軽量なろうリーダー

【コミカライズ化】毒婦と呼ばれた令嬢と、その護衛

作者: ゼン

本文

マルティナ・ハンメルバッハー伯爵令嬢は、美の 理(ことわり) を破る存在だった。

陽を受けた黒髪は深い群青に染まり、影に沈めば、夜を封じたかのような闇をまとい。

蒼い双眸は深淵のように澄み、頬にはうっすらと桃色が薫る。

唇には紅薔薇の気配を宿し、肌は雪よりもなお白く──……いや、こんな陳腐な表現では語れない。

ただ立っているだけで、場の気配が止まる。

それほどまでの、圧倒的な美しさだった。

社交界にマルティナが姿を見せてからというもの、その美貌は驚異と呼ばれている。「歴史に残る登場だった」と、今なお語り草だ。

届けられた求婚状は、三百通を優に超えた。

声変わり前の少年から、白髪の老伯爵まで。

詩人は恋を綴り、騎士は剣を捧げ、商人は金庫の鍵を差し出した。

神に仕える身すら、マルティナの為に誓いを破ったという。

屋敷の客間は花束と宝飾品であふれ、廊下には贈り物の木箱が積み上がった。

マルティナの父であるハンメルバッハー伯爵は困り果てた。

「この縁談をどう捌くか。いや、どの家なら娘が幸せになるか……ううむ」

一方、母はと言えば、鏡の前で首を傾け、往年の舞台女優の笑みを浮かべていた。

「私の娘ですもの。当たり前じゃなくて? ほほほ」

スポットライトを浴びた頃の紅が、頬に戻っていた。

しかし、マルティナの栄光は、きっかり一年で終わった。

公爵家の次男と婚約を決めた数週間後、マルティナの酷い噂が広がり始めたのだ。

最初は小さな陰口だった。

『真面目な令息を弄んでは捨てるんですって』

『とんでもない男好き』

『性に奔放らしい』

だが、それだけでは終わらなかった。

『ある夜の事件』を匂わせる囁きが、礼拝堂の控えの間や慈善茶会の場に流れ、誰かが書き留め、別の誰かが筆写しては広まり始めた。

その内容は、『ある夜、とある令息の部屋で、マルティナの髪飾りが見つかった』というものだった。

けれど不思議なことに、その令息の名は一度として噂に上らなかった。

髪飾りの所在も、誰の口にも触れられなかった。

まるで最初から令息も髪飾りも存在しなかったかのように。

面白がる舌は止まらない。

女たちはお茶会で密やかに囁き合い、噂は夜会の笑い話へと形を変え、やがて使用人や従者を伝って、男たちの酒席にも流れ込み、袖にされた男たちが火をくべた。

『僕もそうだった』

『あの瞳に惑わされて』

『すぐに捨てられた』

こうして、いつの間にか『噂』は、誰もが知る『真実』になった。

舞踏会で声をかける男は減り、求婚の手紙も止まった。

一年前まで花のように讃えられた名は、今や毒の香りを帯びている。

そしてついに、婚約は破棄された。

知らせを聞いた母の手から銀の手鏡が床に落ち、父は顔を蒼白にして握っていた一覧表を握り潰す。

公爵家は噂を嫌い、あっさりと手を引いた。

そして元婚約者は、驚くほど早く再婚約を決めた。

その再婚約相手である令嬢こそ、噂を広めた張本人である。

すべては、彼女が描いた筋書きの上だったというわけだ。

元婚約者は、『悪女』を何よりも嫌う男だった。

だから噂を信じた。

疑うよりも軽やかに、清楚で可憐な女 を(・) 演(・) じ(・) た(・) 令嬢を選んだ。

マルティナは、この時、ようやく理解した。自分が『悪者』にされたことを。

そして悟った。

彼は、噂を耳にした瞬間、それを真実として決めつける男だったのだ、と。

何かが音を立てて崩れ、その隙間に鋭い氷のようなものが差し込むのを感じた。

◇◇◇

婚約破棄から半年後。

冬が終わる頃になっても、マルティナへの誹謗中傷と悪意の噂は鎮まっていなかった。

むしろ鋭さを増していた。

怒りと嫉妬を抱えた誰かが、火に油を注ぎ続けていたからだ。

そして、なぜだか、護衛が次々と辞めていった。

お茶会で名を笑われ、夜会で嘲られ、それでも足りず、ついに言葉は脅しの文句として紙に刻まれた。

『その顔をぐちゃぐちゃに潰したい』

『お前の血で、絨毯を染めよう』

『そんなに男が好きなら構ってやろうか?』

すべて、匿名である。

封を切った父は、黙って手紙を畳み、短く言った。

「新たに、腕の立つ騎士の護衛をつけよう」

──だが、答えは一様に『辞退』だった。

表向き、貴族令嬢の護衛は名誉ある役目だ。

だが、噂が絡めば話は別だった。

『毒婦の護衛』。それは『毒婦と密通している』『篭絡されている』と同義に解釈される。

嫉妬と好奇の目は、二人を一つの物語に仕立て上げる。

名を汚せば、騎士としての将来も、縁談も潰える。

それは若き騎士にとって死と変わらない。

父の財も爵位も、今度ばかりは意味をなさなかった。

噂は剣より鋭い。

『美しかろうが、毒婦の護衛は自らの墓穴を掘る』

