作品タイトル不明
皇帝夫妻の一日目・7(終)
慣れ、慣れ、とつぶやいてアイリーンは寝台の上に座っていた。
(ロクサネ様も乗り越えたのよ。わたくしだってできるはず)
やれるはずだ。
でないと、サーラに「えっ何が困るんですか?」と不思議そうな顔をされたままになってしまう。いちばん子どもっぽい顔をしている癖に、中身は大人だった。しかも今日に限ってレイチェルは「間取り……どうしよう……」とかぼうっとしているし、噂によるとセレナはプロポーズされたらしい。
真冬を春にしたクロードのお花畑思考が伝染したのか、みんな頭の中が春になっている。
とどめにリリアは「私は全年齢を守ることにしたの!」とか言い出した。セドリックは何をしているのだと怒鳴りたくなったが、肝心のアイリーンがこのざまでは文句も言いづらい。
全年齢の世界に留まってはならない。何を言っているのか自分でよくわからないが、つまり逃げてはならないという話なのだ。
「クロード様、明日は朝からバアル様と会談ですので」
「わかっている」
キースに予定を念押しされてクロードが寝室に入ってくる。ぱたんと寝室の扉が閉まる音が聞こえた。
ふたりきりだ。ここからは夫婦の時間である。
つまり昨夜の再現――クロードに声をかけられる前に、想像だけでアイリーンは飛び上がった。
「やっぱり無理いぃぃぃぃ!!」
脱兎のごとく寝台からシーツと一緒に、部屋の隅にあるテーブルの下へと逃げ込んだ。
(無理! 絶対無理! わたくしの心臓が持たない!)
昨夜は何をするかわからなかったからよかった。
でも今日は違う。
ちゃんとアイリーンは何が起こるのか、もう知っている。
「……アイリーン。隠れられてないと思うんだが」
呆れたクロードの声が届く。シーツを頭からかぶったアイリーンは叫んだ。
「わかっております! でも、さすがに寝室から逃げるわけにはいきませんでしょう!?」
「そこは自覚があるのか……」
「ありますわよ! わたくしクロード様の妻ですもの! でも、でも……」
うぅ、と情けない声をあげて両目をつぶりうずくまっていると、ふと隣で気配がした。
クロードが床に腰をおろしたのだ。
「今日も僕の妻は可愛くて元気だ」
その余裕ぶった言い方に、アイリーンはむくれる。
ちらとシーツの中から目線をあげると、クロードは膝を立てていたずらっぽくこちらを観察していた。
「……あ、呆れてらっしゃるんでしょう」
「呆れてはいない。過剰反応する君を微笑ましく思っているだけだ」
「過剰反応!? 今日、皇都を春にしたクロード様のほうが過剰反応です!」
「さて、どうしようか。妻を怒らせてしまった」
ちっとも困っていない意地の悪い顔で、クロードがうそぶく。
むかっ腹が立ったアイリーンはその腹立たしい顔を隠すべく、シーツをかぶせてやる。
「最近のクロード様は性格がねじまがったんじゃございません!? 昔はもっと、ちゃんと紳士でした!」
「それは君に警戒されないよう、口説いていたからだろう」
「なんですのそれ! だましたってことですの!?」
「人聞きの悪い。……君はセドリックに傷つけられたばかりだったからだ」
ふたりの間で、こんなふうに元婚約者の名前を出されたのは、初めてだった。
思わず怒りを引っこめたアイリーンの前でシーツをはずし、クロードがにっこりと笑う。
「だったら僕は君に優しくする。当然の戦略じゃないか?」
途端に、そわりとした。
「……き、気にしてらっしゃったんですの」
「それはもう。気にしないわけがない」
「で、でもそんなこと、今まで、ひとことも……い、意地が悪いです、今になって」
「それはそうだろう。僕は君に意地の悪いことをしたセドリックが恐れる兄だ」
嫌な予感がした。
「手品師が手品の種をあかすときは、もうその手品をしないときだ」
「……あ、あの。わたくし、なんのことだか……」
「現実を見よう、アイリーン。君がひっかかった僕は、嫉妬もするし好きな女に昔の男を忘れさせるためにはどんな手段も厭わずやり遂げるただの男だ」
「そ、そういう言い方はずるいです!」
聞いているほうが恥ずかしくなる暴露だ。しかもてらいもなくそれを手練手管で差し出してくるなんて、なんて卑怯なのか。
真っ赤になって怒鳴ると、頬に大きな手を当てられた。どこまでも意地の悪い、けれど奥にほの暗い感情を隠したクロードの瞳があった。
でもクロードは隠しているわけじゃない。見せているのだ。
そう思うと、全身に熱が回った。それは昨夜のことが吹き飛ぶような恥ずかしさだった。
両手で顔を隠して悶えていると、腰に手を回され、テーブルの下から引きずり出されてしまう。抵抗する力などなかった。
抱きあげられ運ばれる先がどこかはわかるが、全身がへろへろで力が入らない。
でも精一杯の意地で、言い返す。
「……こ、これ以上、ひっかかったりしませんから」
「それは楽しみだ」
「本気ですから! 本気で」
ぼすんと寝台におろされたせいで、言葉が途切れた。
「僕だって本気だ、アイリーン」
からかいの色のない赤い瞳は、アイリーンが初めて見る男のもの。
口から心臓が飛び出そうになったが、先に唇をふさがれた。かみつくような乱雑さは初めて味わうもので、なのに脅えより酩酊感がやってくる。
それは自分だけという陶酔だ。
この先には、まだアイリーンの知らないクロードがたくさんいる。そこにはアイリーンが知らないアイリーンだっている。今、震えているように見せてぞくぞくしているみたいに。
少し怖い。でも。
「――どうして笑う?」
だってあなたが可愛くて。などとは言わずに、アイリーンはにっこりと微笑み返す。
さあ、悪役令嬢がラスボスを飼う手練手管をお見せしよう。
他でもない、あなただけに。