軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

400.敬意の正体

居酒屋領主館の熱気は、開店時間を過ぎてからも右肩上がりに膨れ上がり、今やピークを迎えていた。一杯、二杯と酒を進めた客たちの賑わいは、店内の空気を心地よく震わせている。

「ギャッハッハー!」

「すみませーん! ビールおかわり〜」

「ささっ、グローズ・ハインド魔導指南役。ぜひ、この酒も試してみていただきたい」

「ぷへぇ〜。これも美味いのぉ〜」

そんな喧噪の余韻は、今夜に限っては店内だけに留まらない。

本日は裏庭も開放されているのだ。

そこには、夜の帳を突くように聳える謎の巨木――リグドラシルが、満開の桜をその枝々に宿していた。

淡い桃色の花びらが舞い散る下、敷物の上で繰り広げられているのは、まさに店主ラルフの前世にあった「花見」の様式美そのものだった。

「いんやぁ、あったけなってきたなぁ。オラぁ、寒いのは苦手だっけさー。あーはっはっはっはっは!」

「お姉ちゃん! それ私の焼き団子なんだけどー!」

「フッフッフー! 甘いわ妹よ! このお団子より甘っちょろい! 所詮この世は弱肉強食〜ってね!」

幻想的な風景を演出しようと、ラルフが心血を注いで用意した魔導ランプ。

フワフワと空中にいくつも浮かび、夜桜を幽玄に照らし出すその光景に、しかし目を向ける者は驚くほど少ない。

野外の圧倒的な開放感。

そして、旨い酒とツマミ、さらには他愛もないバカ話。

それさえあれば十分だとばかりに、人々はただ本能のままに飲み食いに興じている。

(まあ、それは前世の日本でも似たようなもんだったかも……)

と、ラルフは諦めることにした。

肝心なのは、情緒に浸ることよりも、この「様式」がもたらす一体感なのかもしれない。

そんな宴の最中、調理をメイドのアンナや孤児たちに任せたラルフは、厨房の片隅にいた。

どっしりと腕を組み、珍しく……本当に珍しく。極めて珍しく! 彼は真剣な表情を浮かべていた。

ラルフの目の前には、コンロの火にかけられた三つの鍋。

それぞれの中に、多種多様な素材がぶち込まれている。

それは、「出汁」。

そしてこれは、新たな「呑み方」を確立するための、孤独な試作実験だった。

この澄み渡る琥珀色の液体を用いて生み出そうとしているのは、料理ではない。

それは、更なる「酔い」の極致――酒である。

不意に、勝手口の扉が重々しく開いた。

「ちょいと、身体が冷えてきたな。おとなしく中で飲むか……」

ひょっこりと顔を出したのは、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵だった。その手には、空のジョッキが虚しく握られている。

「まだ夜は冷えますからな〜。なのにあいつらときたら、元気だなぁ」

ラルフは呆れを隠さず、窓の外に視線を飛ばす。そこではエルフのミュリエルが、夜風を切り裂くように大きく手を広げて舞い踊っていた。

「それ、なに作ってるんだ?」

ファウスティンが、興味深そうにラルフの手元を覗き込む。

「フッフッフ。夜風で冷えたファウストさんにも是非、試してもらいたい。そんな一杯を作ろうとね」

「んー? 一杯?」

「そう! 実は、"出汁割り"を作ろうと思いましてね!」

「ほぅ……」

ファウスティンの目が、狩猟本能を刺激されたかのように怪しく光る。

――出汁割り。

それは日本酒を出汁で割ったもの。

文字にすれば至極単純だが、これこそ日本の、民族的かつユニークな食文化の結晶だ。

余談にはなるが――。

その発祥は、東京都北区は赤羽にある『丸健水産』というおでん屋だと言われている。

当初は店主と仲良くなった者だけが辿り着ける「通」の裏メニューであった。しかし、現代のSNSという潮流に乗り、メディアが飛びついたことで、今や全国のチェーン店やネオ居酒屋のメニューに堂々と名を連ねる「定番スタイル」へと、そのローカル・カルチャーは、一気呵成に、「居酒屋文化」の表舞台に駆け上がったのだ。

