軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 猫の下にもありませんでしたわ

その一言で、監査室の空気が変わった。

レイベルナは机の上の小箱を見る。

赤い蝋棒。

控え番号のリスト。

使用記録の帳面。

だが、王太子執務室の紋を押すための小さな印だけがない。

封蝋印――正式には 印璽(いんじ) と呼ばれる、蝋に押すための印である。

これが押されれば、その書類は王太子執務室を通った正式文書として扱われる。

支払い保証も、命令書も、契約控えも。

ただの紙では済まなくなる。

「最後に封蝋印を確認されたのは、いつですか?」

「レイベルナ嬢が婚約破棄された日の前日です」

レイベルナは一度だけ瞬きをした。

「財務卿。それは日付の呼び方として適切なのでしょうか」

「王宮内では、今のところ一番通じます」

「通じてしまうのが困ります」

扉の横に立つセドリックが、静かに口を開いた。

「正式には、春の祝宴の前日です」

「そうでしたな。公文書にはそちらで残します」

「最初からそうしてください」

「口頭ですので、分かりやすさを優先しました」

「分かりやすさの方向が少し嫌ですわ」

財務卿は咳払いし、記録帳を開いた。

「春の祝宴の前日、支払い保証用の封蝋印は一度使われています。⋯⋯問題はその後です」

「返却記録がないのですね?」

「ええ。戻った記録がありません。しかも、印そのものも、ないのです」

「かなり悪い状況ですわ」

「はい。私の朝食が止まる程度には」

机の端には冷めかけた茶と、かじりかけのパンが置かれている。

「それは朝食よりも優先ですわね」

「もちろんです。私にとっては国庫、朝食、猫の順です」

財務卿の腕の中で、灰色の猫が不満そうに「みゃ」と鳴いた。

「猫が抗議していますわ」

「仕方ありませんな」

「あとで謝ってくださいませ」

「本当は逆だと伝えましょう」

「それだと国庫が最後になりますが?」

「では、表向きは国庫が先だと伝えましょう」

「表向きでは困ります」

「猫には本音を、陛下には建前を」

「財務卿」

「失礼しました。国庫を守った後で、干し魚を渡します」

「それは経費ではありませんね?」

「私費です。経費にすると、今度は私が呼ばれますゆえ」

少しだけ空気が緩んだ。

だが、レイベルナが記録帳へ視線を落とすと、その緩みはすぐ消える。

最後の行には、細い文字で署名が残っていた。

だが、名前以外の部分がぽっかりと空いている。

「この署名は?」

「王宮文書院、記録係見習いのトマス・リードです。まだ若い男ですな」

「見習い?」

セドリックが記録帳を見た。

「押しつけやすい立場です」

「ええ。見習いの署名だけ残り、返却確認だけ空白。都合がよすぎますな」

「どこまで探しましたか?」

「王太子執務室の棚を15か所、引き出しを27か所、侍従室を4部屋、書類箱を12箱」

「かなり探されましたね」

財務卿は少しだけ目をそらした。

「念のため、猫の寝床を2つ」

「猫の寝床もですか」

「大事なものは、なぜか猫の下から出てくることがありますゆえ」

「それは王宮の常識ですか?」

「我が家の常識です。ですが、今回は違いました。猫は無罪でした」

猫が得意げに鳴いた。

「誇るところではありませんね」

「今のは無罪の者だけが出せる鳴き声ですな」

「それで結局見つからなかった、と?」

「はい、今のところ何も見つかっておりません。猫にも、棚にも、引き出しにも、書類箱にも印はありませんでした」

「つまり、誰かが持ち出した可能性が高いということですね」

「そう見ております」

レイベルナは記録帳を閉じた。

鈴は近道になる。

だが、呼び方を間違えれば責任の糸が絡まる。

犯人を呼ぶには、まだ早い。

まずは、この空白に関わった者からだ。

「財務卿」

「はい」

「この署名をしたトマスさんは、今どちらに?」

「文書院の控室か食堂でしょうな。朝のこの時間ですゆえ」

「では、朝食中かもしれませんね」

財務卿は自分のパンを見た。

「……少しだけ、仲間が増える気がします」

「財務卿」

「失礼しました。ただ、もし食事中でしたら、パンは持ったまま来ていただけるとよいですな」

「なぜですか?」

「私だけが食べかけのパンを机に置いていると、少し恥ずかしいゆえ」

レイベルナはそれをスルーして右手を開いた。

銀の鈴が、手のひらに現れる。

財務卿の表情が改まった。

セドリックが扉の前で姿勢を正す。

レイベルナは記録帳に手を添えた。

「支払い保証用封蝋印の返却記録に、最後に名を残された方をお呼びしますわ」

澄んだ銀の音が、監査室に落ちた。

――チリン。