そう囁かれ、誰一人として名乗りを上げなかった。

断り状だけが積まれ、父は歯を噛みしめて条件を切り捨てた。

「ええい! この際、兵士でも構わん!」

父は怒鳴るように言い、騎士の名簿を乱暴に閉じた。

そして、素性を調べ、腕を確かめ、残ったのはただ一人──ギド・ブルクハルトだった。

彼は、一代限りの 士(ナイト) 爵の三男である。

その為、爵位は継げず、剣の腕は確かだが、礼儀とは無縁の兵士として戦場を渡り歩いた男だった。

迎えた初めての顔合わせの日、その兵士は当然のことのように宣った。

「こんなに綺麗な人、生まれて初めて見ました。好きです。結婚してください」

「……」

控えの間に、沈黙が落ちた。

瞬間、父のステッキが、唸りを上げて振り下ろされる。

が。その前に、ギドの手が動く。

パシッ! と軽い音を立てて杖を掴み、そのまま離さない。

彼はマルティナを見ていた。

いや、見ているというより、凝視していた。ガン見である。

マルティナは、猛禽類に睨まれた小動物のようにただただ固まっていた。

「この……不埒者があああ……っ!」

父が、顔を真っ赤にして吠える。

「娘に手を出したら、殺す! いや、今すぐ殺してやるううう!」

しかし、ギドは眉一つ動かさない。

「申し訳ありません。つい本音が」

きっぱりとした声で、さらに続ける。

「もちろん、お嬢様には指一本、髪の毛一本、触れません」

キリッ! という効果音が聞こえそうな爽やかさである。

母はその灰色の瞳を覗き込み、しばし息を止めた。

そして、一言。

「いいでしょう」

「こ、こらっ、勝手に返事をするな」

「旦那様、この方の素性も腕も調べは済んでいますわね?」

「そうだが、軽率に──」

「なら問題ないでしょう? あとは、人を見る目です」

母の瞳が、舞台に立つ女優のそれのようにギランッと光る。

「この方の目は、嘘を吐く人間の目ではありません! 私と同じだもの!」

「馬鹿を言うな! この不届き者は絶対に叩き出す!」

ステッキと共に解放された父の額に青筋が浮かぶ。

「あのねえ、旦那様?」

母は一歩前に出て続ける。

「護衛を引き受ける者は、彼しか残っていませんのよ? お分かり?」

「うっ……」

「安心なさって? 目を見れば分かるわ。彼は、不埒なことをする人間じゃない、ってね!」

「理屈になっとらんっ!」

「理屈じゃなく、目を見るのですわ。舞台で何千何万という目を相手に、嘘と真を見抜いてきた私の勘を信じてくださいまし!」

「ぐぬぬ……」

父はしばし押し黙った。

視線はテーブルの上の、断り状の山に落ちる。

それから長い沈黙の後、観念したように息を吐いた。

「……はあ、他に選択肢がないのは事実だ。仕方ない。だが! 娘に手を出したら殺──」

「決まりね!」

母は満足げに扇を鳴らしながら父の言葉を遮った。

こうして、ギド・ブルクハルトはマルティナの護衛となった。

「よろしくお願いします、お嬢様」

「…………え、ええ、よろしくね……」

この屋敷の真の権力者が誰なのかは……言うまでもない。

◇◇◇

護衛がつく生活にも、ようやく慣れ始めた頃。

朝の庭園を歩くマルティナに、背後から軽い声が飛ぶ。

「お嬢様は今日もお綺麗ですね。好きです」

声の主は、マルティナの護衛である。

「……ギド。あなた、それ毎日言っているけど……飽きないの?」

「言おうと思っているのではなく、本音が漏れてしまうんです」

「それを口にしない訓練をしようとは思わないの?」

「いやあ、お嬢様を見ていると、脳味噌がバグるんですよねえ。俺もびっくりですよ。気がついたら思ってることが口から飛び出ちゃってるんですから」

「……筋肉じゃなくて、脳味噌を鍛えたら?」

「その呆れ顔も最高ですね! めっちゃ可愛い!」

「か、揶揄わないで」

「うわ、赤面顔、やべえな……。はあ、やめてください。可愛すぎてキレそうです。俺以外に見せちゃダメですからね?」

「……」

「うわっ! 膨らんだほっぺたまで可愛いとか何事ですか!?」

「……」

膨れ面ながらも、マルティナの足取りは軽い。

最初は鬱陶しいだけだったこの会話も、気づけば朝の習慣になっている。

歩くたびに交わすやり取りが、日を追うごとに形を変えていくのだ。

軽口を言い合うのが、ただただ楽しかった。

そんな日々が続いた、ある夕暮れ。

馬車を降りた路地で、見覚えのない男たちが立ち塞がった。

マルティナを値踏みする視線が肌を刺す。

その瞬間、ギドの笑みがスッと消えた。

男を睨み据えたまま、ギドは柔らかな声をマルティナに向ける。

「お嬢様、十秒だけ、目を閉じて。耳を塞ぐのも忘れずに。ゆっくり、十まで数えてください」

「え……?」

「その美しい瞳に汚物を映さない為です。さあ、目を閉じて、耳を塞いで」

(……汚物?)

