作品タイトル不明
歩く鎮静剤
連合商務調整局本部・執務区画
使節団が退室した後。
廊下には、人がいる。
業務も、通常通り続いている。
それでも、廊下は不自然なほど静かだった。
足音が、必要以上に抑えられている。
書類を捲る音も、控えめだ。
視線は、自然と一点を避けている。
ルーカスが、廊下を歩いていた。
手には書類。
歩調は一定。
姿勢も、表情も、いつもと変わらない。
ただ、周囲の空気だけが違った。
誰も近づかない。
声をかけない。
業務上の必要があっても、距離を取る。
理由は単純だった。
――今の統括官に、近づいてはいけない。
誰かが命じたわけではない。
だが、全員が同じ判断をしていた。
使節団との応接が終わった直後から、この区画の空気は、明らかに変質していた。
怒気ではない。
興奮でもない。
もっと冷たいものだ。
理性のまま、感情を押し殺した人間が発する圧。
それは、触れれば傷つくと直感させる種類のものだった。
その時、低く控えめな声がした。
「……失礼します」
低く、静かな声がした。
空気が、わずかに揺れる。
エルフリーデだった。
資料を抱え、足取りは普段通り。
周囲の異変に、過剰に反応する様子はない。
彼女は、ルーカスの前で、歩みを止めた。
「少し、空気が張りつめているように感じたのですが……」
問いというより、確認だった。
その瞬間。
変化は、はっきりと起きた。
張りつめていた空気が、音もなく緩む。
圧が、引く。
誰かが、息を吸った。
ルーカスは、顔を上げる。
「……そう見えた?」
声は低いが、荒れていない。
先ほどまで周囲を支配していた緊張は、そこにない。
「問題ないよ、もう終わったことだから」
それだけだった。
説明も、弁明もない。
だが、その一言で十分だった。
エルフリーデは、小さく頷く。
「そうですか」
それ以上、踏み込まない。
彼女は、資料を差し出す。
「次の調整会議について、一点だけ確認を」
ルーカスは、自然にそれを受け取った。
指先の動きも、視線の運びも、完全に平常だ。
周囲の職員たちは、言葉を失っていた。
――消えた。
確かに、あったものが、今はない。
数瞬前まで、この場を覆っていた圧が、彼女が声をかけた途端、霧のように消えている。
理由は分からない。
だが、偶然ではない。
エルフリーデが用件を伝え終え、一礼する。
「では、失礼いたします」
そう言って、その場を離れる。
彼女の背が見えなくなった後も、廊下の空気は、乱れなかった。
ルーカスは、静かに書類へ視線を戻す。
「……業務に戻ろう」
その一言で、ようやく人が動き出す。
誰も、先ほどのことを口にしない。
だが、全員が理解していた。
統括官が発する圧は、命令でも、威圧でもない。
――守る対象が脅かされた時にだけ現れるものだ。
そして。
それを、完全に鎮められる存在が、すでにこの局内にいる。
誰もが、その事実を胸に刻んだ。
以後、エルフリーデに向けられる視線が、わずかに変わったことに当人だけが気づかない。
ただ一つ、確かなことがあった。
この場所で、彼女に手を出すという選択肢は――
もはや、存在しない。