作品タイトル不明
護衛達の婚約(9)
こっそり店の隅に呼び出して人差し指を唇の前に立てて、内緒だと言いながら発売前の新商品を見せる。その作戦はうまくいったようだった。
予定通りでなかったとすれば、つけてあげようと顎を持ちあげようとしたらものすごい勢いで逃げられたことだろうか。まあ、そこは想定通りといえば想定通りである。
だが、リラがまず、まじまじと口紅を観察することから始めたのは意外だった。
「どっちも綺麗な色ね……こっちはパールの入ったピンクで可愛いけど上品。妖精みたい」
妖精、という単語につい顔をしかめる。だがリラは気づかない。
「こっちも。……ピンクも入ってるけど、オレンジ? 本当の新色じゃない……これを量産するなんて……初めて見たわ。きっとはやるでしょうね」
「つけてみたら?」
「何言ってるの。試供品ってことは数が少ないんでしょう。試し塗りなんてもったいないじゃない。いったい何の材料を使って出してるのかしら……客層はどこを狙って……」
リラの目は真剣だ。
(すぐに飛びつかないんだ)
意外なような、そうでもないような。店の一角にある休憩所にあるソファに並んで座りながら、ウォルトは話しかける。
「でも、つけてみないとどっちが似合うか選べないでしょ」
「オレンジよ。普段使いに便利そうだし、ちょっとピンクのほうは可愛すぎると思うの。何より新色よ、ためしてみたいわ」
ウォルトが口を出す前に、自分で決断してしまった。どっちが似合うとか聞くタイプではないのだろう。好き嫌いがはっきりしているのだ。
「でも、本当にいいの? 試作品って言っても、企業秘密でしょう」
「発売前ってだけだから」
本当に持ち出しできないようなものならアイザックは渡さないだろうし、あんな金庫に入っているはずがない。古城のほうで魔物に守らせるはずだ。
そう、と納得したらしいリラは口紅のふたを閉じて、つぶやいた。
「本当にあなた、アイザック・ロンバールなのね」
「はっ? え、なんか疑われるようなことあった?」
ここでくるとは思わず、つい驚いて尋ね返してしまったが、それが逆に自然だったのだろう。リラは気に留めずに言う。
「だって皇后陛下の覚えめでたいんでしょう。なのに歴史はあるとはいえ、家名なんてほしがってうちの見合いを受けるかしらって」
「あ……ああ、でも、それは……いや最初はそういう打算とかはあったけど、今は……」
「べっ別にそれだけよ!? あなたとつきあうつもりなんてないから勘違いしないで!」
焦りと敬語をやめたせいか、甘い口説き文句が出てくるよりも、リラの警戒のほうが早かった。
「いい。勘違いしないで。これも叔父様を黙らせるために必要で受け取るだけだから」
「……心得てます」
「何、その言い方」
「いえいえ。いくら試作品でも、プレゼントなんだから包んでもらうよ」
ウォルトはアイザック・ロンバールではないが、オベロン商会は顔パスの関係者でもある。従業員にこっそり名前を告げれば包装くらいはしてくれる。
「そうね。変に叔父様に勘繰られても嫌だし……」
「こっちの色ね。じゃあここで待ってて」
「――あっ、待って!」
口紅を持ってカウンターに向かおうとしたウォルトの腕を、リラがつかんだ。振り向いたウォルトの前で、残ったもう一本の口紅を取る。
「……やっぱり、こっちにして」
ピンクの口紅を差し出すリラに、ウォルトはオレンジの口紅を持ったまま眉をひそめた。
「でもさっき、こっちがいいって」
「そ、そうよ。でも……そう、こっちも使えるなって!」
「普段使いにこっちが使えそうって言ってなかった?」
「あ、新しいドレスができるのを思い出したの。それにはピンクのほうがあうのよ、定番の色だし。あ、新しい色は似合わないかもしれないじゃない」
もっともらしい理由は口にしているが、まばたきの回数がなんとか帳尻を合わせようとしているのが丸わかりだった。
だが、突然の心変わりの理由はさっぱり検討がつかない。
「だから、変えてちょうだい。そっちのほうがいい」
決意は固いようだ。そしてそれ以上、心変わりの理由などないと言わんばかりに口を閉ざしてしまう。
嘆息したウォルトにうつむいた彼女は、自分の態度がどう見えるかわかっている。
「じゃあこうしよう。ふたつともプレゼント」
「えっ?」
顔をあげたリラに、ウォルトはにっこり笑った。
「それでいいよね?」
「あ、あの、でも……」