「わ、分かった」

躊躇いながらも、マルティナは従った。

そして、両手で耳を覆い、目を閉じ、言われた通り、数をゆっくり数える。

「 一(いち) 」

声に出した瞬間、空気が低く震え、石畳を打つ重い響きが地面を伝ってきた。

何かが崩れた音のすぐ後、鉄を焼いたような匂いが、遠くかすかに鼻先をかすめる。

塞いだ手に、自分の鼓動だけが強く響く。

見えない何かが軋む錯覚がした。

なのに、不思議と怖くない。

全然、怖くない。

「──九、十」

数え終えた時、静寂が戻り、ギドの声が落ちた。

「もういいですよ」

マルティナが目を開けると、路地は奇妙なほど静まり返っていた。不穏な男たちも姿を消している。

「?」

視界の端に何かが転がっていた気がしたが、護衛の大きな手がそれを遮った。

「馬車に戻りましょう、お嬢様」

ギドは何事もなかったように扉を開ける。

「今日は外より屋内のほうがよさそうです。屋敷で一緒に刺繍でもしませんか?」

「ええ、って、え? ギドは刺繍ができるの?」

「いえ。俺は刺繍は出来ません。別の方法で楽しむんです」

「別の方法?」

「可愛い手元を眺めてニヤけるんです」

「やめなさい」

「へへっ、叱られちゃった」

「まったく、あなたって人は……」

思わず漏れた言葉に、ギドは少年のように笑う。

その笑みの底に潜むもの──優しさと、どこか底知れぬものに気づきながらも、マルティナの心を満たしたのは、『安堵』と『信頼』だった。

数日後。

夜会の大広間では、シャンデリアが天井で炎を抱き、光の粒を幾千も床に落としていた。

絃の音と笑い声が絡み合い、波のように押し寄せる。香水の甘さが層をなして漂っている。

マルティナは、白い扇を手に礼儀の笑みを浮かべて歩いていた。

誰が、どこで、何を言っているのか。

耳を澄ませば、笑い声の端々に自分の名が混じっている。

「毒婦令嬢」──ギドがそばにいるおかげで、最近は耳にすることが減ったと思っていたけれど、どうやら勘違いだったようだ。

ギドは、一歩後ろに控え、影のように歩いていた。その気配が心強い。

それでも視線の先に見える令嬢たちの瞳は手厳しい。

その時、ふいに背後から艶のある声が響いた。

「そこのお前。そんな毒婦の元より、あたくしの護衛になりなさいな」

振り向くと、深紅のドレスをまとったドーブラ伯爵令嬢が唇に笑みを刻んでいた。

「見てくれは及第点だし、あたくしが仕立てて差し上げるから見違えるほどになる保証はあってよ」

周囲には小さな笑みを含んだ視線が集まっていた。

マルティナの喉が、硬く鳴った。

同時に、ギドが口を開く。

「お断りいたします」

「何ですって? せっかく、毒婦に骨抜きにされたお前を救ってあげようと──」

「お気遣い感謝します。しかし、性悪な方の庇護は、どんな毒よりも身体に悪そうですので」

「……しょっ、性悪ですって!?」

令嬢の顔が、薔薇色から見る間に茄子色へと変わっていく。

ギドは淡々と続ける。

「それと、そのお言葉──香水よりきつい香りがします。お嬢様のそばではお控えください」

「ギ、ギド、もういいから……」

マルティナの、声がわずかに上ずる。

