作品タイトル不明
恋と家族
朝のエレナ亭は、よく晴れていた。
塀のない庭に、白いテーブルがひとつ。湯気の立つ紅茶と、焼きたてのパン。それから、黄身のとろりとした、目玉焼き。鳥の声を聞きながらの朝食なんて、いったい何年ぶりだろう。——もっとも私のほうは、一睡もしていない目で、それを眺めているわけだけれど。
「……そう。実はね」
フォークを置いて、エレナが、少し照れたように言った。
「マルコと、そういう感じに、なっちゃって」
「……っ」
紅茶を、噴きそうになった。やっぱり。さっき門の前で見たものは、夢でも幻でもなかったのだ。
「マルコが、エレナのことを気にしてたのは……薄々、気づいてたけど」
「あら。あなた、気づいてたの」
「それより、いつの間に、そんな」
エレナは、カップを両手で包んで、ふふ、と笑った。
「ほら。前に、あなたとマルコが、徹夜で、値札のタグを作った日が、あったでしょう」
「う、うん」
覚えている。開店の準備に追われて、人手が足りなくて。マルコまで引っぱり込んで、三人がかりで、何百枚というタグに店の名を刷り込んだ、あの夜だ。明け方には、みんなインクだらけになって、げらげら笑い合った。
「あのときのマルコが、なんだか、かっこよくてねえ」
エレナが、頬に手を当てる。
「徹夜明けで、こう……ムラムラっと、来ちゃって」
「ム、ムラムラっと!?」
「うん。私から、押し倒しちゃった」
「——っ!!」
今度こそ、私は、見事にむせた。エレナは、けろりとしている。
「自分でも、信じられなかったわ。この私が、そんなことするなんて」
カップの中の紅茶に、目を落とす。その声から、ふいに、おどけた色が、抜けた。
「……だって私。夫を亡くしてから、そういう気持ち、一切、なくなってたのよ。十年。心も体も、ずっと、喪服を着たまんま」
「……エレナ」
「でも。あなたと一緒に働くようになってから、なんていうか——」
エレナが、苦笑した。
「生きる活力が、漲るっていうか、ね」
その言葉が、ことん、と、私の胸の底に落ちた。
——生きる活力。
ああ、それは。きっと、ゆうべの私の、うなじの奥で鳴った、あの小さな音と——同じものだ。
夫に死なれた女と、夫を捨てた女。二人とも、とっくに女を捨てたつもりでいて。それでも、こうして商いに飛び込んでみたら、体の奥で、忘れたはずの熱が、勝手に、もう一度、燻りはじめる。
「はーーーっ。人生って、何があるか、わかんないものねえ」
エレナが、伸びをして、晴れた空を仰いだ。
「楽しいわ〜」
私は、つられて、笑った。
「……おめでとう、エレナ。二人は、お似合いよ」
「ありがと」
エレナが、ふと、こちらへ向き直る。
「で。こんな朝っぱらから、どうしたの。——何か、あったんでしょう」
見抜かれている。私は、カップを置いて、うつむいた。
「……じ、実は」
◇ ◇ ◇
「は——————っ!? ニッキーが!?」
事の次第を、ようやく打ち明け終えるなり、エレナの素っ頓狂な声が、庭中に、響き渡った。
「いいじゃない! いいじゃないの! 結婚しちゃいなさいよ、もう!」
「で、でも……彼には、私じゃ、釣り合わない気が、して」
「なーに言ってるの!」
エレナが、テーブルを、ぱしんと叩いた。
「あんたは、いい女よ。どうして、そんな変なところで、謙遜するの!?」
「わ、私は……人生を、全部、仕事に、捧げようかと」
「またまた、何を言ってんの」
エレナは、心底呆れた、という顔で、私を見た。
「あなたみたいな、強欲な女が?」
「……強欲、ですか。私が」
「そうよ」
エレナの視線が、庭の向こう——朝の光を浴びて静かに建つ、白い二号店へと、流れる。
「あれもこれも欲しいって、片っ端から手を伸ばして。たった一軒の、小さな帽子屋から、こんな売上を立てる商会まで、作り上げたじゃないの」
「…………すみません」
「謝らないの」エレナが、にやりと笑った。「いい、ガブリエル。よく聞きなさいよ」
