軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

はじめまして

「宰相?」

「王太子殿下のご政務には、辺境伯の予算申請案がございます」

カスパーがぱちぱちと瞬きをした。はじめて知った、という顔だ。お前の仕事だぞ小僧。マルセルはぐっ、と本音を呑み込んだ。

「レオンティーヌ・バルツァー嬢が申請書を読み、予算を組み、議会を説き伏せ、承認させました」

「名演説でしたな」

「左様。王国を魔獣から守護する辺境を、王国が守護しなくてどうする、と」

「わずか十三歳の令嬢が北領について調べあげ、渋る議員を相手に一歩も引かず、正論を叩きつけましたからな」

「実に爽快でしたなぁ」

わらわらと集まってレオンティーヌを擁護するのは武の家門の貴族たちだ。バルツァー家と同じく、王都を守護するための騎士団と領兵を有している。当主として先陣を切る者たちだ。

「おかげで先の大侵攻で破壊されていた城壁の修復ができる、と我が領の煉瓦に注文が入りましたよ」

それからどうなった、がまた別の貴族から語られる。

「貴家の煉瓦はドラゴンが乗っても壊れないと評判ですからな。我が領も武具の注文が増えましたぞ!」

「南領にある我が町は、北領から無事にフロストドラゴンの魔石が流通するようになって、オアシスの水量が回復しました」

「北領の魔獣被害が減ったおかげで東領の穀倉地帯の被害も減り、穀物を北領が買ってくれます」

「西領もですよ。北からの風が落ち着いたおかげで、冷害に弱い薬草が復活しました」

「寒さに弱いくせに暑さも苦手なので、北領の魔石は欠かせませんのよ」

「先日はあの国に雪狐の毛皮を贈って喜ばれましたわね」

「そうそう。あそこの商会も北領に行きやすくなったと喜んでいました」

「今、北領では街道の整備を進めているとか」

「北領産の魔石や素材は品質が良いですからね。待ち遠しいです」

「その最たるはピークスパイダーの布ですわ!」

「本当に。生きてお目にかかれるとは思いませんでしたわ」

「クラウゼヴィッツ閣下の、北領の民の感謝が見えるようですわね」

本来ならピークスパイダーの布は、カスパーのものだった。

予算案など地味で数字ばかりの仕事だと馬鹿にして、レオンティーヌに「やっておけ」の一言で押し付けなければ、そうなったはずだ。

王都から遠い辺境がどうなろうと関係ない。カスパーは軽く考えていた。

だが、北領の城壁が直っただけで、経済がこれほど動く。それを肌で学ぶために、王太子の政務に含まれているのだ。

中央は王家の権勢が強い。独立心の強い辺境の心をつかむ意味もあった。

自分より優秀な婚約者を便利使いして女遊びや賭博に走り、後始末は他人任せ。それでも廃太子されないのは、親王家派と、わずかだが期待の声があるからだ。

過去にも女遊び、賭博、おまけに乱暴者と三拍子揃った王太子がいた。どうなることかと危惧されたが、その王太子が王に立つと悪い遊びはきっぱりと止め、それだけではなく遊びに誘った貴族、弟王子を擁立しようとしていた貴族、国を裏切っていた貴族をことごとく粛清した。つまり、馬鹿はすべて演技だったのだ。そして彼を信じ支え続けていた婚約者を生涯ただ一人愛し、善政を布いた。

前例がある以上切り捨てられない。それにレッティナル王国には議会がある。万が一王が暗君でも被害が最小限で済むようにできていた。

「それにしても不思議ですな」

マルセルは信じられないという顔で集まった貴族たちを見回すジョゼフィーヌをちらりと見た。

「貴族の除籍は告知されます。なぜ、陛下方はご存知なかったのでしょうか?」

国王はぎくりと肩を揺らした。

もちろんマルセルはわかって聞いている。

王太子カスパーがレオンティーヌに政務を押し付け始めた五年前。マルセルはそれを黙認した。誰がやったかより、仕事が終わるほうが大切だったからだ。

それに、カスパーが婚約者に命じたことなら、最終的にカスパーの功績といっても良い。マルセルは実際そのように評価し、カスパーの支持率は上がった。

ところがそれに異を唱えた者がいる。

ユリウス・クラウゼヴィッツである。

若き辺境伯は何年も無視されていた城壁修復費が下りたことに驚き、予算案の文字が子どもの筆跡だったのを訝しみ、何が起きているのか調べたのだ。そして、レオンティーヌ・バルツァーを知った。