ドーブラ伯爵令嬢が助けを求めて周囲を見渡すも、彼らは目を逸らす。

それもそのはず。

ハンメルバッハー家は、王国最大の商会を動かす家だ。

嗅ぎつけられれば、家一つの破産など容易い。そのことにようやく気がついたのだろう。

その様子にドブ……ではなく、毒を吐いたドーブラ伯爵令嬢は、唇を噛み、そそくさと踵を返す。

彼女の背中を見送りながら、マルティナは胸が軽くなるのを感じた。

今までは、黙ってやり過ごしてきた。父に告げれば、誰かが潰れることが分かっていたから。

……けれど、黙っているだけでは、相手は図に乗る。

ふと、父がギドに向けた言葉がよみがえる──『マルティナに害意を持つ者は、立場を問わず潰せ。責任は私が取る』

その日の攻撃はドブ令嬢……もといドーブラ伯爵令嬢からのもののみで、平和に過ごせた。

(こんな夜会は、初めて)

退出を告げ、ギドと並んで廊下を歩く。

「今日は、ありがとう……」

「お礼を言われるほどのことはしていません。俺の仕事です」

「でも、嬉しかったから」

「これからもお守りしますよ」

窓辺を過ぎるたび、夜の冷気が頬を撫でた。

張りつめていた空気が、少しずつ剥がれていく。

躊躇わらず立ちはだかった背中、毒を吐く声を、あっさり切り捨てた低い調子。

思い出すたび、胸に温かいものが灯る。

粗削りで、礼儀もなくて、それでも……どんな時でも、自分を守ってくれるのだと信じられる。

その確かさが、むず痒くて──心地いい。

(きっと、夜風のせいじゃない)

こんな気持ちを、マルティナは他の誰にも向けたことはなかった。

◇◇◇

その報せは、春の風に乗ってやってきた。

朝靄がまだ庭に沈む時刻だった。

門を叩く音が響き、駆け込んできた従者の手には、深紅の封蝋が光る一通の書簡があった。

父がそれを裂き、目を走らせた瞬間、部屋の空気が音もなく冷え込んだ。

『東境で戦が始まった。兵士の召集を至急』

記されたのは、それだけ。

だが、その文字は血の匂いを含んでいた。

東境は、王都に通じる唯一の街道を抱える要衝だった。

隣国は通行税の独占権をでっち上げ、不当な関税を課して王国の商隊を略奪し始めた。

王国は当初、交渉と外交圧力で事態の収拾を図ったが、敵は想定を上回る規模で越境してきた。守備軍は混乱し、戦力の再編と増援に時間を要した。

こうして戦線は膠着し、やがて半年にも及んでいる。

父は紙を握りしめ、重く息を吐く。

「……ギド」

「はっ」

呼ばれた名に、部屋の隅で控えていた男が一歩前へ出た。

無駄な飾りを排した軍靴が石床を硬く打ち、灰色の瞳が父の顔をまっすぐに見据える。

「お前に召集がかかった」

短い声が落ちた瞬間、マルティナの心臓が跳ねた。

──召集。

その意味を理解するのに、数呼吸が必要だった。

ギドが兵士であることを思い出したのは、今、この時だ。

騎士ではなく、兵士。

護衛としてここにいる彼は、本来、戦場に立つ為に剣を握ってきた男である。

「拝命いたします」

ギドの声は、揺るぎないものだった。

その顔には、微笑み一つない。

だが、目の奥に沈む硬質な光を、マルティナは見た。

その一瞬で、ギドも自分と同じ気持ちでいることが分かった──気がした。

(嫌!)

