軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第389話 幸せの日々

「……ただいま」

ぼんやり夢見心地の気分で、俺は自宅へと帰りついた。実際、夢のような時間だったな。

初めてできた彼女と、初めて手をつないで、初めて一緒に下校する。初めてのことばかりで、入学より一年以上経過してすっかり見慣れたはずの学校も通学路も、まるで違った景色に見えた。世界が変わるとは、正にこのことか。

自分では極力、落ち着くよう、冷静でいるよう努めていたのだが、振り返ってみれば、帰り道に何を話していたのかほとんど覚えていない。

緊張したのもあるが、それ以上に、舞い上がっていたんだろう。白崎百合子という名の、とんでもない美少女が俺の彼女になったという事実に。

くっ、ちくしょう……改めて思い出すと、顔がニヤけてヤバい――

「おかえり、真央」

一瞬、誰のことかと思った。だが、すぐにそれが自分の名前であることに気づく。まるで、長い間、誰からもその名前で呼ばれていなかったような感覚。

だが、そんな些細なことよりも、玄関へと踏み入った俺を待っていたかのように目の前に立つ人物の方へ注意は向けられる。

「姉貴……その荷物、なに?」

俺を迎えてくれたのは、大学生になってもツインテールが似合うという驚異のプリティーフェイスな実の姉、黒乃真奈である。身内贔屓、というのを差し引いても、誰もが認める美少女だろう。白崎さんに勝るとも劣らない――いや、今となっては彼女補正が働いて、確実に白崎さんへと美の軍配は上がるが。

さて、そんな可愛らしい真奈お姉ちゃんであるが、今の彼女は海外旅行へ行く時にしかお世話にならないドデカいキャリーケースを携えている。

「私、しばらく家に戻らないから」

人形のような無表情で、しれっと言い放つ姉貴。怒ってるわけでも、不機嫌なわけでもない。この無表情が素なのだ。

「え、なに、家出?」

「半分、正解」

「嘘、マジで!?」

半ば冗談で言ったのだが、まさか当たるとは思わなかった。品行方正を地でゆく姉貴は、こういった行動とは特に縁のないタイプだ。まさか、これが遅れてやってくる反抗期というヤツなのだろうか。

「今日から私、彼氏の家に住むから」

よほど嬉しいか、よほど不純なことを考えているのだろう。鋼のポーカーフェイスはあっけなく崩れ、頬を朱に染めて口元が緩んでいる。

くそう、ついさっきの俺も、こんな顔をしていたのか……姉弟揃って色ボケとは、恥ずかしい。

「けど、そんなの父さんも母さんも許してくれないだろ」

いや、だからこその家出なのか。しかし、そうなると完全にただの家出であって、半分正解、ということにはならないのでは。

「許しは必要ないよ。だって今日から、二人ともいないから」

「……は?」

「お父さんは長期の海外出張、お母さんは、それについていった」

「はぁ!?」

な、何だその恋愛シミュレーションゲームの主人公みたいな状況は、ありえんだろ。というか、突然すぎる。そんな話、今まで何の前フリも伏線もなかったじゃないか。

「後はよろしく、って手紙がリビングのテーブルに置いてあるから」

「そんだけ!? いや、待てよ、どう考えてもおかしいだろそれは!」

「でも、二人とももう行っちゃったよ」

ここで俺がどんなに「ありえない」と喚こうが、現実は変わらないらしい。ここで姉貴が嘘をつく理由などない。本当に家出するなら、頭の良い姉貴ならもっとマシな嘘と、用意周到な計画を立てるだろう。

