軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

湿地の作法と、初めての釣り竿

広大な草原地帯は、旅を続けるうちにその姿をゆっくりと変えていった。

乾いた草の匂いは影を潜め、代わりに湿った土と、青々とした苔の香りが鼻腔をくすぐる。

地面は次第に柔らかさを増し、時折ブーツが「じゅっ」と音を立てて沈み込んだ。

「師匠、空気が重くなったような……それに、この匂い……」

クリスが顔をしかめながら言う。

乾いた風に慣れた体には、じっとりと肌にまとわりつくような湿気は不快に感じられるらしかった。

「ああ。エルマーさんから聞いたとおりだな。湿地帯に入った証拠だ。ここからは、歩き方一つも変わってくるぞ」

俺の言葉通り、周囲の景色は一変していた。

カエルたちの合唱がどこからともなく聞こえ、頭上では見慣れない水鳥が甲高い声で鳴きながら飛び交っている。

ロウェナは、物珍しそうに足元の粘土質の土をいじったり、虹色に輝く羽を持つトンボを目で追いかけたりと、新しい環境に興味津々の様子だ。

やがて、流れの緩やかな小川のほとりで、俺は足を止めた。

「少し休憩しよう」

水辺に腰を下ろしたクリスが、魚影の走る川面を見つめながら、大きなため息をついた。

「ヴァイデにいた時に、ちゃんとした釣り竿を一本、買っておくべきでしたね……。そうすれば、今晩の食事も豊かになったでしょうに」

その悔やむような言葉に、俺は首を横に振った。

「旅の荷物は限られてる。あらゆる状況を想定して道具を揃えていたら、きりがないさ」

俺は立ち上がると、二人に向き直った。

「それに、これは良い機会だ。俺たちの保存食にはまだ余裕がある。だが、旅に『もしも』はつきものだ。万が一、食料が尽きた時にどうするか。そのための訓練だと思え」

俺はそう宣言すると、川辺に生えていたしなやかな若木を一本選び、ナイフで手際よく余分な枝を払い落としていく。

そして、近くの蔓植物から丈夫そうなものを引きちぎり、その繊維を巧みに縒り合わせて一本の丈夫な釣り糸を作ってみせた。

「竿はしなりが命だ。糸は切れんものがいい。針は……まあ、当分はこれで代用だ」

俺は鋭い木の枝を小さく削り、釣り糸の先に結びつける。

原始的だが、必要十分な釣り竿が、あっという間に完成した。

クリスとロウェナは、その無駄のない手作業を食い入るように見つめていた。

「よし、やってみろ」

俺が促すと、二人はそれぞれのやり方で竿作りに取り掛かった。

ここから、二人の個性の違いが面白いほど明確に現れ始めた。

クリスは、持ち前の知識欲と生真面目さから、俺の教えを完璧に再現しようとした。

「なるほど、竿のしなりと錘のバランスが重要……こうすれば、合わせの際に効率的に力が伝わるのですね!」

彼はぶつぶつと独り言を呟きながら、理論的に最適な枝を選び、蔓の結び方も書物で読んだ知識を応用して完璧にこなす。

だが、いざ実践となると、その理屈っぽさが裏目に出た。

「えいっ!」

力みすぎた彼の竿から放たれた仕掛けは、放物線を描いて遥か対岸の茂みに突き刺さってしまう。

「くっ……! 今のは角度が悪かった。次はもう少し手首のスナップを……」

彼は再び仕掛けを投げるが、今度は結び目が緩んで仕掛けだけが飛んでいく。

理論と現実の齟齬に、クリスは徐々に焦りの色を浮かべ始めた。

一方のロウェナは、難しい理屈など一切気にしていなかった。

彼女はただ、俺が竿を作っていた時の動きをじっと見て、感じたままに模倣する。

選んだ枝も、結んだ蔓も、不格好で頼りない。

だが、彼女はそんなことなどお構いなしに、魚がいそうな川の淀みにそっと腰を下ろした。

クリスのように派手に仕掛けを投げることはせず、ぽちゃん、と静かに水面へと垂らす。

そして、そのまま人形のように、ぴくりとも動かなくなった。

子供ならではの純粋な集中力で、ただひたすらに、水面に浮かぶ木の葉の目印を辛抱強く見つめている。

静寂の中、クリスがまた一つため息をついた、その時だった。

ロウェナが持つ不格好な竿の先が、くんっ、と小さく、しかし確かに水中に引き込まれた。

「!」

彼女は教えられた通り、間髪入れずに竿をくいっと引き上げる。

銀色の光が水面を割り、小さな魚が一匹、きらきらと陽光を反射しながら宙を舞った。

「つれた!」

ロウェナの弾んだ声に、クリスは自分の竿を握りしめたまま、驚きと、そしてほんの少しの焦りが入り混じった顔で固まっていた。

.

その日の夕食は、ロウェナが釣り上げた数匹の小魚だけが乗った、質素な塩焼きだった。

焚き火の炎を見つめながら、クリスは悔しそうに唇を噛んでいる。

俺はそんな彼の隣に座り、静かに声をかけた。

「焦るな。理屈が分かっているなら、あとは慣れだ」

クリスはこくりと頷くと、自分が獲った魚を宝物のように大切に味わっているロウェナに向き直った。

そして、吹っ切れたように、ふっと笑みをこぼした。

「たいしたものだな、ロウェナちゃん。今日のところは、俺の完敗だ」

彼は立ち上がると、まだ湿っている自分の釣り竿を握りしめる。

「だが、見てろよ! 明日は俺が、この川で一番大きいのを釣ってみせるからな!」

その言葉に、ロウェナは得意げに「ふふん!」と鼻を鳴らし、挑戦を受けるように力強く頷いたのだった。