心の中で、声にならない叫びが弾けた。

(行かないで、ギド)

そう言いたいのに、何も言えなかった。

そして、あっという間に出立の朝が来た。

庭には白い靄が漂い、冷たい空気が肌に針のように触れる。

玄関先に立つギドの背で、剣の柄が鈍く光った。

「ギド……」

マルティナは、言葉を探しながら歩み寄った。歩けば歩くほど、視界が滲む。

涙が、頬を伝って落ちる。

声を殺そうとしても、嗚咽が喉を破って漏れる。

「お嬢様、泣かないでください」

いつもの軽口ではない、困ったような声色にますます涙が溢れてくる。

戦のことなんてマルティナには分からない。

ただ、一度行けば、しばらく帰れないことは知っている。

「行かないで」は、音にならなかった。

そもそも言ってはいけない言葉だ。

「お嬢様、俺は……」

伸びてきた手が、マルティナの涙を拭おうとするも、途中で止まる。

「初めて会った時から、お嬢様の為なら死ねるって本気で思っていました。でも、お嬢様を泣かせることになるのなら……」

言葉に、熱が乗る。

「死ねません。死にません」

母の目元には涙が光っていた。

父は黙ったまま、じっとギドを見据えている。

ギドは父母と目を合わせ、短く頷く。

そして、マルティナに向き直り、言葉を短く紡いだ。

「待っててくれますか?」

「ええ、ええ、待ってる……ずっと、待ってるから……」

踵を返す足音が靄の中に消えていく。

マルティナはその背をただただ見つめていた。

胸が締めつけられる。

苦しくて、痛くて、悲しくて、辛い。

声にならない祈りが、唇の裏で震える。

(どうか。どうか、無事に帰ってきて)

◇◇◇

ギドが屋敷を発ってから、日々は音を失ったように過ぎていった。

そして、泣いて泣いて数日が経った頃、マルティナは決めた。

(もう弱さは見せたくない。ううん、見せない)

その決意を告げた時、母は力強く頷いた。

「いいわね。それなら、私が仕込んであげるわ」

母はかつて舞台で、悪役令嬢や人を惑わす魔女を演じてきた女優だった。

強さを纏う仮面を作るなら、これ以上の教師はいない。

「強い女はね、視線で勝つのよ」

母の声は、舞台のライトを浴びた頃の熱を帯びていた。

「でも、それだけじゃ足りないわ」

母は扇を閉じ、マルティナをまっすぐ見る。マルティナも目を逸らさない。

「舞台には台本があるけれど、現実にはない。だから、自分で書きなさい。相手を知って、言葉に刃を仕込むの」

「……言葉に、刃?」

呟いたマルティナに、母は軽やかな笑みを見せた。

「覚えておきなさい。『社交は戦場』よ。そして、『剣の代わりに情報を持て』──これはお父様の口癖よ。いいこと、私の蒼玉ちゃん。メソメソするのは、好きな男の前だけにしなさい。涙の効果的な使い方はもう少し後で教えてあげるから」

「はい、お母様」

その日から、マルティナの稽古は二重になった。

昼は母と所作を磨いた──扇の角度、微笑みの温度、目線の高さまで細かく。

夜は父が集めた報告に目を通し、噂と事実を頭に叩き込んだ──相手の弱み、誰と誰が繋がっているのか。

仮面に力を宿すのは、美貌だけではないと学んだ。

数か月後、その努力が試される日が来た。

東境の争いの噂がかすかに届きはしたが、それも王都の令嬢たちにとっては遠い局地の小競り合いで、お茶会の午後はいつもどおりに始まった。

「今度は誰がお相手かしら。マルティナ様は寝室の話題には事欠かないご様子で……。殿方の気を惹くそのご才能、私にはとても真似できませんわ」

扇の影から覗く瞳に、愉悦の色が滲んでいた。

マルティナは余裕の笑みを浮かべ、紅茶を一口含む。

「随分と寝室のお話がお好きですのね? でも、ご自身の噂もたまには耳にされたら? 四度目の婚約でしたわよね。ああ、それと、あなたに私の真似は荷が重いと思いますわよ」