「あれ、それじゃあこの家にいるのって、俺一人?」

「大丈夫、私もたまに帰ってくるから」

いや全然大丈夫じゃないよ。今日から強制的に一人暮らしですか俺。

「真央はそれなりに料理もできるし、几帳面だし、大丈夫でしょ?」

「そりゃ、無理とは言わないけど……」

何もかもが、突然すぎる。

「それじゃあ、何かあったら携帯に連絡して。彼氏の住んでるアパートの住所は、手紙と一緒にメモしてあるから」

もう言い残すことは何もない我が弟よ、とばかりに、姉貴は黒くてゴツいキャリーケースをガラガラと引っ張って玄関を出ていった。

「――というワケで、一人暮らし状態なんだよ」

「はいぃいいい!? 何ですかそのエロゲ主人公シチュエーションはぁ!?」

俺とほとんど似たような感想を絶叫するのは、クラスの友人である雑賀陽太。

四時間目が終了し、待望のお昼休み。そこで俺はつい昨日、突如として発覚した強制一人暮らし事情について、雑賀へと最初の話題として提供したのだ。

まぁ、その驚きようはもっともではあるが、リアクションが大きすぎる。

「とりあえず落ち着け、まずは大人しく椅子に座るところから始めよう、な」

ガターンと思い切り椅子から立ち上がって叫ぶというのが、雑賀のリアクション芸の一つである。

そういえば、つい昨日もサッカー部の女子マネの話からヒートアップして、コレを披露してくれたような気もするが……何故だろう、酷く懐かしく感じる。

それどころか、単純にこの見た目は一般人、中身はオタクな友人のフツメンな顔そのものが、久しぶりに出会ったような感覚なのだ。

またしても違和感のようなものが心に芽生えるが、それでもわざわざ口に出すほどのものではない。再び着席した友人と、俺は会話を続ける。

「しっかしまぁ、リアルにそんなことってあるんだな」

「全くだ、俺も未だに信じられん」

だが、本当に昨日の夜を一人で過ごしたお蔭で、両親揃って出ていったというのをこの上なく実感できた。

ちなみに、姉貴が言った通り、本当にテーブルの上に手紙が残されていた。「後はよろしく」そう、ただ一言だけ記された、息子に対する思いやりがまるで感じられない手紙が。

まぁいいや、どちらかといえば放任主義だしな、ウチは。

「ったく、羨ましいにもほどがあるぜ、これでお前に彼女でもいりゃあ、嫉妬のあまり呪ってるぜ、爆発しろってな!」

黒乃が一人身で本当に良かったーあっはっは、と笑う雑賀を前に、俺の表情は凍りついた。

「え、なにその反応? ここは一緒に笑うか残念がるところじゃね?」

「いや、何て言うか、その……な」

元より、隠すつもりもないのだが、この流れでは言いにくい。しかしここで否定するというのも、余計に一つ嘘をつくということになってしまい、それもまた微妙である。

カムアウトした瞬間、雑賀が再び絶叫するのは目に見えている。俺としても、それがオーバーリアクションではないと理解も納得もできる。

俺、一人暮らし。可愛い彼女がいる。このシチュエーションで、十七歳の男子高校生に期待するなという方が無理な話だろう。

「はっ!? 黒乃、お、お前……まさかっ」

あからさまな俺の反応を前に、とうとう気づかれてしまった。ええい、ままよ。

「実は俺、昨日、彼女ができたんだ」

「うっそ、マジで!? 誰よ!?」

「……白崎さん」

「死ねこの顔だけヤンキー!!」

人の容姿を貶める罵詈雑言と同時に、顔面に叩きこまれた平手の感触。何とも理不尽であるが、男泣きに泣いている友人の姿に、俺は甘んじて受け止めることしかできない。

「何だよ、全然そんな雰囲気なかったじゃねーか! なにいきなり告ってんだよお前!?」

「いや、白崎さんから告られたんだが――」

「死ね! マジで死ねこのご都合主義ヤロー!!」

「お、落ち着けよ」

うわーちくしょぉあー、と涙ながらに繰り出される猫パンチを適当に防ぎつつなだめる。まぁ、俺が言ったところで無駄だろうが。

「なぁ黒乃、俺とお前の友情は、どうやら今日限りのようだな……」

「いきなり絶交宣言かよ、流石に酷いぞ」

「いや、いい、いいんだ黒乃、無理しなくても。ヒロインとの個別ルートに入ったなら、親友ポジションの男の出番は終わりなのさ」

「いちいちエロゲーに例えるのはやめろ、このゲーム脳」

まぁ、彼女ができたら友人関係なんて顧みずに熱を上げる、なんてパターンは聞くけど、俺がそういうタイプだと見られるのは心外である。

「何とでも言いやがれ。現実を見ろ、アレのどこに俺が介入する余地があるってんだよ……」

