、私への手紙が入っていた。

八歳の誕生日にくれたものだ。

お母さまへ。

いつも、そばにいてくれて、ありがとうございます。

文字は曲がっていた。

インクもところどころ滲んでいた。

それでも私にとっては、どんな宝石より大切なものだった。

「おばあさまが、これはよくない手紙だと言いました」

「そう」

「父上も、困った顔をしました」

「そう」

ノアは俯いた。

小さな手で、自分の口を押さえる。

まるで、言ってはいけない言葉がこぼれないようにするみたいに。

「僕は」

声が震えていた。

「僕は、もう、お母さまと呼んではいけないの?」

その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

けれど、私は泣かなかった。

ノアの前で泣けば、この子は自分のせいだと思う。

だから私は、彼の手をそっと外した。

「呼びたい時に、呼んでいいのよ」

「でも、おばあさまが」

「ノア」

私は彼の目を見た。

「母親かどうかを決めるのは、血だけではありません。少なくとも、あなたが泣いている時に抱きしめたいと思う私は、あなたの味方です」

ノアの目に涙が溜まった。

「味方?」

「ええ。ずっと」

「父上が怒っても?」

「怒っても」

「おばあさまが、だめだと言っても?」

「だめだと言っても」

「僕が、弱くても?」

私は首を振った。

「あなたは弱くありません。怖いことを怖いと言える子は、弱くないわ」

ノアは泣いた。

声を殺して、私の胸に顔を押しつけて泣いた。

私は彼の背を撫でながら、心の中で決めた。

この家に、もうこの子を任せておけない。

翌朝、私は五年分の養育記録、ノアの教育契約書、医師の診断控え、家庭教師の報告書、そして一通の後見契約書を鞄に入れた。

後見契約書は、五年前に結婚する際、先代侯爵の遺言執行人から渡されたものだった。

内容はこうだ。

ノア・ヴァレンティアが成年に達するまで、その養育、教育、財産保護に関して、エレノア・ヴァレンティアを共同後見人として認める。

署名者は先代侯爵。

証人は王宮法務院所属の後見官。

そして、夫レオンハルトの署名もあった。

彼は覚えていないだろう。

結婚式の前日、面倒そうに言ったのだ。

書類のことは君に任せる。

君は細かいことが得意だろう。

その「細かいこと」が、ノアを守ってきた。

私は王宮法務院へ向かった。

白い石造りの建物は、朝の光を受けて静かに輝いていた。

受付で名を告げると、すぐに奥の執務室へ通された。

そこにいたのは、黒髪の若い後見官だった。

「ユリウス・クラウゼと申します。未成年貴族の後見監査を担当しています」

「エレノア・ヴァレンティアです」

「事情は、予備申請書で拝見しました。養育記録をお持ちだとか」

「はい」

私は鞄から記録を取り出した。

ユリウス様は一冊目を開いた。

最初は淡々と頁をめくっていた。

しかし、しばらくすると、その手が止まった。

「これは……」

「何か不備がありましたか」

「いいえ。逆です」

彼は顔を上げた。

「これは、単なる日記ではありません。未成年後継者を守るための、五年分の後見記録です」

私は言葉を失った。

「食事、睡眠、学習、体調、精神状態、対人関係、教師との相性、使用人からの接触、財産教育の進捗。これほど詳細な記録は、王宮後見院でも滅多にありません」

「私は、ただ忘れないように」

「忘れないことが、後見の第一歩です」

ユリウス様は静かに言った。

「子どもは、自分に何が起きたかを正確に説明できません。だから大人が記録する。守るために」

胸が熱くなった。

五年間、私は何度も言われた。

心配しすぎだ。

細かすぎる。

後妻が出しゃばるな。

けれど目の前の人は、それを守るための記録だと言った。

「後見契約書も拝見します」

私は差し出した。

ユリウス様は署名と封蝋を確認し、すぐに表情を引き締めた。

「有効です」

「本当に?」

「はい。先代侯爵の署名、王宮法務院の認証印、現侯爵レオンハルト様の署名もあります。エレノア様は、ノア様の共同後見人です」

私は息を吐いた。

指先が震えていた。