厳寒の民の気質として、恩義に篤い、というものがある。北領クラウゼヴィッツの城、シュネイス城の城壁が壊れるほどの魔獣討伐戦で、彼は両親を亡くしていた。騎士団にも領兵にも多くの戦死者を出した。

城壁が壊れたままで、再度大規模侵攻が来たら北領は壊滅する。直そうにも日々の討伐による負傷者の増加、装備費が予算を圧迫した。壁が壊れたままでは人間が盾になるしかなかったのだ。

国として、城壁修復予算を出してほしい。何年も申請し、無視されてきた。却下ではない、無視だ。王宮は辺境を見てもいなかったのだ。

その予算が下りた。ユリウスと北領の民にとって、それは福音に他ならなかった。北領は恩を忘れない。もしもレオンティーヌが困難に遭ったら必ず助けよう。ユリウス・クラウゼヴィッツはそっと手を差し伸べるつもりで、レオンティーヌの調査を続けていた。

まさかすでにレオンティーヌが困難な状況にあるとは、思いもよらなかった。ユリウスは仰天し、憤った。

王太子の婚約者だ、蝶よ花よとまではいかなくとも、大切にされていると思っていた。当然である。

ところがレオンティーヌは家族に会うことも許されず、虐待といえる教育をされていた。

カスパーとの仲は悪くなかったはずが、王妃の嫁いびりめいた言動と、妹ジョゼフィーヌがあちこちで吹聴した嘘により、しだいに二人の間に亀裂が入る。

またジョゼフィーヌの嘘を信じた貴族がいたためレオンティーヌの味方はおらず、彼女は孤立していた。

そのうちにカスパーが黙認されたからか、王妃までレオンティーヌに政務を押し付けるようになった。

笑わず、話さず、心を閉ざした令嬢。特に妹からの誹謗中傷は酷く、ジョゼフィーヌが完璧な淑女と言われていたのもあいまって、まるで殺人鬼、血も涙もない極悪非道と囁かれ嫌悪を一身に浴びていた。

憤ったユリウスはすぐさま動いた。

城壁の修復に必要な物資の買い付け、人員の募集を利用して、レオンティーヌのおかげだと感謝を広めたのだ。

北領と王都は遠い。伝手はあっても届くまで時間がかかる。ユリウスはそこを突いた。口コミによる草の根運動である。

まずは北領の民から。商人や傭兵を通じて近隣へ。

貴族へは、辺境領の会合を使って、真相を調査するとともに報告した。

エンゲルブレヒト・バルツァーにユリウス・クラウゼヴィッツから正式な書状が届いたのは三年前。レオンティーヌの現状と、ジョゼフィーヌの所業、王都の噂と相反する辺境での評判をご存知か?

エンゲルブレヒトは嫡男ゴットフリードの教育と領地経営のためバルツァー城にとどまっており、詳細は知らなかった。

それどころか、カスパーの功績は聞こえてくるのにレオンティーヌは批判的なものばかりだったため、もっと励むようにと叱責する手紙を送っていたのである。

ユリウスからの書状には、これ以上レオンティーヌを冷遇するのならば、北領は全軍を挙げて大恩ある令嬢を迎えに行く、とまでしたためられていた。

他家の令嬢であろうとも、北領にとっては恩人。辺境は恩を忘れず。

バルツァー家が動かないなら辺境が動くぞ。これ以上ない、脅しであった。

飛び上がるほど驚いたエンゲルブレヒトはゴットフリードを連れて王都へ向かった。その道中、活気ある町は辺境の恩恵を受け、寂れた町は親王家派の貴族の領地だと肌で経験する。辺境はすでに動いていた。

やっとの思いで辿り着いた王都の邸宅では、リュクレーヌが困惑していた。娘の母親はレオンティーヌに流れる噂の源流を突き止めていた。

なぜ、ジョゼフィーヌはあれほどあの子を憎むのか。

ジョゼフィーヌの原動力を母は正確に見抜いていた。

――憎悪。

ほとんど会ったこともない姉を、ジョゼフィーヌは憎んでいる。どんなに叱っても、止めても、諭してもだめだった。リュクレーヌが手塩にかけた娘は、完璧な淑女のまま、母の叱責すら利用してレオンティーヌを貶める。母を騙してジョゼフィーヌを排除しようと企む悪辣な令嬢にする。