悲壮な覚悟を背負った男の顔で、雑賀は弁当片手に席を立つ。彼の視線は俺ではなく、教室の扉へと向いていた。

「……あ、白崎さん」

そこには、特徴的な亜麻色の髪の彼女が立っていた。その手に携えているのは、どう見てもランチボックスの類だろう。

「ほら、行ってやれよ、黒乃。可愛い彼女が、お待ちかねだぜ」

涙の跡が残る顔に、ニヒルな笑みを雑賀は浮かべた。フツメンなのに、やたらカッコよく見える。

「……すまん」

「いいってことよ。白崎さんと、お幸せにな」

それだけ言い残し、荒野を行くガンマンのような雰囲気で雑賀はどこぞへと立ち去って行く。

俺は「ありがとな」と呟いてから、白崎さんの元へと向かった。

しかし、これで一緒にお昼を食べようというお誘いじゃなかったら、恥ずかしすぎるんだが……

「どうかな、黒乃くん……美味しい?」

俺の心配は杞憂ですんだ。本当の本当に、白崎さんは俺に手作り弁当を作って来てくれたのだ。

「あ、ああ、美味しいよ」

例え、この手にするタマゴサンドが多少不味かろうとも、俺はこう言っただろう。だが幸いにもというべきか、期待を裏切らずというべきか、白崎さんお手製の料理はどれも美味しかった。卵焼きやから揚げといった定番メニューは、どれ一つとして冷凍食品ということもない。

このタマゴサンドだって、いつか食べた物凄く無難な味のモノとは比べ物にならない驚きの美味さを発揮している。そんなに差が出るはずもないシンプルな料理のはずなのに、この違いは一体なんだろうか。

「そう、良かった」

どこまでも真っ直ぐに、朗らかな笑顔を見せてくれる彼女に、俺は未だに現実感が湧かない。

俺とて雑賀ほどではないが、可愛い彼女は欲しかったし、こうして中庭のベンチで彼女と二人きりのランチタイム、なんてのに憧れたりはしたものだ。なのに、いざそれが実現するとこれである。まるで、都合の良い夢を見続けているかのようだ。

「あの、さ」

「なぁに?」

目の前の現実を信じきれない、その理由は何となく分かっている。

「どうして、俺なんだ」

「私が黒乃くんを好きになった理由、ってこと?」

心当たりがない、というのは大いに不安なのだ。何とも情けない話であるが。

「ああ、なんで、というか、どこを好きになったのか、自分じゃ全く分からなくて」

「なんで、かな……なんでだろう、気づいたら、好きになってたの」

まさか一目惚れってことはないだろうと思ったら、それよりもっと微妙な動機が語られるとは。

ちょっとショックを覚えながらも、平静を装って「そうなんだ」とか適当な答えをどうにか返す。

「うん、でも私、不器用だから……好きって気持ちを隠したまま、何てことないように友達を演じるのが、できなかったの……ごめんね、今までずっと、避けられてるって、思わせちゃったよね」

細い眉を八の字に寄せる泣きそうな表情を前に、今度は別の方向にショックを受ける。

気づいたら好きになっていた、というのが惚れる理由としてどんなもんであるのか判断に迷うが、それでも彼女は真剣だったのだ。

俺は心のどこかで、まだ彼女の好意を侮っていたのだろう。何となく付き合ってもいいかな、くらいのレベルなんじゃないかと。

「だからね、昨日、ようやく決心したの。部のみんなにお願いして、黒乃くんと二人きりになれるようにって」

「もしかして、俺以外みんな、前から知ってたのか?」

「うん、最初は隠してたつもりだったんだけど……」

どうやら、傍から見ていれば俺に好意があるってことが丸わかりなほど、白崎さんは挙動不審であったらしい。てっきり、ビビられているだけだと、俺は頭の悪い勘違いをし続けたということか。去年、文芸部に入ってから一年以上も。

「そ、そうだったんだ……」

自分のことながら、情けないやら呆れるやら。男なら、女の子の気持ちを汲んで自分から行けよ! なんて思っても、完全に後の祭りである。

「でも、こうして黒乃くんの彼女になれて、本当に良かった。もし断られたら、諦めようって思ったんだけど……きっと、諦めきれなかったと思うの。それくらい好き、なの」

さりげなく手を握られ、鼓動が一気に高鳴る。

彼女が愛の言葉を囁く度に、彼女と触れ合う毎に、俺の中にある疑念、不安、遠慮といった感情が埋め立てられていく。好かれている。愛されている。心から信じてしまうのは、そう遠くない。

「ありがとう、そんなに思ってくれて。俺は幸せだよ」

いや、俺は信じなければいけない。本当に俺のことを好きかどうか、どこが好きか、何で好きか。自分を納得させるよりも、早く、一刻も早く、彼女の思いに応えてやる方が大事だろうが。