「では、私はノアに関わる権利があるのですね」

「権利だけではありません。責任があります。そして、現在の状況を見る限り、法務院はヴァレンティア侯爵家に監査を入れる必要があります」

「監査……」

「未成年後継者に対する精神的圧迫、後見記録の没収未遂、教育方針の不当変更、財産管理の確認。調査項目は多い」

ユリウス様は書類を整えた。

「エレノア様。あなたは侯爵家に戻りますか」

私は少しだけ黙った。

戻る。

その言葉を考えても、胸は動かなかった。

思い出すのは、ノアが自分の口を押さえた姿だけだった。

「戻りません」

「では、離縁申請も同時に?」

「はい」

言葉にすると、不思議なほど静かだった。

「ただし、ノアを見捨てるつもりはありません」

「もちろんです。共同後見人として、あなたには面会権と教育監督権があります。状況次第では、一時保護先としてあなたの実家または王宮指定施設を選ぶこともできます」

「ノアを、あの家から出せるのですか」

「必要と判断されれば」

私は目を閉じた。

泣かなかった。

泣く代わりに、署名した。

その午後、王宮法務院の監査官がヴァレンティア侯爵邸へ入った。

夫は最初、何が起きているのか分からなかったらしい。

太夫人は激怒したという。

「後妻風情が、侯爵家に監査を入れるなど!」

けれど監査官は静かに答えた。

「エレノア様は、正式な共同後見人です」

その一言で、屋敷の空気が変わった。

夫は後見契約の存在を忘れていた。

太夫人は知らなかった。

家庭教師たちは、エレノアがいなければノアの授業が成立しないと証言した。

医師は、ノアの呼吸発作について夫が一度も詳しく尋ねたことがないと証言した。

乳母は、ノアが太夫人の前では「お母さま」と呼ばないよう唇を噛む癖がついたと証言した。

そして財産管理の帳簿からは、ノアの教育費の一部が太夫人の社交費に回されていたことが見つかった。

その報告を受けた時、私は王宮法務院の待合室にいた。

隣にはノアが座っている。

彼は一時保護という形で、私の実家に移ることになった。

小さな鞄を膝に乗せ、彼は不安そうに私を見上げた。

「僕、悪いことをしましたか」

「していないわ」

「おばあさまは、僕が言いつけたと思いますか」

「思うかもしれない。でも、悪いのは、悪いことをした大人です」

「父上は」

ノアはそこで言葉を切った。

「父上は、僕のこと、嫌いになりますか」

私は少し考えた。

簡単に、大丈夫とは言いたくなかった。

「あなたを嫌いになる人がいたとしても、それはあなたの価値とは関係ありません」

「価値?」

「ええ。あなたは、大切にされるべき子です。誰が忘れても、それは変わらない」

ノアは下を向いた。

そして、小さな声で言った。

「エレノア様」

胸が痛んだ。

けれど、私は待った。

急かさなかった。

ノアは唇を噛み、それからもう一度顔を上げた。

「……お母さま」

「はい」

「呼んでも、いい?」

「もちろん」

ノアは私に寄りかかった。

その体は軽く、けれど確かに温かかった。

数日後、夫が王宮法務院へ来た。

面会室で向かい合った彼は、以前よりずっと疲れて見えた。

「エレノア」

「ご用件を」

「戻ってきてほしい」

私は黙っていた。

「母上のことは、私が話す。ノアにも謝る。だから」

「なぜ、私に戻ってほしいのですか」

夫は目を伏せた。

「ノアが、お前を必要としている」

「ノア様が私を必要としてくださるなら、後見人としてお会いします」

「そうではなく」

「あなたの妻として戻ることはありません」

夫の顔が歪んだ。

「私は、そこまで悪い夫だったのか」

私はしばらく夫を見つめた。

「あなたは、悪い人になろうとしたわけではないのでしょう」

「なら」

「けれど、良い父であろうともしなかった」

夫が息を呑む。

「ノアが何を怖がるか。何を食べられないか。どの教師の前で手が震えるか。母君の命日にどんな花を供えているか。あなたは知ろうとしませんでした」

「忙しかった」

「私も忙しかったです」

夫は黙った。

「あなたは、私に任せていたのではありません。見ないで済ませていただけです」

「……すまなかった」