ジョゼフィーヌはカスパーと少しずつ距離を詰め、姉という権力に負けず、カスパーを正道に戻す勇敢で正義ある令嬢を演出した。かつての王と王妃を彷彿とさせたのだ。

このままいけばジョゼフィーヌはレオンティーヌを追い詰め、蹴落とし、婚約を破棄させることに成功していただろう。

だが、北領辺境伯がその思惑を根底から覆してしまった。

「国王陛下」

宰相マルセルは心からの哀れみを込めて言った。

「国王の権威とは、玉座に備わっている機能ではございません。どんな権力も、その職務を遂行し、結果を出す者にしか使えぬのです」

やがて真相を知った貴族たちは、レオンティーヌを守るために動いた。

レオンティーヌと同時期に社交デビューした令嬢たちは彼女に謝罪し、その仕事量を知って驚き、方々に手を回し自ら側近となり秘書となって、レオンティーヌの食事・睡眠の時間を確保した。伝手を使って文官に働きかけ、今まで回されていた王太子とも王妃ともまったく関係のない書類をストップした。

そうなると面白くないのは、今までカスパーを見習って楽をしていた連中だ。彼らは親王家派の貴族であった。カスパーとジョゼフィーヌの仲を応援していた連中でもある。レオンティーヌに面倒を押し付けていれば良い、カスパーの尻馬に乗っていれば甘い汁が吸えると嗤っていた。

令嬢たちは、親王家派に情報を一切渡さなかった。侍女や護衛に至るまで、頑としてレオンティーヌを守ったのである。

「……ご自分の仕事を、ご自分でやっていれば、気づいたでしょうに」

「そうだね」

マルティナがうなずいた。

誰も教えなかった情報は、国王の手元にあった。ジョゼフィーヌはレオンティーヌの妹、バルツァー侯爵令嬢だった。王太子の婚約者の妹が除籍処分など、バルツァー家に問題ありとして婚約者変更もありうる醜聞である。

机の上に、あからさまに置いてあった、数枚の報告書。

ジョゼフィーヌの名を一瞥しただけでレオンティーヌに投げなければ、今日までに対処できただろう。

「……っ、レオンティーヌ! 貴様、何とも思わないのか!? 妹だろう! やはり血も涙もないのだな、魔女めっ!!」

カスパーが自分を棚上げして叫んだ。

レオンティーヌはゆっくりと、カスパーに向き直った。

「何とも思わないわけがございません。そうなったか、と思いましたわ」

「……?」

「え……?」

これにはジョゼフィーヌも呆けた声が出た。

「お……お姉様?」

呼びかけに、レオンティーヌは小首をかしげる。

「妹と言われても……王都に来て以来、ほとんど会ったことのない相手です。面会には母が一人で来ておりましたし、いたというのは覚えておりますが、気分的には他人でしたわ」

今では側近となっている友人たちに謝られて、ようやく孤立の原因がジョゼフィーヌだったと知ったほどである。レオンティーヌにとって、ジョゼフィーヌは遠い思い出の中にいる幻の妹であった。ああ、そういえばいたわね。その程度の認識しかなかった。最近カスパーの傍にいる令嬢が一人に固定されたわね、と思っていても、それが妹だとは気づいていなかった。

だからジョゼフィーヌが家から除籍されても、悲しみも、ざまあみろと喜ぶこともなく、そうなったのねと納得した。

「そんな……」

人生を懸けるほど憎んだ姉に、ほとんど他人だと思われ、自分だと気づかれていなかったことに、ジョゼフィーヌはショックを受けた。意識しないうちに涙が溢れる。

せめて同じくらいの熱量で憎んでいてくれたなら、まだ救いはあったのに、姉はどこまでも他人事だった。冷静なのではない、強がりでもない。名前しか知らなかった妹という人間が、罪に合った罰を受けた。それだけなのだ。

「ですが、何がしたかったのかは、理解不能ですわね。カスパー様と結婚したいのでしたら父に相談すれば良いだけですし、バルツァー家の娘であれば挿げ替えは可能でしたでしょう。わたくしは喜んで、政務官にでもなりましたわ」