マルティナは、ゆるやかに唇を弧にした。

それは微笑というより、処刑を終えた女王が見せる勝利の嗤いだった。

嫌味を言った令嬢のカップが小さく震え、周囲の扇がぴたりと止まった。

──勝負はついた。

だがその晩、胸にざらりとした感触が残り、なかなか眠れなかった。

言い返すのは、思ったよりも苦い。

けれど、黙っていれば、ただ踏みにじられるだけだ。

そう言い聞かせていくうちに、迷いは徐々に消えていった。

夜会でも声が飛んだ。

「噂は怖いものですね、あなたほどの美貌でも貰い手がいなくなるのですから。どうです? 僕は、噂など気にするような小さい器は持っていませんよ」

若い令息の言葉に、マルティナは扇を閉じ、ゆるやかに視線を上げる。

「ご親切にありがとうございます。でも、他人の心配よりもご自分の噂を心配なさったら? あなたが娼館通いがお好きと、よく耳にしますのよ」

「……!?」

「 噂(・) は(・) 怖(・) い(・) も(・) の(・) で(・) す(・) ね(・) 」

男の顔が蒼白に変わり、ふらふらと後退するのを見て、マルティナは笑みを崩さず、軽く会釈した後その場を後にした。

母と父の教えで仕上げた仮面をまとい、マルティナは社交界で戦った。

泣きたくなる夜もあったけれど、彼の前でしか泣きたくなかった。

◇◇◇

戦の終わりは、王都の空気を一変させた。

一年に及んだ東境の攻防。

その均衡を破ったのは、大軍でも兵糧でもなかった。

敵が主力を押し出したその夜、要衝の砦を守っていた小隊が、たった数十騎で敵の別働隊を討ったのだ。

霧に紛れ、山道を駆け抜け、夜明けとともに砦の門をこじ開けたという。

実際には、砦の背後が手薄になっていたのを突いた、計画的な奇襲だった。

情報をもとに先手を打った小隊は、敵副将を討ち、指令系統を混乱させることに成功。

この一撃が、戦線を一気に崩壊させた。

──今、その戦いで功を立てた兵の名が夜会の話題をさらっている。

「ねえ、東境の戦線、勝利ですって!」

「えっ? あそこ、ただの小競り合いだと思ってたけど」

「最初はそうだったが、実際は国家の命運がかかってたらしい」

「王都に通じる街道があるしな」

「総指揮官に抜擢された将軍のもとで、大功を立てた兵士がいたらしいぜ」

「たった一小隊で、要所を死守して戦況をひっくり返したとか」

「まあ! その英雄様の方のお名前は?」

「──ギド・ブルクハルト」

夜会のざわめきが、波のように広がっていく。

耳に届くその名に、マルティナの肩がわずかに強張った。

笑みは崩さない。母に教え込まれた仮面は完璧だ。それでも、扇の内側で握る指先に、力がこもる。

勲功を立てたギドは、今や英雄だ。

近々、王の前に召され、望む褒美を授けられるだろう。

爵位を賜り、宝も、領地も、高爵位の家の令嬢を妻に選ぶことも許される立場になる。

ならば、彼が選ぶのは……。

毒婦令嬢と呼ばれた自分など、眼中にないのかもしれない。

それでも、会えると思っていた。

凱旋の翌日、屋敷の門を叩く音を何度も夢に見た。

だが、その日は来なかった。

勲功を立てた兵士は、凱旋後すぐに王城に召され、手続きと儀礼に縛られるという。

(──だから、ギドが姿を見せないのは当然……)

