軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

師匠と呼ばないでくれ

酒場の喧騒が、一瞬にして遠のいた。

床に額をこすりつけんばかりの勢いで土下座する、付け髭の剥がれかけた男。

その異常な光景に、周囲の客たちの視線が、まるで鋭い矢のように俺たちのテーブルへと突き刺さる。

(……なぜ、こうなる)

俺はこめかみを押さえ、深く、長いため息を漏らした。

隣では、ロウェナが何が起きたのか分からず、ただ目を丸くして俺の外套の裾を固く握りしめている。

「立て」

俺は、できるだけ静かに、しかし有無を言わせぬ響きを込めて命じた。

「人目がある。話は、場所を変えてからだ」

男は、はっと我に返ると、慌てて立ち上がった。

その動きはどこか育ちの良さを感じさせるものだったが、今の状況では滑稽でしかない。

俺は勘定をテーブルに置くと、ロウェナの手を引き、足早に店を出た。

クリスも、慌ててその後を追ってくる。

人通りの少ない路地裏まで来ると、俺は振り返り、命令した。

「まず、そのみっともない髭を取れ。話はそれからだ」

クリスは素直に付け髭を剥がすと、改めて俺に向き直り、深く頭を下げた。

「俺はクリスと申します! 先日は、仲間たちが大変な無礼を……」

「自己紹介はいい。理由を聞かせろ。なぜ、俺の弟子になりたい」

俺の単刀直入な問いに、クリスは顔を上げた。

その瞳には、子供のような純粋な情熱が宿っていた。

「あなたの剣技に、俺が追い求めていた『本物』の輝きを見たからです! 俺がこれまで学んできたのは、型にはまった、いわば『見せる』ための剣術でした。しかし、あなたの剣は違う! 生きるか死ぬかの瀬戸際で磨き上げられた、一切の無駄がない、ただ敵を打ち倒すためだけの洗練された技……! それこそが、俺が求める真の強さなんです!」

熱っぽく語るクリスの言葉は、嘘偽りのない本心なのだろうか。

だが、俺の答えは変わらない。

「断る」

俺は、一言で切り捨てた。

「俺は弟子を取る気はない。そもそも、人に何かを教えるのは性に合わん。面倒だ」

「そ、そこを何とか! 身の回りの世話でも、荷物持ちでも、何でもします! ですから……!」

「しつこいぞ。二度はない」

俺はそれだけ言うと、呆然と立ち尽くすクリスに背を向け、ロウェナと共にその場を去った。

宿に戻り、部屋の扉を閉めた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。

ベッドに腰掛け、大きくため息をつく。

すると、隣に座ったロウェナが、小さな手で俺の背中を優しく、ぽんぽんとさすってくれた。

その温かい感触に、ささくれ立っていた心が、少しずつ凪いでいくのを感じる。

俺は苦笑し、ロウェナの頭を優しく撫でた。

そして、ひょいと彼女の体を抱きかかえる。

「わっ!」

小さな体を軽く宙に持ち上げてやると、ロウェナは驚きの声を上げた。

そのまま、ゆっくりと揺らしてやる。

「えへへ……」

やがて、ロウェナの顔に笑顔が戻り、しまいには「きゃはは!」と、鈴を転がすような明るい笑い声が部屋に響いた。

その声を聞いていると、先ほどの面倒な出来事など、どうでもよくなってくるから不思議だ。

翌日、俺たちは朝食を済ませると、街に昇格するというこの宿場を見て回ることにした。

ため池の周りには活気のある朝市が立ち、新鮮な魚や瑞々しい野菜、そしてこの土地ならではの工芸品を売る露店がずらりと並んでいる。

池で獲れた小魚を串に刺し、甘辛いタレで焼いたものの香ばしい匂いが、鼻先をくすぐった。

「えど、いる」

俺が露店に並んだ武具を眺めていると、ロウェナが俺の外套の裾をくいと引っ張り、そっと囁いた。

彼女が指差す先には、大きな樽の陰から、これ以上ないほど怪しい挙動でこちらを窺うクリスの姿があった。

昨日とは違う、やけにツバの広い帽子を目深に被っているが、バレバレだ。

俺はわざと大きなため息をついて見せ、別の通りへと歩き出した。

だが、クリスは諦めない。

俺たちがパン屋に入れば、店の外の窓から中の様子を窺い、鍛冶屋で職人の仕事を見学していれば、いつの間にか隣で同じように腕を組んで頷いている。

「えど、また」

「まだいる」

ロウェナからの報告が、その都度、小さな声で耳に届く。

一日中、そんなことが続いた。

その執念には、もはや呆れるしかない。

夕暮れ時、闘技場の前を通りかかった時だった。

俺はついに根負けし、背後をつけてきていたクリスに向かって振り、側に来るように呼びかけた。

「……分かった。そんなに言うなら、一つだけ機会をやろう」

俺の言葉に、クリスの顔がぱっと輝く。

「明日、この闘技場で最後の予選が行われる。それに参加しろ」

「はい!」

「勘違いするな。まだ弟子にすると決めたわけじゃない。その予選を勝ち抜き、本戦でも良いところまで勝ち進むことができたら……その時、改めて考えてやる」

「考えてやる」、という曖昧な言葉。

だが、クリスにとっては十分すぎる希望だったらしい。

「はい! 必ずや、師匠のご期待に応えてみせます!」

「だから、師匠と呼ぶな!」

意気揚々と闘技場の方へ走り去っていくクリスの背中を見送り、俺は再びロウェナの手を引いて歩き出した。

ふと、ロウェナが一度だけクリスの方を振り返り、俺の背中に隠れるようにしながら、小さな、小さな声で呟いたのが聞こえた。

「……がんばれ」