あっさり「いらない」と言われ、さすがにカスパーもショックを隠せなかった。

「レオンティーヌ様ったら」

「お仕事ばかりでは婚期を逃してしまいますわ。レオンティーヌ様なら引く手あまたですわよ!」

「あら、レオンティーヌ様が王都にいてくださるのは嬉しいですわ」

友人たちがくすくすと笑う。

絶望顔の親王家派と、和気藹々としたレオンティーヌたち。壁がはっきりとできていた。

「だって……政務官なら北領……クラウゼヴィッツ閣下のお役に、少しでもなれますでしょう?」

そう言ってはにかむレオンティーヌは、まさしく恋する女の顔だった。

「まて、……待て! クラウゼヴィッツと会ったこともないんだろう!? レオンティーヌ、どうしてそんな顔をする!?」

顔? 自分がどんな顔をしていたか、レオンティーヌには自覚がなかった。

「クラウゼヴィッツ閣下は、わたくしの仕事を認めてくださった、はじめての人です」

辺境の予算申請にレオンティーヌが尽力したのは、バルツァー家が武門の家だったからだ。

北には一年中雪を冠する山脈があり、南には砂漠、東は穀物を狙う虫型魔獣が多く、西は森林が広がっている。

その要所要所に町を置き、分家や寄子貴族が守っている。

そしてその全体を守るのが辺境伯だ。国の守護だけではなく、国境の管理もするため、国境を接する国にとっても重要人物である。実際大侵攻が起きた時は共同戦線を張る同盟を辺境同士で結んでいる。

魔獣素材は大切な資源だ。魔獣の牙や鱗は武具に、血や内臓は魔法薬の原料に、心臓から採れる魔石は魔道具の動力源となる。

魔獣は辺境だけに発生するものではない。人間と同じく、生きて繁殖する生き物だ。 棲み処(す か) やなわばりを移動することも、環境の変化で大繁殖して都市部に餌を求めることもある。そうした大発生による都市や農地への被害を大侵攻と呼んでいる。

そして王都への侵攻が迫った時こそ、バルツァー家をはじめとする武家の出番だった。

レオンティーヌは、父が母が出陣した時のことを忘れてはいなかった。

「……五年前、予算申請を受けた時、北領について調べました」

そして、知った。過酷な地で一歩も引かずに戦っている人たちがいることを。

「クラウゼヴィッツの城壁が破壊された大侵攻の討伐戦で、閣下のご両親――先代辺境伯閣下は名誉の死を遂げられました。自爆魔法を使われたのです」

場がシンとなった。

「クラウゼヴィッツ閣下ご自身も、特殊魔導士特級資格をお持ちです」

特殊魔導士資格はレオンティーヌも持っている。魔獣討伐戦に参加するために必須の資格だ。これがあれば貴族平民問わず出陣できる。騎士、領兵、傭兵には基本的な資格である。

三級から特級まであり、大規模攻撃魔法、広範囲回復魔法など、使える魔法で昇格する。

特級は、自爆魔法を取得した者に与えられる。

余談だが、資格試験でいちいち魔法を実践させるわけにはいかないので、魔法陣を使っての疑似発動だ。三級の攻撃魔法でも精度が高いと防郭結界を貫くこともある。焚火しようと思ったら炭になるどころかマグマになった、みたいなものである。大惨事だ。それを防ぐために魔法陣で代用している。魔法陣は魔道具を作る際の魔導回路であり、魔石がないと発動しない。