そう言い聞かせても、胸のざわめきは収まらなかった。

扇の陰で吐く息だけが、ひどく冷たかった。

◇◇◇

磨かれた石床に陽光が差し、豪奢な柱が長い影を落とす王城の大広間は、臣下たちの衣擦れさえ遠く聞こえる。

凱旋した兵士たちが並ぶ列。

その先頭に、ギドの姿があった。

緋の軍装に身を包み、剣を佩いたその姿は、かつてのお調子者の兵士とは別人だ。

「ギド・ブルクハルト」

王が立ち上がり、彼の名を呼ぶ。

「よくぞ戦を終わらせた。その功により、汝を子爵に叙する。そして、もう一つ望む褒美を与えよう。何を望む? 宝か? 領地か? さらなる爵位か?」

空気が張り詰める。

ざわめきが、低く大広間を渡る。

ギドは一歩進み、片膝をついた。

「恐れながら、陛下」

低く響く声に、視線が一斉に注がれる。

「私が望むのは、ただ一つ」

一拍の沈黙。

「マルティナ・ハンメルバッハー伯爵令嬢へ求婚する権利をいただきたく」

「求婚だと? ……はははっ! 面白い! よかろう。行け」

許しを得たギドは迷いなくこちらへ向かってくる。

そして、両親と自分の前で止まった。

大広間が息を呑む。

「ハンメルバッハー伯爵、夫人。ご息女との婚儀をお許し願えればと存じます」

まず『家』に願い出る。それが、この国の正式な礼儀だった。

たとえ娘本人の心を知っていたとしても、親を飛ばして口にすれば、それは無礼と見なされる。

ギドはマルティナにはまだ視線を向けず、伯爵夫妻にまっすぐ頭を下げた。

「ご息女を守り、幸せにする為に、家と共に生き、力を尽くします」

会場の視線が、一斉にマルティナへ突き刺さる。

マルティナは、ゆっくりと扇を閉じ、唇に微笑みを刻んだ。

その刹那、ざわめきが別の色に変わる──「なんて可憐なんだ」「天使の笑みだ」「可愛らしい」「画家を呼べ」「美しい……」「あの笑顔を見せてくれていたら、婚約破棄なんてしなかったのに……!」

これらの言葉を漏らした者の中には、かつてマルティナの婚約者だった公爵家の次男もいた。

その隣には、現在の婚約者──かつて噂を広め、マルティナを『毒婦』に仕立て上げた張本人の令嬢が控えていた。

その令嬢は、マルティナの笑みに周囲の空気が変わるのを察したのだろう。

扇を震える手で持ち上げ、顔を半分隠したまま、明らかに青褪めている。

「……あれが本当の姿なのか」

「美しいだけじゃなく、品もあるわ」

「どうして悪意ある噂を信じたんだろう。い、いや、俺は噂なんて最初から信じてなかったけど……」

「そもそも、噂の出どころって……元婚約者の今の相手よね?」

囁きが、明確な形をもって広がっていく。

さっきまでの冷笑と侮りは、どこにもなかった。

扇の影でぎり、と奥歯を噛みしめる。声は出ない。ただ、視線だけが周囲をさまよう。

利用してやったつもりの愚かな群衆が、今はあっさりと掌を返している。

隣の婚約者は、すでに隣の令嬢を見ていない。『毒婦』の笑みに目を奪われたままだ。

波紋のように広がった囁きの中で、彼女だけが静かに取り残されていた。

与り知らぬことだが、この夜を境にこの二人の婚約は白紙となる。

そして、令嬢は社交界から忽然と姿を消すことになる。

──まあ、マルティナの人生には関係ないので話を戻そう。

父は腕を組み、わずかに眉をひそめる。

「……ふんっ。どこの馬の骨かと思えば、うちの護衛か。ま、まあ、馬の骨の中ではマシなほうだし、いいだろう。許す」

口調は渋いが、その声には奇妙な安堵があった。

というか、ただのツンデレ構文である。

父は知っていた。護衛としての日々、ギドが一度も職務を疎かにせず、常に娘を守ってきたことを。

そして、娘がこの男を想っていることも。

一方、実年齢よりも十五も若く見える母は、「英雄の妻なんて、さすが私の娘ねえ。ほほほ」と、満足げに笑んでいた。

それから、許しを得たギドがようやくマルティナに向けて口を開く。

「お嬢様、申し訳ありません。宮廷での手続きに数週間縛られておりました。従軍中は戦況秘匿の為、家族宛の書簡さえ固く禁じられ──」

「お帰りなさい、ギド!!」

マルティナは、ギドの言葉を遮り、迷いなく愛しい男の胸の中に飛び込んだ。

「ただいま戻りました、お嬢様」

ギドは危なげもなくきゃしゃな体を受け止める。

「……無事でよかった」

「心配させてしまいましたか? すみません」

「ううん、いいの……帰ってきてくれて嬉しい……」

硬い胸板に顔を埋めた瞬間、心に積もっていた氷が音を立てて溶けていく。

「もう二度と、離れません」

「ええ、離れないで」

そのまま腕の中にいたくて、マルティナは顔を離さなかった。

けれど、胸の内には小さな不安が残っていた。

(……でも、この愛は、美しさに縋ったもの)

そんな思いが、知らず言葉になった。

「ねえ、ギドは私の見た目が好きなの?」

「はい」

返った答えは迷いがなかった。

「……そう」

(じゃあ、私が老いて、美しくなくなったら……?)