「もともとはそのつもりだったからね。ただ君が選んじゃったし、いらないものを押しつける気はなかっただけで。包んでもらってくるよ」
リラの手からもう一本の口紅を取ると、引き止めるリラの手が放れた。
もごもごと「あり……ありが……」とか言っているのは聞こえないふりをして、カウンターへ向かう。
ただの気まぐれ、わがままだろうか。だがそう断じるには違和感があった。
(本当にわがままなら、最初から選ばずに両方ほしがる)
だが、ウォルトが言い出すまで両方という選択肢にも気づかなかったようだった。あきらかに彼女はさっき、何かと天秤にかけて、自分の欲しい新色を投げだそうとした。
「……自分に似合わない色をわざわざ選ぶ理由、ねえ」
似合わない化粧でもするつもりだろうか。なんのために――決まっている、別人に化けられるためだ。
たとえば、妖精みたいな女性に。
(……考えすぎだな。女は化粧で変わるといえど、それだけで妖精に見えるなんてないわー、ドレスアップしたアイリちゃんでさえなかったわ)
男装したアイリーンだって女性だと見破っていた自分だ。女が見違えるような一瞬なんて、そうそうお目にかかれない。それこそ、カイルのように目が節穴でなければ。
口紅を包装してもらい、ついでに新商品だというチョコも一緒に上品な紙袋に商品をまとめてもらい、休憩所に振り返ってまばたく。リラの姿がない。
だが、周囲に視線を走らせればすぐに見つかった。
「ありがとう、お嬢さん」
「気になさらないで。お店のひとは接客や案内で手一杯のようだから」
大きな荷物を抱えた老紳士のために店の扉を開けて、外の階段をおりる手伝いまでしている。
(……まっとうにいい子だな、マジで)
それ以外の感想が出てこないが、ここで見ているだけは駄目だろう。急ぎ足で店の外に出たウォルトは、階段をおりたところで老紳士に声をかける。
「お帰りは馬車ですか?」
「あっあなた――」
「馬車をつかまえますので、おかまいなく」
「じゃあ、それまで荷物を持ってますよ。あと、大通りのほうが馬車がつかまりやすいので少し移動しましょう」
重くはないがかさばる荷物をひょいと持つと、リラが何か言いたげにしたが、老紳士を優先させることにしたのだろう。老紳士に手をかしながら黙ってついてきた。
すぐに馬車はつかまり、馬車に老紳士と大きな荷物を入れて見送ったあとだった。
「言いたいことがあるなら先に――あっ」
リラが声をあげた視線の先、頭上を見たウォルトは、ああと状況を認識した。
降ってくるのは水、建物の上の住人が花瓶の水か何かを下をよく確認せずに捨てたらしい。殺気はない、ただの事故だ。ほんの少し石畳を蹴れば、それでよけられる。よける先には障害物もない。そこまでの判断を常人よりはるかにゆっくり、だが的確に判断して、石畳を蹴ろうとしたそのとき、どんっと胸を押されてよろけた。
(へ)
ばっしゃああんと派手な音と一緒に、ウォルトを突き飛ばしたリラが頭から水をかぶった。
「だい……っだい、じょうぶ?」
ウォルトをかばってずぶ濡れになったリラが、先に尋ねた。
(……は……反射神経よすぎだな、この子。咄嗟に動いたのか)
ぽかんとしていたからか、まず真っ先にわいた感想がそれだった。次に、違うことを思った。
(咄嗟に、助けたのか。――俺を?)
「ねえ、ちょっと大丈夫かって聞いてるんだけど」
「あ、ああ」
一歩よろけたウォルトは、水しぶきが少しかかっただけだ。頷き返すと、リラは濡れた長い髪を両手でうしろに流し、ぶるぶる首を横に振って、顔をあげた。
きらきらと水滴が日の光に反射して、リラの淡い金色の髪や、よく見ると長い睫や、まろやかな頬や、ふっくらと笑う唇の価値を彩っていく。
「そう、よかった」
――女が見違える瞬間なんて、そうそうないはずだ。
気づいたらウォルトは背後の煉瓦壁に額を打ち付けていた。
「ちょっ何してるの!?」
「ちょっと視覚に異常が出たかと」
「水をかぶったのは私なのに、なんであなたがおかしくなるの」
それではっと気づいた。ここはずぶ濡れになった彼女にまずハンカチを貸して、それから。
「赤くなってる。濡れてるからちょうどいいわ」
先に出したハンカチを背伸びして額に当てられ、自慢げに微笑まれて、今度こそウォルトは言葉をなくす。
やっと頭上から「すみません」と謝罪の声が振ってきたが、答えることはできなかった。