彼女は、人差し指を、私の鼻先に、ぴたりと突きつけた。
「手に入れるなら——全部、手に入れるのよ。お金も。名誉も。素敵な男も。家族も。ぜんぶ、よ」
ぜんぶ。
その言葉が、胸に刺さって、抜けなくなった。
仕事でなら、私は、いくらでも貪欲になれた。欲しいものは、奪ってでも手に入れてきた。なのに——自分の幸せの話になった途端、どうして私は、こんなにも、欲しがることを、恐れているんだろう。
「で、でも」
「まだ、何よ」
「ニッキーの……ご両親が、私を見て、なんというか……」
言いかけて、口ごもる。値踏みするような、あの視線の冷たさを、思い出す。
「ふむ」
エレナが、腕を組んだ。それから、実にあっさりと、言い放った。
「確かに。カートライト商会の御曹司の、お嫁さんとしては——あんた、ちょっと、年増ねえ」
「!」
「ひ、ひどい! だから、相談してるのに!」
「ごめんごめん」エレナが、けらけら笑う。「で、ニッキーって、兄弟はいるの?」
「確か……お兄さんが、二人。あと、妹さんが、いるって、言ってた気がする」
「じゃあ、大丈夫じゃない」
エレナが、ぱっと顔を上げた。
「三男なら、跡取りには困ってないでしょ。だったら、あんたがお嫁さんでも、向こうは、そう気にしないわよ」
——そう、だろうか。そうだと、いいのだけれど。
「それで」エレナが、身を乗り出す。「ニッキーは、なんて言ってるの」
私は、少しためらってから、答えた。
「……お父様に、会ってくれって」
◇ ◇ ◇
——ベルリア王国の、東。
海を隔てた先に、アルビオン共和国は、あった。
今から十数年前。この国で、革命が起きた。絶対王政と封建制度ばかりの、この世界で。アンナとケネス——二つの名を旗印に立ち上がった民衆は、王の首をすげ替えるのではなく、王の椅子そのものを、取り払ってみせた。
そうしてアルビオンは、世界で初めて、議会制民主主義を取り入れた国家となった。
土地を握り、人を握っていた貴族は、力を失った。代わって台頭したのは、市民階級の、新しい富者——ブルジョワジーである。血ではなく、富が、人を動かす。いわゆる資本主義社会への移行を、アルビオンは、世界に先駆けて、成し遂げたのだ。
そして、その新しい時代の波に乗ってのし上がった、一人の男が興した商会があった。
——カートライト商会。
「ベルリアに、ですか!?」
執事の声が、広い書斎に、跳ね返った。
机の向こう。『商会長 フレッド・カートライト』と刻まれた、重厚なネームプレート。その奥に、巨躯が、ゆったりと構えている。
岩を削り出したような、肩。鉄のステッキを、無造作に床へ突いて。歳を重ねてなお衰えを知らぬ、圧倒的な威圧。それが、ニッキーの父——フレッド・カートライトだった。
「ニッキーめ」
腹の底から、低い声が、唸る。
「ワシが見合いを勧める手紙を、ことごとく、無視しおる」
「坊っちゃまは、事業にお忙しく……それどころでは、ないのかと」
「たわけ!」
ステッキの先が、硬い音を立てて、床を打った。
「跡取りを作るのも、立派な、仕事ではないか!」
フレッドが、立ち上がる。窓の外、自動車と馬車の行き交う、新しい時代の街並みを、睥睨した。
「産めよ。増やせよ。それでこそ——我がカートライト商会は、いっそう、力を増すのだ」
「は、ははっ」
「船便を、手配しろ。アルフレッド」
「は。……して、もし、坊っちゃまが、なおも見合いを、お拒みになるようでしたら」
フレッドの目が、影の中で、ぎらり、と光った。
「これ以上、拒むようなら——ベルリア支社は、マルコスあたりに、くれてやる。ニッキーは、この国へ、連れ戻す」
海を渡る船の手配が、淡々と、進められていく。
王都に、芽吹いたばかりの、恋の季節。その甘く浮き立つ空気の中で、まだ誰も——ガブリエルも、当のニッキーさえも、気づいてはいなかった。
遠い海の向こうから、冷たい風が、ゆっくりと、こちらへ舵を切りはじめていることに。