みぞおちがきりきりと痛んだ、その時──

「最初は、一目惚れでした」

ギドは、柔らかく笑んだ。

「あの日、息が詰まるくらい見とれたんです。あなたの目に」

「……目?」

「はい。俺は昔から、人の悪意みたいのが、目を見れば分かるんです。理由は自分でも分からない。ただ、分かる。そのおかげで戦場でも生き残れました。だから、綺麗な目も分かります。お嬢様の目は、澄んでいて、真っ直ぐで……本当に綺麗だ。でも、それだけじゃありません。そばにいて分かったんです。孤児院で子供たちに本を読むこと、挨拶状を必ず自分で書くこと、使用人に礼を欠かさないこと、領地の農民の暮らしを季節ごとに気にかける心、贈り物の価値より気持ちを喜ぶところ。そして、どんな時も背筋を伸ばしている強さ……どれも心から尊敬しています。全部、全部、大好きです──お嬢様、どうか、俺と結婚してください」

マルティナは息を呑んだ。

(この人は、最初から『私』を見てくれていた)

──もう、仮面は要らない。

「ええ! 喜んで!」

こうして、『毒婦令嬢』と呼ばれたマルティナは、英雄の愛を得た。

そして、この愛は、どんな噂にも奪えないものとなった。

◆◆◆◆◆

二人の結婚から、二年後。

ハンメルバッハー邸の客間は、昼の光に満ち、花と甘いミルクの匂いが漂っていた。

揺り籠の中の赤子を、ギドは膝をついて覗き込み、頬が溶けそうな笑みを浮かべる。

「……やばい。やばいやばいやばいやばい。可愛すぎて言葉が出ません」

「ふふ。大丈夫、出てるよ」

マルティナはソファに腰を掛け、小さく笑う。

「見てくださいよ、このちんまいお手々……。はあ、可愛い。マルティナとは違うベクトルの可愛さだ……。俺、この子の為なら破産しても悔いはありません……」

「馬鹿者、破産はするな」

ふいに、低い声が飛んだ。

振り向けば、ハンメルバッハー伯爵が腕を組み、険しい顔で立っている。

「……お、お義父様」

「商売は順調だと報告を受けたが、今の言葉は聞き捨てならんぞ、馬の骨め!」

「冗談ですって! 俺、最近ヒット連発ですよ! この前仕入れたサテンなんて、王都中で品切れです!」

胸を張るギドに、伯爵の頬がぴくりと動いた。

「ふ、ふんっ! 目利きだけできても、その……アレだぞ!」

父の様子に、マルティナは唇を押さえて笑う。

相変わらずのツンデレである。アレってなんだ。

「お父様、ギドは本当に頑張ってるの。毎晩、商談の帳簿と格闘してて……」

「ふんっ! 当たり前だ!」

「お義父様の言う通りです! 妻とこの子の生活がかかってますから!」

ギドは誇らしげに赤子を見つめ、声を張り上げる。

「いいか、パパは世界一稼ぐぞ! 可愛いお前と愛するママの為にな!」

「んまあ~っ! 素敵よ~!」

大げさな声が飛び、三人が振り向くと、母が扇を広げ、舞台人のようなポーズで立っていた。

余談ではあるが、最近、脚本の勉強を始めた母は前にも増して生き生きしている。そして、生活の会話にこうして『舞台』っぽさを混ぜてくるのだ。

「愛する家族の為に戦う男! まるで戯曲の主人公ね! さあ、ギド! 今のセリフをもう一度聞かせて!」

「えっ、今の、って?」

「『世界一稼ぐぞ!』のところをもっと情熱的に!」

「……せ、世界一稼ぐぞー!」

「ブラボー!!」

母は手を打ち鳴らし、マルティナは口元に手を当てて笑う。

「あぷう」

揺り籠から可愛らしい声がもれた。

「ね、ギド。この子も『ブラボー』って、言ってるのかも」

マルティナが「なんてね?」と付け足すと、ギドは二秒ほど固まった後、感極まった表情で口を開いた。

「……好きです、結婚してください」

「ふふ、もうしてるよ?」

頓珍漢な夫の発言に呆れるよりも、可愛いと思ってしまうマルティナである。

「あっ、本当だ! もうしてましたね。……はあ、幸せ過ぎる……」

「私も!」

父の「ふんっ」と、母の「まあ~!」が綺麗に重なり、マルティナは弾けるように笑った。

その笑顔を、ギドがうっとりと眺めるのを感じ、マルティナはこの上ない幸福を味わったのである。

社交界を震わせた令嬢と、戦場を駆けた兵士。

今、その手にあるのは、噂ではなく、ただ確かな愛と温もりだった。

【完】