「まあ、そういうこってして……。その出汁の配合やらなんやらを、こうして実験中ってわけですな!」

「なるほどそういうことかじゃあ早速一杯くれ」

「……早いな……」

呆れながらも、ラルフは棚から二つのぐい呑みを取り出した。

作業台の上には、ロートシュタイン製の米酒のボトル。

「これもセスの親父さんが造ってるやつなんだけど……割合はどんくらいすかね? 1:2くらい?」

「そんくらいかもな」

「じゃあ、まずは、シンプルな昆布と鰹節の出汁で試してみましょう!」

おたまを握ったラルフが、米酒の注がれた杯へ、静かに出汁を合わせていく。

「ラルフ、トウガラシはいれないのか?」

「えっ、いれるもんなの?」

「だと思うぞ」

「そうなんだ。……おーい! エリカぁ。お前のトウガラシ粉末、ちょいと貰うぞー!」

ホールの喧噪の中でビールを運んでいたエリカが、その声に肩をすくませた。

彼女は僅かに口角を上げると、親指をぐっと立てる。

カッコつけてるんだかなんなんだか、よくわからないが、どうやら了承されたらしい。

ラルフは最初の一杯を手に取り、もう一方をファウスティンへと手渡した。

「じゃあ、カンパーイ!」

「乾杯!」

二人揃って、くいっと一口。

しかし、期待に反して二人の表情は冴えない。

「う、うん……不味くはないけど。なんか、薄い?」

「うーん。なんというか、コクが足りないというか。微妙だな」

ファウスティンの言葉は、偽らざる本音だった。

「まあ、元は、おでんの出汁だったわけですよね? もう少し、色々な旨味が混ざり合わないといけないのか……」

ラルフはぐい呑みをとんと、作業台に置いた。

「まあしかし、これが本命ではないのだろう?」

「まあ、そうっすね。こっちの鍋は、さっきのをベースに、大根や竹輪、それに少しの醤油を入れてみたものです」

「ふむ。これが近そうな気はするな」

「まあ、何事も、実験……」

手早く準備された二杯目の試作品。

再びのテイスティング。二人の喉が同時に鳴る。

「あ! 良い感じ、かも」

「ああ。これは及第点じゃねーか?」

ようやく光が見え始めたその時。

カウンターでタコワサを啄んでいた国王が、ぬっと立ち上がった。

「おい! なんだそれは?! また儂に黙って新たな酒を飲んでいたなぁ」

「はぁ〜」

ラルフは深いため息を吐き出し、三つ目のぐい呑みを取り出した。

すると、ファウスティンの視線が最後の一つ、三番目の鍋に注がれる。

「もう一つの鍋は、これはなんなんだ?」

「ああ。それは、おそらく一番の意欲作ですね。ポンコツ三人娘のラーメンに着想を得て、ホーンラビットの骨を煮込んでみました」

その言葉を聞くや否や、国王が辛抱たまらない様子で怒鳴り散らす。

「おい! ラルフ、聞いておるのか?! 儂にも寄越せ!」

「はいはいはいはい……」

ラルフは歩み寄り、カウンターの上に、とんと出汁割りを置いた。

国王は、まずぐい呑みを覗き込み、慎重に匂いを嗅ぐ。

意を決してチビリと舐め、不思議そうな顔を一度見せた後。

ズズズー、と一気に飲み干すと、その目を見開いた。

どうやら、王の舌を黙らせるほどには気に入ったようだ。

「そんじゃ、ホーンラビット出汁割り、試してみますか?」

「……ちょっと、白濁してるし、脂も浮いてるが……まあ、試しだな」

ファウスティンは一瞬の躊躇を見せた。

だが、食文化とは常に挑戦の歴史である。

この湯気の向こうから、新たな革命の狼煙が上がるのかもしれないのだ。

ラルフが兎骨出汁を注ぎ入れる手元を、ファウスティンはじっと見つめた。

本日三度目のテイスティングタイム。

「くんくん……匂いは。悪くないですよ」

「トンコツ、っぽいか?」

「まあ、試してみましょう」

同時に、ぐい呑みを傾ける。

直後、衝撃が二人の全身を突き抜けた。

「えっ?! うまっ! え、凄くない!」

「お、おう……。旨味と、コクが、凄いぞ……」

若干の白濁からは想像もつかないほど、洗練された穏やかな旨味。

多層的な酒精と米の甘み、それを包み込む僅かな野性味。

抑制されたコクが、喉元から全身へと、優雅に流れ過ぎていく。

その悦楽の表情を、国王が見逃すはずもなかった。

「おい! ラルフ! そっちも寄越せ! そういうのは儂に真っ先に献上するもんだろバカモンが! 儂ゃこの国で一番偉いんだぞー!!」

「はいはいはいはい……」

もはや様式美となったやり取りの末、新たなぐい呑みが国王の前に雑に置かれる。

「……うーん……」

一方、ファウスティンは顎に手をやり、思慮の海に沈んでいた。

「ファウストさん? どしたの?」

「ああ。これ、もしかして、柑橘なんて。合うんじゃないか?」

その、恐るべき直感を口にした。

「ッ?! なるほど……。カボス? いや、ゆずなんて、どうだろう?」

ラルフの脳内でも思考が高速で回転を始める。

彼の左目に、僅かな赤い魔力光が宿る。

無意識に魔道的な演算を行い、この濃厚な旨味に合う柑橘の最適解を導き出した。

「柚子なんて、あるのか?」

「フッフッフ……!」

ラルフは、得意げに窓の外――裏庭のリグドラシルを親指で指した。

「ああ。なるほど、リグドラシルか……」

あの巨木は、願いを込めて魔力を流せば、あらゆる植物を実らせることができるという、理外の魔導植物。

詳細は未だ不明だが、便利であれば使うに限る。

――そして……。

「キャーハッハッハッハッ! お姉ちゃん! ちょっと見て! ラルフさまが、こんな夜に木登りしてるぅ、ウケる〜」

「ギャッハッハッハッハッハッ! まーた酔っ払ってんでしょう?! あーもう面白い!」

聖女姉妹の容赦ない大爆笑が夜空に響く。

「ラルフさまー! あぶねっけ、おりなせぇ〜!」

ミュリエルまでが楽しげに叫ぶ中、ラルフは太い幹にしがみついたまま振り返った。

「うっせぇなぁ! 僕は今、極めて高尚で社会的意義のある、新たな食文化の創出という試作実験の真っ最中なんだよ! 飲んだくれてるお前らとは志が違うんだ! このボケぇ!」

怒鳴り散らし、再びカサカサとよじ登っていくラルフ。

その姿を厨房の窓から眺めていたファウスティンとアンナは、同時に、全く同じ思いを抱いていた。

(公爵なのに、木登り上手いなぁ)

大魔導士であり、稀代の発明家であり、そして一国の公爵。

そんな仰々しい肩書きを持つ男が、柚子一つを求めて夜桜の巨木をよじ登る。

その底知れないポテンシャルと、あまりにも「残念」な方向への全力投球。

呆れを通り越して、もはや敬意すら抱かせるその人間臭さこそが、居酒屋領主館に人々が集う、最大の理由なのかもしれなかった。