作品タイトル不明
再配置
馬車は、王宮の裏門から入った。
正門ではない。
凱旋でも、帰還でもない扱いだ。
石畳の振動が、一定のリズムで身体に伝わる。
エルフリーデは背もたれに身を預けたまま、目を閉じていた。
「……到着です」
外から声がかかる。
扉が開き、冷たい空気が一気に流れ込む。
降りるのを手伝う手はない。
あるのは、促すだけの視線だ。
足を地面につけた瞬間、理解する。
――出迎えが、ない。
花もない。
整列した近衛もない。
歓迎の言葉もない。
あるのは、配置転換のための動線だけだった。
「こちらへ」
先導するのは、見覚えのない女官。
年齢も立場も分からない。
ただ、“慣れている”歩き方をしている。
連れて行かれたのは、執務棟ではなかった。
更衣室。
連
更
「……着替え?」
思わず口にすると、女官は頷いた。
「王女殿下の服装ではありませんので」
それだけだった。
説明も、謝罪もない。
差し出された衣装を見て、
エルフリーデは、一瞬だけ動きを止めた。
新しいドレスではない。
見覚えがある。
王宮にいた頃、着せられていた服だ。
王女用と呼ぶには、あまりにも簡素だった。
余分な装飾は削がれ、動きやすさだけを優先した仕立て。
袖口には引っかけた跡が残り、洗い重ねた布地は、目に見えて疲れている。
それでも、作り直されることはなかったもの。
(……これを)
(……また、着せるのね)
制服を脱がされる。
連邦の職員としての印。
袖の紋章。
実用性だけを突き詰めた、働くための服。
その途中、胸元で小さく金属音がした。
ネックレス。
外す理由のなかったもの。
女官の視線が、一瞬だけそこに落ちる。
「……それも」
短く言われる。
外す、という言葉すら使われなかった。
エルフリーデは、無言でネックレスを外した。
女官はそれを受け取り、小さな布袋に入れる。
制服と一緒に、箱へ。
丁寧ではない。
だが、乱暴でもない。
役割外の私物としては、適切な扱いだった。
王宮時代の服を着せられる。
サイズは、当然合っている。
昔の自分のために仕立てられたものだから。
鏡の前に立たされる。
そこに映るのは、
数時間前まで“連邦の官僚”だった自分ではない。
――雑務用の王女。
役割を、思い出せと言われている。
「……次はこちらです」
息をつく暇もなく、歩かされる。
向かった先は、執務棟の一角。
会議室でも、謁見の間でもない。
かつて、自室として与えられていた執務室だった。
人の気配はない。
だが、部屋の中央と壁際に、見覚えのない書類箱が無造作に積み上げられている。
まるで、長く空いていた部屋に、「必要なものだけ」を後から詰め込んだかのように。
机の中央に、書類の山。
――嫌な予感が、形を持つ。
「こちらが、本日中に処理すべき案件です」
女官が淡々と言う。
本日中。
エルフリーデは、書類を一枚取った。
外交文書。
差し戻し。
地方領主の嘆願。
予算超過。
会議用の要約。
署名欄が空いたままの決裁書。
(……全部)
(……全部、知ってる)
かつて、自分が処理していたものだ。
いや、自分に押し付けられていたもの。
「質問は?」
女官が聞く。
「……これは、どなたの指示で」
「王宮です」
それで終わりだった。
「昼食は?」
「必要でしたら、後ほど」
必要でしたら。
つまり、仕事が終われば。
椅子に座らされる。
ペンとインク壺が置かれる。
開始の合図はない。
――始めろ、ということだ。
エルフリーデは、深く息を吸い、最初の書類に目を通した。
文字が、頭に入ってくる。
勝手に整理される。
修正案が浮かぶ。
それが、地獄の始まりだった。
時間の感覚が、消える。
一通、終わる。
次。
また次。
手首が重い。
指が痛い。
視界の端が、わずかに揺れる。
それでも、止まれない。
止まれば、
「遅い」
「使えない」
「連邦で遊んでいたのか」
そう言われる未来が、はっきり見える。
――知っている。
だから、動く。
昼の鐘が鳴った気がした。
だが、誰も何も言わない。
水差しが置かれ、黒パンが一切れ、机の端に追加される。
それだけ。
エルフリーデは書類を読みながらそれを口に入れ、
水で流し込んだ。
味はしない。
指先が、震え始める。
ペンを握る力が、わずかに抜ける。
「……っ」
視界が、急に狭くなる。
(……あ)
次の瞬間を、覚えていない。
気づいた時には、暗かった。
天井がある。
柔らかい布の感触。
――ベッド。
見覚えのある天蓋。
自分の、昔の寝室。
エルフリーデは仰向けのまま、動けなかった。
身体が、鉛のように重い。
喉が、焼けるように渇いている。
「……倒れられましたので」
枕元から、声。
メイドだ。
昔と同じ。
視線を合わせない。
「こちらで休ませるよう、指示がありました」
休ませる。
それが“配慮”だとでも言うように。
「……どれくらい」
「二刻ほどです」
二刻。
つまり、半日も持たなかった。
エルフリーデは、天井を見つめた。
何も、変わっていない。
部屋も。
扱いも。
役割も。
変わったのは――
自分が、一度「外」を知ってしまったことだけだ。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かに折れる。
(……始まった)
連れ戻された初日。
歓迎はなかった。
説明もなかった。
選択肢もなかった。
あったのは、服を着替えさせられ、席に座らされ、働かされ、壊れたら運ばれる。
それだけ。
エルフリーデは、ゆっくりと目を閉じた。
涙は出ない。
泣く余裕は、もうない。
この王宮で、倒れることは「失敗」ではない。
ただの進捗遅延だ。
休ませられたのも、労わりではない。
壊れきる前に戻しただけだ。
――使えるうちは使う。
――壊れたら、直して使う。
それだけの場所。
エルフリーデは、重たいまぶたの裏で理解した。
ここでは、逃げなかったことも、正しい判断も、連邦で積み上げた実績も、何一つ、評価の対象にならない。
あるのは、役割だけだ。
第三王女。
雑務係。
穴埋め役。
責任を取らされる者。
それ以外の名前は、ここには存在しない。
喉の渇きに耐えながら、エルフリーデは小さく息を吸った。
(……初日で、これ)
では、明日は。
その答えを考える前に、
意識が、また、ゆっくりと沈んでいく。
――王宮に戻された初日。
それは、
再教育の開始日だった。