作品タイトル不明
女の幸せ
「私は――ガブリエルさんを、妻にもらいたいのです」
……ええええええ!?
頭の中で、悲鳴が反響した。
「ガブリエルさん、僕はあなたが、どうしても欲しい」
ニッキーが、一歩、こちらに踏み出してくる。私は両手を突き出して、彼を押しとどめた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、落ち着いてください!」
何が、何で、どうして。何が起きているのか、まるで処理が追いつかない。
「ぼ、僕は……」
「ニッキーさん、待って!」
「!」
私の声に、ニッキーがはっと我に返った。
「深呼吸して、ください」
「は、はい」
二人して、その場で深呼吸をした。間抜けな光景だったと思う。けれど、そうでもしないと、二人とも溺れてしまいそうだった。
「ニ、ニッキーさん」
息を整えて、私は言った。
「私は、離縁歴があって、もうすぐ三十になる女ですよ?」
「……」
「ニッキーさんほど素敵な人だったら、私なんかより、いくらでも素敵な人が――」
「素敵なのは、ガブリエルさんです!」
ニッキーが、遮った。
「あなたより素敵な人なんか、いくら世界を回ったって、いやしません」
「……っ!」
胸の奥が、不覚にも、小さく跳ねた。
「もちろん、あなたから見たら、僕は物足りない男かもしれない。ですが!」
彼の目に、見覚えのある光があった。あの夜会で、野望を語ったときの、あの燃えるような光だ。
「僕は、まだまだこれからの男です。いつか必ず、あなたに相応しい男になってみせます」
「だから、どうか……」
膝をついて、彼は懇願した。床に片膝を落とした若い男を、私はただ、呆然と見下ろしていた。
ニッキーが、嫌いなわけではない。
優しく、誠実で、頼りになる。結婚するのであれば、これ以上ない男だということは、私だって理解している。
けれど、私の心を支配していたのは、喜びよりも、困惑だった。
「そして……」
私は、声を絞り出した。
「ニッキーさん」
「はい」
「大変、ありがたいお話だとは、思うのですが」
膝をついたままの彼に、私は告げた。
「私達の関係は――夫婦よりは、ビジネスパートナーで、あるべきだと思うんです」
「ガブリエルさん……」
「そもそも、ニッキーさんはカートライト商会を継ぐべきお方です。私が今から、あなたの子供を産んで育てるなんて――荷が重すぎます」
「……」
「それに、私は」
言いながら、自分の言葉に、自分で痛みを感じていた。
「私は、とっくに……女としての幸せは、捨てました」
「!」
ニッキーが、息を呑む。
「むしろ、これからは、私の夢に乗ってくれた人達のためにも、仕事に人生の全てを賭けたいんです」
トーマスの、涙を拭った指。ロザリーの、観念したような笑み。マリアの、まっすぐな目。古参の三人。私の夢の船に乗ってしまった、たくさんの人達の顔が、脳裏をよぎった。
「だから――」
「そう言われると、思っていました」
ニッキーが、私の言葉を引き取った。
「だが、その上で。私は」
ゆっくりと、彼は立ち上がった。
「ガブリエルさんを、妻にもらいたいのです」
……えええええ――!!
「まあ、すぐに結論を出す必要は、ないじゃないですか」
そう言うと、彼は軽い足取りで、扉の方へ歩いていった。
「まずは、しばらく考えてみてください」
そして、出ていってしまった。
後には、ぽかんと立ち尽くす私だけが、残された。
クレシェント夫人の屋敷を訪ねたのは、その日の夕刻だった。
夫人の前に、マリアとロザリー、そして私が並んでいる。長椅子にゆったりと腰を下ろした夫人は、パイプの煙を細く吐きながら、私達を眺めていた。
「もちろん、あれは賭けだったさ」
ふいに、夫人が言った。
「あんたらが、ガブリエルを受け入れるかどうかはね」
マリアとロザリーが、ちらりと顔を見合わせる。
「だが――賭けには、勝てたみたいだ」
夫人の口元が、悪戯っぽく吊り上がった。
「これから、ガッポガッポ稼いでもらわなきゃねえ」
「結局、ママの掌の上で転がされてるってことね」
ロザリーが、肩をすくめる。
「ガブリエル、あんた、後悔するかもよ」
マリアが、半ば本気で言った。私は、首を横に振った。
「いいえ。お母様を後悔させないように、頑張ります」
「ねえねえ、ママ」
ロザリーが、甘えるように身を乗り出した。
「私、明日ブレンナールに戻るから、何か食べに行こうよ」
「残念だね」
夫人は、つれなく言った。
そのとき、奥の扉が開いて、夫人の夫が姿を見せた。あの闇社会の女帝が、ふっと表情を緩める。
「私は今夜、夫とオペラ鑑賞なのさ」
ちゅ、と。
夫人が、夫の頬に軽く口づけた。年老いた夫が、目を細める。差し出された手に、夫人は自分の手を重ねた。
「じゃ、行こうか」
「今夜は楽しみねえ、ダーリン」
「僕もだよ、ハニー」
扉へ向かいながら、夫人が振り返った。
「あんたら、仕事もいいけどさ」
煙の向こうで、その目だけが、妙に真剣だった。
「女の幸せ、忘れちゃダメだよ」
「お母様……」
「女なんてものは」
夫人は、夫の腕に手を絡めた。
「自分を愛する男がいて、なんぼなんだからさ」
二人の足音が、廊下の奥へ消えていく。
「ああ見えて、あの夫婦、仲いいんだよね」
マリアが、ぽつりと言った。
「ベタベタしすぎだろ。気持ちわりー」
ロザリーが顔をしかめる。
けれど、私は、二人の軽口を、半分も聞いていなかった。
膝をついた、若い男の姿。あなたより素敵な人はいない、と言った、まっすぐな目。
――女としての幸せは、とっくに捨てた。
ついさっき、自分の口でそう言ったばかりだった。胸を張って、迷いもなく言ったはずだった。
それなのに、なぜ今、夫人の言葉が、こんなにも胸の奥に刺さっているのだろう。