「それほどのお方が、たかが十三歳の小娘に、丁寧な礼状をしたためてくださいました」

やって当然。できなければ役立たず。

カスパー殿下の代理を任されるのは名誉なこと。

己の名を残すことなど恥を知れ。内助の功こそ婚約者、未来の妻の役目だ。

レオンティーヌはそう言われてきた。褒められたことなど一度もなかった。カスパーでさえ、一度が二度に、二度が三度にと続くうちに「やっておけ」だけになった。

――それが。

会ったこともない、遠く離れた辺境伯だけが、レオンティーヌを認め、感謝してくれたのだ。

どれだけ嬉しかったか、カスパーにはわからないだろう。

しかもその人は、レオンティーヌの窮状を知るや、救助に動いてくれたのだ。

直接ではない。庶民に、商人に、貴族に、両親に、事実だけを知らしめ、彼らの心に訴えた。

ひとり、また一人とレオンティーヌに声をかける者が増え、謝罪されるようになった。

友人ができ、助けてくれる人ができた。

両親が揃って王家に掛け合い、王宮から家に帰れるようになった。

眠れるようになった。食事ができるようになった。

笑いかけてくれる人が増えた。笑えるようになった。

城壁修復の予算を通しただけで、ここまで感謝してくれる人がいる。ユリウス・クラウゼヴィッツの行動は、レオンティーヌが生きてゆくのを諦めない理由になった。

「誰の仕事であろうとわたくしが処理すれば、それは、巡り巡って閣下のためにもなる。そう思えばこそ頑張れましたわ」

そして黙って耐えているのは駄目だ、ということをレオンティーヌは学んだ。

いつか誰かが気づいてくれる。察してくれる。なんて奇跡は待っているだけ無駄だ。自分の名で、自分の声で、伝えなくては自分の気持ちは誰にも伝わらない。

「ええ、ですのでカスパー様、わたくしきっと、どこでもやっていけますわ」

「何を……」

「カスパー様、わたくしのこと大嫌いでしょう? だからわたくしを憎んでいる、わたくしの妹に手を出した」

さっ、とカスパーが真顔になった。

信じられない、というようにジョゼフィーヌがカスパーを見る。共犯意識もあったがジョゼフィーヌがカスパーに恋をしていたのは本当だ。

カスパーの婚約者だから、あれほどレオンティーヌを憎んでいた。

「あの手この手で追い詰めて、わたくしが逃げるか、衰弱死でもすれば良いとお考えになった。それとも自死すれば満足でしたか?」

「レオンティーヌ……」

「残念でしたわね。わたくし、鍛えられてしまいましたわ。ですがお礼は申しあげられません。殿下が婚約者を替えたいと、一言おっしゃってさえいれば、こんなことにはならなかったはずですもの」

春の大舞踏会で、すべての貴族の前で、醜態を晒すことにはならなかった。

「そういうところだっ!」

激昂を恥じるように肩で大きく息をして、カスパーはレオンティーヌを睨みつける。

「昔からそうだ。お前はいつも、私を裏切る。一人、泣きそうな顔で王宮にやって来たお前を、私は守ってやろうとした。だがお前は優秀で、すぐに私を追い越し、強くなっていった。私を頼ることもなかった」

単なる難癖にしか聞こえないが、男のプライドが傷ついたということだろう。

「それが裏切りとおっしゃっても困りますわ。わたくしをそう育てたのは、王妃様です。できなければ鞭打たれ、間違えれば罰として教本の書き取りを命じられ、泣けば罵倒され、誤字脱字があれば書き取りが増え、うたたねも許されず、食事や睡眠の時間もありませんでした。そのような教育をされれば嫌でも優秀にならざるをえません」

「私に縋れば良かっただろう。泣いて助けを求めれば」

「殿下を支えるための婚約者がそのていたらくでは、さらに鞭で打たれたでしょう。交流のための時間、常に王妃様がおいででした」

「母上を、王妃を侮辱するのか」

「事実を申しあげております」

怒りのあまり青白くなったカスパーに、エンゲルブレヒトは複雑な気持ちになった。

大嫌い、とレオンティーヌは言った。大嫌い、だからこそ同じくレオンティーヌを憎んでいるジョゼフィーヌを選んだ、と。

エンゲルブレヒトはそれに納得してしまった。カスパーはたしかに女にだらしなく、徒党を組んで賭博にふける、絵に描いたような道楽王子だ。だがジョゼフィーヌの巧妙な嘘に騙されるくらいの優しさは持ち合わせていると思っていた。小指の爪くらいは見直したのだ。あれで人を助ける心を持っているのだと。

そしてジョゼフィーヌにドレスを贈り、ジョゼフィーヌをエスコートして現れた。

入場時、カスパーは微笑んでいた。ジョゼフィーヌの手を取り、王族らしい笑みを浮かべていた。

あれは優越感だったのだ。すぐにカスパーはレオンティーヌを探した。マルティナと友人の令嬢たちに囲まれて見えないとわかるや、ファーストダンスを開始した。否応なく注目を浴びる行動だ。レオンティーヌに見せつけるための行動だった。

レオンティーヌを貶めるために、そうしたのだ。

「……」

それは恋ではない。恋と呼ぶにはあまりにも未熟すぎる。カスパーは否定するだろう。エンゲルブレヒトも認められない。

「恋は……教わったからできるものではないからな……」

「あなた?」

エンゲルブレヒトの呟きにリュクレーヌが見上げてきた。不愉快そうに眉を寄せる。

「あんなものが恋であってたまるものですか」

「ああ。そうだな」

あれは、恋の残骸だった。自分で踏みにじり、壊し、それでも捨てられない。

執着、あるいは憎悪。目を背けることができないほどの。

おそらくこの感情は男にしかわからない。自分より優秀な自分のものになるはずの女が自分より遥か先にいる。憧れにはならず、嫉妬すら生温い。まして一度恋した女であればなおさら、その何もかもを壊してやらなければ気が済まなくなる。憎悪で良いからその心の一番奥深くにいるのは自分でなければ許せなくなる。