「俺、まだ白崎さんのこと全然知らないけど、これからもっと仲良くなれるように、色んな事、教えてほしい」

「うん、私も黒乃くんのこと、もっと、知りたいな」

そんな甘い言葉を返されながら、白崎さんは俺へとしなだれかかってくる。握られた手、触れ合う腕、肩。艶やかな亜麻色の長髪が流れる。

そんな風にされたら、どんな秘密でも喋ってしまいそうだ。

「ねぇ、黒乃くんは好きな人……いなかったの、かな」

「いないよ。でも、白崎さんのことは、気になってたんじゃないかと思う」

彼女ほどの美少女が近くにいて、全く気にならないなんてはずがない。最初から諦めていたと言うべきか。あるいは、もう少し仲良くなれていたら、本気で惚れていた可能性も否めない。

「ふふ、嬉しい」

ぶっちゃけ、顔が可愛いから気になってた、というような軽薄な好意だったが、それでも嬉しいようだ。腕をギュっとしてくるくらいには。

ヤバい、こんなのが続いたら、本当に俺、色ボケするぞ……

「それじゃあ初恋の人、とかは?」

君が初めてさ、とか即答できたらカッコいいのだろうか。少なくとも、俺には言うつもりはないし、嘘をつくつもりもなかった。

俺には、初恋の人がいる。

少しばかり恥ずかしい、それこそ、今まで誰にも語ったことがないほどに。だが、白崎さんには正直に語ろう。

「小学生の時、一度だけ会った女の子のことが好きだった……というか、憧れた」

その日、ガキだった俺は荒れていた。

何故か。理由は単純、初めて書いた小説が、クラスの友人に馬鹿にされたからだ。

自信満々に見せた作品が、酷評と嘲笑の嵐となって返ってきたことで、プライドがバッキバキにへし折れた俺は、涙ながらに下校チャイムと同時にダッシュで学校を出た。

まっすぐ家に帰る気にもなれなかった俺は、いつもの通学路とは逆方向へと走った。どうしようもないほど、幼稚な逃避行動である。

そうして辿り着いたのは、見なれない公園だった。そこを目指していたわけじゃない、ただ走り疲れたからそこで休もうという短絡的な考えだったろう。

そこで俺は、彼女と出会った。

「その子は、酷く冷めた表情でブランコに座ってた。それだけだったら気にも留めなかっただろうけど、彼女は原稿用紙の束を持ってたんだ」

小学校の作文で使うのと同じ原稿用紙だったから、すぐにソレだと分かった。自分の状況が状況である、もしかしたら、と思って、俺は彼女を覗き見た。

やはり、それは小説だった。

「その時にどんなやり取りをしたのかは覚えてないけど、なんだかんだで、俺は彼女の小説を読ませてもらったんだ」

隣のブランコに腰かけて、俺は読んだ。面白かった。

「――それ以上に、衝撃的だった。あの子はどう見ても俺と同い年か、それ以下だった。なのに、ストーリーもキャラも文章力も、何もかも、完璧だった」

ちくしょう、面白い、と俺は半泣きであの子に語った記憶がある。

そうして俺はようやく思い知った。友人が酷評したのは、真っ当な評価であったのだと。

それを認める、いや、理解させられたと同時に、俺は自分の原稿をその場でぶん投げた。夕陽に染まった公園に、白い紙が舞い散る景色は、今でもよく覚えている。

「俺と彼女に天と地ほどの差があると思い知った。悔しくて、妬ましくて……それでまた、泣いて帰ったんだ」

それでも筆を折らなかったあたり、当時の俺はそれなりに根性があったのだろう。

彼女のように面白い作品が書きたい。子供なりに、必死に試行錯誤して書いた。書き続けた。

そして何年かの月日を経てようやく完成したのが『勇者アベルの冒険』である。大筋のストーリーは、あの日、公園で投げたモノと同じ。実は、リメイク作品だったのだ。

「初めて友達に、面白いって言ってもらえたよ……まぁ、中学生にしては、ってつくけど」

「ううん、私も面白かったと思うよ」

読んでくれていたのか、と改めて思えば恥ずかしくなる。まぁ、文芸部室には部員の作品が置いてあるから、読もうと思えば誰でも読める。白崎さんが俺に好意を持ってくれたのなら、あの拙いラノベを手に取ってくれたのも納得だ。

