作品タイトル不明
無自覚な圧
午後。
書類の受け渡しが一段落し、執務室の空気が少し緩んだ頃。
エルフリーデは席を立ち、別部署の机へ向かっていた。
確認済みの写しを返すだけだ。
「エルフリーデ殿」
呼び止めたのは、最近異動してきた若い調整官だった。
まだこの本部の空気に慣れていない。
「これ、さっきの案件なんですが……」
書類を差し出しながら、少し距離を詰める。
声も、ほんのり柔らかい。
エルフリーデは足を止め、受け取る。
「はい。確認しますね」
それだけのやり取り。
それ以上でも、それ以下でもない。
――はずだった。
「あと……」
「……その件」
低い声が、背後から割り込む。
エルフリーデが振り返るより早く、ルーカスが一歩前に出ていた。
書類を片手に、調整官とエルフリーデの間に自然に立つ位置。
近い。
だが、触れない。
本人にその自覚はない。
だが、間に入られた側からすれば、逃げ場のない距離だった。
「進行は、こちらで把握してるよ」
声は穏やか。
いつもの胡散臭さすらある、余裕のある口調。
「君の部署には、午前中に共有済みだよね?」
問いかけだが、答えは求めていない。
調整官は一瞬だけ瞬きをして、すぐに背筋を正す。
「……はい。確認しております」
「なら、大丈夫だ」
即答。
それだけで、話は終わった。
エルフリーデの方を見る。
今度は、少しだけ声の温度が変わる。
「長く立たせてごめんね」
低くて、柔らかい。
さっきまでの“場を締める声”とは明確に違う。
「戻ろうか」
命令ではない。
確認でもない。
誘いに近い。
「はい」
エルフリーデが頷くと、ルーカスは満足そうに口元を緩める。
糸目が、さらに細くなる。
二人が歩き出すと、背後の空気が一気に抜けた。
「……今の、見た?」
「見た」
「完全に間に入ったよな」
「しかも、本人は普通の顔」
「いや、あれ絶対――」
そこまで言って、誰も続きを口にしなかった。
口に出すには、少し生々しすぎた。
“触れるな”の圧だ。
エルフリーデが席に戻り、椅子に腰を下ろす。
「何か、問題ありましたか?」
書類を整えながら、何気なく聞く。
ルーカスは、少しだけ首を傾けた。
「うーん」
考える素振り。
本当に考えている顔。
「いや。特に」
あっさりと否定する。
「ただ、最近……」
言いかけて、やめる。
代わりに、いつもの胡散臭い笑みを浮かべる。
「君、やけに声かけられるね」
軽い冗談みたいな言い方。
だが、視線は鋭い。
エルフリーデは一瞬考えてから答える。
「……そうでしょうか?」
「うん」
即答。
「前より、目立つ」
理由は言わない。
説明もしない。
でも、その一言には妙な含みがあった。
それが良いことなのか悪いことなのか分からず、エルフリーデは首を傾げるだけだった。
「仕事は増やしてないよね?」
念押しするように聞く。
「はい。適量です」
「なら、いい」
それで納得したらしい。
周囲の様子を一瞥し、声を落とす。
「困ったら、すぐ言って」
それは指示ではなく、確認でもなかった。
“そうしていい”と許可を出すような、静かな声音。
ここでは、誰かが無理をしてまで回す必要はない。
そういう前提を、改めて彼自身が示しているようだった。
「君が抱える必要は、ないから」
エルフリーデは小さく頷いた。
その横で、ルーカスは内心だけで首を傾げていた。
(……なんで、ああいうのが気になるんだ)
仕事の流れは問題ない。
配置も適切。
効率も落ちていない。
なのに。
(……視界に入るのが、嫌だな)
彼女が、誰かに値踏みされるみたいに見えるのが。
理由が分からない。
だから、認めない。
――ただ、管理しているだけだ。
そう結論づけて、彼は次の書類に目を落とした。