作品タイトル不明
期待値
「ねえ? いいでしょ、ママ?」
困惑した夫人の前で、私はおねだりするように首を傾けた。
ミランダは、心の中で唸っていた。
──いったい、こいつは何が目的でやって来たんだ?
──基金の設立の話だったのに、なぜコイツが私の養子に……!?
二人は対峙したまま、しばらく動かなかった。
──いつのまにか、口車に乗せられている自分も感じていた。
──まさかこの私が? 王都中の貴族が恐るミランダ・クレシェントが? こんな小娘の口車に?
契約書を前にして、夫人の手が震えた。
──だめだ。こんな契約書にサインする必要はない。こいつは敵だ。いつか大きくなる前に、この場で潰すべきなのだ……と。
七十パーセントぐらい、夫人はそう思っていた。
だが、残り三十パーセントは——。
──こいつが養子になると何が起きる? 面白そう? 見てみたい、みたいな気持ちが占めていた。
「ふん」
夫人の口元が、ふっと動いた。
ペンが、契約書の上を走った。
サラサラと、サインが書かれた。
契約書を、夫人は私に突きつけた。
「これであんたは、私の娘だ」
「これからよろしくね、お母様!」
──勝率ではなく期待値の高い方に賭けるのが、ミランダの商法である。
◇ ◇ ◇
執務室で、私たちは並んで書類仕事をしていた。
「じゃあ、ガブリエル」
夫人が大声で言った。
「倍の利子で、私がロザリーに貸した金を返しな」
「すぐにでも返済しますわ、お母様」
私は書類を束ねながら答えた。
「あと、ついでにマリアやロザリーに貸し付けていた、奴らを育てるのに使った金も払ってもらおうかね?」
夫人が手紙を差し出した。
「借用書は?」
「当然ある」
私は手紙を折りたたみながら答えた。
「ではお母様、その債権を私に売ってください」
「ほう、取り立てる気か?」
便箋を取り出し、私はその中に手紙を入れた。
「あたしも、取りっぱぐれている金だ。あいつらは素直に返すたまじゃなくってねえ」
私は便箋を夫人に差し出した。
「お前が取り立てられるとは思えないけどねえ」
夫人がペンを取り、便箋にサインをした。
「はい。ですから、それもカトリーヌ夫人の基金の担保に加えますわ。銀行からお金を借りるときに、少しは足しになるでしょう?」
便箋が、私の手元に戻ってきた。
「しかも、二人のビジネスが上手くいって彼女たちに信用がつけば、この借用書の価値も上がりますから」
「……あきれたガメツさだね」
夫人が苦笑した。
「あの婆さんのセレモニーを邪魔したのは、誰か知ってるかい?」
私は手紙を握る手を、わずかに止めた。
「お母様じゃなくて?」
「あたしはそんなことしないよ」
夫人が、首を振った。
「私はただ、ガブリエルに好き勝手させていいのかいって煽っただけさ。ロザリー、それにトーマスとヴィンセントにね」
夫人がおかしそうに笑った。
「トーマスとヴィンセント?」
「あんたも見たことあるだろ? ギャングに属してる黒服の二人さ」
夫人の目が、わずかに細くなった。
「片方は口がよく回るし、片方は腕っぷしが立つ。あの二人をうまく使いこなせるかどうかが、店をやっていく上での試金石になるだろうね」
「あの店をやるってことは、あんたはそういうのも使わなきゃならないってことなんだよ」
◇ ◇ ◇
ロザリーの家で、グラスが交わされていた。
「カンパーイ」
トーマスが軽快な口調で乾杯の音頭を取った。隣でヴィンセントが、無言のまま自分のグラスを傾けた。
「ガブリエルの奴のお店、今日見に行ったら『しばらく開店日をのばします』だって」
ロザリーが愉快そうに言った。
トーマスがロザリーを流し見た。
「旦那の元奥さんには悪いが、我らの姉さん達の方が格上だったようですねい」
ヴィンセントは黙ったまま、肉を噛んでいた。咀嚼する顎の動きだけが、ゆっくりと続く。
テーブルの隅で、ジャックがぐったりしていた。
「うう、それよりも、もう寝かせてくれ。一日十三時間もぶっ通しで働くなんて、体がもたないよ」
「何情けないこと言ってるんですか」
トーマスが鼻で笑った。
「それは旦那が、貴族としてヌクヌク生きて来たからですよ」
マリアだけが、黙りこくって帳簿を見つめていた。
「どうしたんだいマリア」
ロザリーが声をかけた。
「思ったより利益が出てないわ」
マリアが顔を上げずに答えた。
「やっぱ庶民相手は単価が低すぎるみたい。少し、生産数を絞って様子をみない? ママの借金の利子もある。このままじゃ……」
「それはこまりますよ」
トーマスが横から口を挟んだ。
「あっしらは布地を安く仕入れるために一括購入したんですぜ」
「返品できるものはした方が。まだ金は払ってないんだろ?」
「それも困りますよ。あっしらだってメンツがある」
ヴィンセントは、その間も一言も発さなかった。だが、その太い指がグラスを握る力は、話の流れに合わせて、少しずつ強くなっていた。
その時、玄関のベルが鳴った。
カラン、カラン。
「誰だよ、こんな時間に……」
マリアが立ち上がり、扉を開けた。
立っていたのは、私だった。
「こんばんは、マリアさん」
「ガブリエル……」
私は微笑んだ。
「今日は挨拶に来たの。あなた方ロザリー商店のオーナーとして」