レオンティーヌとやり取りを続けるカスパーはうっすらと笑みを浮かべていた。

「過去のことを持ち出して人の揚げ足を取る。妹を除籍しただけでは飽き足らず、こともあろうに王妃を愚弄するとは。噂通りではないか。家族や他家を味方につけて、お前のような女を悪女と言うのだ」

「ではどうすれば良かったのですか」

「死ねば良かったのだ」

「なるほど。ではやはり、婚約を解消しておくべきでしたわ。瑕疵を付けて魔獣討伐でも命じていれば、お望みどおりになったかもしれません」

押しても引いても手ごたえがない。空回っているカスパーは、自分が何を言っているかの自覚もないだろう。

自分以外の誰かと幸せになるくらいなら死ね、と言ったのだ。

「カスパー殿下」

レオンティーヌが言った。

「そこまでおっしゃるのに、なぜわたくしとの婚約を、解消でも破棄でも、なさらなかったのですか?」

カスパーに何の感情も抱いていないからこその問いだった。カスパーは、レオンティーヌにだけは聞かれたくないはずだった。

目を見開き、唇を震わせ、そして答えられない。

誰もが固唾を呑んで、答えを待つ。

「北領辺境伯、ユリウス・クラウゼヴィッツ閣下!」

侍従が入場者の名を告げた。

瞬間、レオンティーヌが弾かれたように振り返った。抑えきれない喜びに頬は染まり、ヘーゼルの瞳が感激に潤む。

「レオンティーヌ……」

オーロラのドレスを翻して、レオンティーヌは走り出した。マルティナが道を開け、周囲の貴族たちが左右に割れる。

「やれやれ、やっとか」

遅いわい。ぼやいたフロレンツが手を叩いた。パチ、パチ、拍手が広がって会場を包み込む。

「レオンティーヌ」

カスパーの声が拍手にかき消された。

「死ね。死ね! 死んでくれ……!」

もうレオンティーヌには届かない。

北領辺境伯ユリウス・クラウゼヴィッツは暁の髪の美丈夫だった。会場の熱気に驚いたようにシャンデリアの吊るされた天井を見上げ、銀狼の毛皮の外套を脱ぐ。

王宮に到着してすぐ、身支度を整えることもせずに金薔薇の間に駆け付けたのだろう。ほっと息を吐き、外套を腕にかけたところで――レオンティーヌに気が付いた。

目が合った。

五年前、レオンティーヌを見つけてくれた人。丁寧な礼状の几帳面な文字しか知らなかった。

カスパーから回された政務をこなすうち、この人が何をしようとしているのか見えてきた。ただ権力を揮うのではなく、命令をするのではなく、ゆっくりと人々の意識を変えていった。

はじめは、風だった。水面を揺らめかせる風。それは波となり、うねりとなってついに王都を吞み込んだ。

会ったことはない。辺境から届く報告書に私信はない。辺境近くへの視察でも、ユリウスに会うことは叶わなかった。

それでも、どこへ行っても、彼の心はそこにあった。いつだって、レオンティーヌを気遣い、レオンティーヌを守る盾となりレオンティーヌが戦う剣となってそこにあった。

深紅より濃い、黒よりも鮮やかな瞳がレオンティーヌを見つめて歓喜に輝く。

じんわりと精悍な顔がほころび、ユリウスが両手を広げた。

「レオンティーヌ・バルツァー!」

「ユリウス・クラウゼヴィッツだ!」

レオンティーヌが飛び込んだ。

名乗りを上げた二人は勢いのままくるりと一回転した。レオンティーヌの心を表すようにオーロラが広がり、金薔薇の間を染めてゆく。

「はじめまして」

「はじめまして」

ユリウスの大きな手がレオンティーヌを確かめるように髪を撫で、頬を撫で、肩を撫でた。まるで獣同士の挨拶だ。けれど少しも不快ではなかった。

「会いたかった」

「わたくしもです」

ヘーゼルの瞳が潤み、涙が零れた。レオンティーヌは目を凝らした。この人の何ひとつ見逃がしたくなかった。

「レオンティーヌ、あなたのことは」

「ユリウス様、あなたのことを」

五年前から、知っていた。