「黒乃くんは、凄く真面目に文芸部の活動に取り組んでるよね。そういうところも、好きだよ」

「あ、ありがとう……」

うっとりした上目使いで言われれば、嬉しさよりも恥ずかしさが勝る。また一つ、鼓動が高鳴る。

「でも……少し妬けちゃうかな、その子に」

「そ、そうか? 初恋といっても、勝手に俺が神格化したようなものだし、どんな顔をしていたかも、もう覚えてない」

「でも書いている時は、その子のことばっかり、考えてたんでしょ。もしかして、今も」

な、なんて鋭いんだ白崎さん。これが恋する乙女の洞察力というのか。

あの子の思い出は、俺が小説を書く原点みたいなものだ。執筆していると、未だに思い出される。

いやしかし、最近は全く執筆なんてしてない……いや、待てよ、つい昨日も書いたはずだ。なのに何故だろう、指で愛用のノートパソコンのキーボードを打つ感覚が、全く思い出せない。

「ふふ、ごめんね、ちょっと意地悪だったかな。本当は気にしてないよ」

これぞ本命彼女の余裕、とばかりに微笑む白崎さんを前に、俺のもう何度目になるかわからない喪失感はあっけなく消え去る。

思わず、そのまま彼女の笑みに見惚れそうになる寸でのところで、どうにか正気を取り戻す。魔性の微笑みの誘惑を振り切って、話題転換。

「そ、そういえば、弁当ありがとう。凄く美味しかった、ごちそうさま」

なんだかんだで、俺は手作り弁当を完食していた。白崎さんが左腕に寄りかかっているというか抱き着いているというか、そんな感じで片手が塞がっているので、もしメインがサンドイッチじゃなかったら食事は進まなかっただろう。

ともかく、無事に食べ終えたのだから何も問題はない。

「ねぇ、明日も作ってきて、いいかな? 迷惑じゃない?」

「いや、迷惑だなんて……むしろこっちが悪い気がする」

「ううん、彼女なんだから、これくらい当然だよ」

まさか、姉貴以外にここまで言い切る女性がいるとは。もしかして、密かに大和撫子がブームになってるのか。いや、ないな、単純に白崎さんが良くできた女の子だということだ。なんという圧倒的女子力。

「ありがとう、それじゃあ、お言葉に甘えようかな。実は、今ちょっと親がいなくて、これから昼どうしようか悩んでたところだったんだよ」

「あ、そっか、だから今日、黒乃くんお弁当持ってきてなかったんだ」

お蔭で餓えずにすみました。昨日、いきなり両親揃って出ていった衝撃のあまり、昼食のことなんて全く考えてなかったからな。

「本当に急なことでさ、おまけに、姉貴もここぞとばかりに一人暮らしの彼氏の元に転がり込むし」

「そうなんだ……じゃあ、家にいるのって、黒乃くん一人なんだ?」

「ああ、しばらくは一人暮らし生活になる」

これからどうすりゃいいんだ、何て愚痴が零れそうになったが、息と一緒に呑み込んでしまった。

「それじゃあ今度、黒乃くんの家に行っても……いい?」

その台詞を言葉通りに受け止めるほど、俺は純真無垢な性格ではない。可愛い彼女ができたばかりの高校生だぞ、これを聞いて、期待しないという方がどうかしてる。

そう、一人暮らしの男の家に、女の子が行きたいという発言の意図を。

「え、いや、それは……」

同時に、咄嗟に出てくるのがこんなしどろもどろな返事というのが、俺のヘタレ具合に拍車をかける。

「ダメ……かな?」

「いや、ダメじゃない! ダメじゃないけど……いい、のか?」

いいかどうか、を問うているのは白崎さんの方だろう。こんな質問返しをする時点で、俺の下心は白日の下に晒されたも同然。

「……うん」

だが、それでも彼女は、白崎さんは答えた。顔を真っ赤に染めながらも、首を縦に振ったのだ。

「そ、そうか……」

それ以上は、言えなかった。ついでに、彼女の顔も直視できなかった。無理に視線を逸らす。

けれど、白崎さんはさっきからずっと俺の左腕に抱き着きっぱなしなので、その柔らかな感触と体温を、どうしようもなく感じてしまう。

どこまでも真っ直ぐな好意による誘惑を前に、俺の頭はロクに回らない。ああでもない、こうでもない、どうすればいい――思考の堂々巡り。

だが、そんな混乱の状態異常は即座に解消された。耳に届いたのは、聞きなれた鐘の音。

「あ、チャイム、鳴っちゃったね」

「そ、そうだな、急いで戻らないと!」

そうして、俺は白崎さんの魅了から解放された。だが、これは一時的なものに過ぎない。

すでに約束してしまった。彼女を家に招くと。

どうやら俺が白崎さんに骨抜きにされるのは、そう遠い未来の話ではなさそうだ……