その言葉は、遅かった。

けれど、嘘ではないのだろう。

私は静かに頷いた。

「謝罪は受け取ります」

「では」

「でも、戻りません」

夫の目が揺れた。

「ノアの父親として、これから学んでください。法務院の監督を受けながら、面会も、教育方針も、一つずつ」

「君は、私を許さないのか」

「許すかどうかを、今すぐ決めるつもりはありません」

私は席を立った。

「ただ、私はもう、黙りません」

その後、太夫人はノアへの単独接触を制限された。

教育費の流用分は返還命令が出され、侯爵家の財産管理には王宮法務院の監査が継続することになった。

夫は父親としての養育講習を受けるよう命じられた。

貴族社会ではしばらく噂になったが、私は気にしなかった。

ノアは私の実家で暮らし始めた。

最初の夜、彼は何度も目を覚ました。

朝になると、申し訳なさそうに言った。

「僕、迷惑ですか」

「いいえ」

「夜、起きてしまいました」

「知っているわ」

「怒りませんか」

「怒らないわ」

私は新しい記録帳を開いた。

ノア、八歳三か月。新しい部屋で眠る。夜半に二度目を覚ます。呼吸は浅いが、手を握ると落ち着く。朝、蜂蜜入りのパン粥を半分食べる。

ノアはその文字を覗き込んだ。

「まだ書くのですか」

「ええ」

「僕を、帳面に閉じ込める?」

私は少し笑った。

「違うわ。あなたが大きくなった時、自分がどれほど生きようとしてきたか、思い出せるように書くの」

ノアは考え込んだ。

そして、ペンを差し出した。

「僕も、書いていいですか」

「もちろん」

彼は頁の下に、小さな文字を書いた。

今日は、こわくなかった。

その文字を見た時、私は初めて少し泣いた。

ノアは慌てた。

「お母さま?」

「大丈夫」

私は笑った。

「嬉しいだけよ」

季節がひとつ巡る頃、王宮法務院で正式な決定が下された。

私はノアの共同後見人として認められ、離縁も成立した。

夫は侯爵位を保ったが、ノアの教育と財産管理については、成年まで監督を受けることになった。

そしてノア本人の希望により、私は定期的な同居養育者として登録された。

難しい言葉ばかりだったけれど、ノアは一つだけ確認した。

「僕は、お母さまと呼んでもいいのですか」

ユリウス様は書類から顔を上げた。

少しだけ目元を和らげて、言った。

「王宮法務院は、子どもが安心して呼べる名を禁じません」

ノアは私を見た。

私は頷いた。

白い廊下に、春の光が差し込んでいた。

「お母さま」

ノアは、はっきりとそう呼んだ。

「はい」

「帰りましょう」

「ええ」

私たちは並んで歩き出した。

その後ろで、ユリウス様が静かに言った。

「エレノア様」

振り返ると、彼は一冊の新しい記録帳を差し出した。

「法務院指定の後見記録帳です。あなたなら、きっと正しく使われるでしょう」

私は受け取った。

表紙は深い青色だった。

ノアが好きな、矢車草の青に似ていた。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。あなたの記録が、一人の子どもを守りました」

私はその言葉を胸にしまった。

屋敷に戻るのではない。

過去に戻るのでもない。

私たちは、新しい場所へ帰る。

馬車の中で、ノアは私の肩にもたれて眠った。

その寝顔は、以前より少し穏やかだった。

私は青い記録帳を開き、最初の頁に日付を書いた。

ノア、八歳四か月。

王宮法務院にて、共同後見契約が正式に認められる。

人前で、私をお母さまと呼んだ。

帰りの馬車で眠る。

呼吸は深く、手は震えていない。

私は少し考えて、最後にもう一行を書き足した。

今日、この子は、自分の呼びたい名を取り戻した。

窓の外では、春の風が青い花を揺らしている。

ノアの手が、眠ったまま私の袖を握った。

私はその手に、そっと自分の手を重ねた。

血が繋がっていなくても。

誰かに認められるまで待たなくても。

この子が泣く夜に、そばにいたいと思う。

この子が笑う朝を、忘れずに書き残したいと思う。

それだけで、私には十分だった。

私はもう、黙らない。

この子の名も、涙も、笑顔も、誰にも奪わせない。