軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

390.欲しがります! カツまでも!

真昼の「居酒屋領主館」を支配していたのは、夜の喧騒とは似て非なる、どこか温かな活気だった。

それは、飢えた酔客たちが騒ぐ音ではない。

規則正しい包丁のリズム、弾ける油の音、そして炊きたての米が放つ甘い蒸気が織りなす、大規模な「炊き出し」の情景である。

「はいよぉ! オークカツ、揚がったぞ! 油切り急いでくれ!」

厨房の最前線で、並み居る孤児たちや雇われ冒険者たちに鋭い指示を飛ばす男がいる。

かつては裏社会を震え上がらせた非情な金貸し。しかし今や、この王国を席巻する巨大ハンバーガーチェーンの代表にして、オペレーションの鬼――マクダナウェルその人であった。

「悪ぃね! マクダナウェルさん……。おーいエリカ! 飯は炊けたんかい?」

「バッチリよ! ほら、一気に八合、蒸らしも完璧なんだから!」

エリカが、耐熱グローブ越しに熱を帯びた大釜をドン、とカウンターに置いた。

その瞬間、待機していた孤児たちが、訓練された兵士のような手際の良さで駆け寄る。

「はーい! エリカお姉ちゃん! こっちで詰めるよ、どんどん持ってきてー!」

この異常な熱気の正体。

それは、デューゼンバーグ伯爵家の別邸建設に勤しむ職人たちへの「差し入れ」であった。

街外れの建築現場から昼飯を求めて往復する職人たちの苦労を耳にしたラルフが、つい持ち前の「お節介焼き領主」の血を騒がせ、この大規模なデリバリーを請け負ったのだ。

「……キュウリはこれで足りるのか? 足りないなら裏のリグドラシルから 毟(むし) ってくるが?」

聖教魔導士オルティ・イルが、淡々と、しかし凄まじい速度でキュウリを刻み、塩を振りながら尋ねる。

「ああ、十分だ。……だがまあ、あれば誰かしら食うだろ? 念のため追加で採ってきてくれ」

ラルフが許可を出すと、オルティ・イルは無表情のまま頷き、背を向けた。

すると、見れば戸口に向かう彼女の片方の頬が膨らみ、モシャモシャと何かを咀嚼している、気もする……。

つまみ食い、したのか? したよな?!

絶対に、したよな?!

別にいいけどよっ!

と、ラルフは思ったが、敢えて、何も言わないでおいた。

ドワーフの大工や、汗を流す奴隷たち。彼らに届けるべき「労働者に相応しいのメシ」とは何か?

「……卵とじのカツドゥーンも至高だが、このタレに『潜らせる』だけの潔さ……これまた、抗いがたい魔力を放っているな……」

揚げたてのオークカツを、秘伝の甘辛い醤油タレに潜らせる作業を任されたミラ・カーライルが、その妖艶な香りに目を回し、あわよくば口へ運ぼうと喉を鳴らしている。

「おい、ミラ、食うなよ? ……今夜の分はちゃんと取ってあるから」

釘を刺すラルフの目は、もはや慈悲深い公爵のそれではなく、食い意地の張った悪ガキ共のつまみ食いに目を光らせる、お母さんだ。

現在、ロートシュタインで、なんだか暇そうにしていた面々をかき集め、突貫工事で作り上げているメニュー。

それは――「タレカツ丼」、

そして「キュウリの塩揉み」、

仕上げに「もやしの味噌汁」。

力仕事で塩分とエネルギーを欲する職人たちの腹を満たし、かつ健康面にも配慮した、隙のない布陣。

公爵としての執務の合間を縫って行う以上、求められるのは圧倒的な「速度」だ。

卵で閉じるという工程を省き、かつ冷めても味が落ちにくい「タレカツ」を選んだのは、まさに合理的判断と言えた。

「そぉーら、次だ! 次々揚げていくぞ!」

高温の油から、一度に何枚ものカツを引き上げるマクダナウェルの手際は、もはや芸術の域に達していた。

かつての裏社会の帝王としての威厳は、今や「厨房の絶対君主」としての緻密な指揮系統へと昇華されている。

一方、丼に白飯を盛り付ける係のエルフ、ミュリエルが、カウンターを埋め尽くす丼の山を見て首を傾げた。

「これ……どうやって運ぶん?」

その問いを待っていたとばかりに、金髪ドリルツインテールを揺らし、なぜかヘルメットを装着したエリカが胸を張る。

「ふふん! あたしに任せなさいな! ついに、あたしの魔導二輪車――『キャブ』の性能と、磨き上げた運転技術を見せつける時が来たようね!」

彼女は、何段にも重ねたお盆を、まるでシャンパンタワーのように山と積み上げ、それを片方の肩に担ぎ上げた。そして、生まれたての小鹿のような、しかし確かな足取りで歩き出す。

どうやら、……本気だ。

彼女はあの魔導小型二輪車に跨り、この丼の山を担いだまま現場まで疾走するつもりなのだ。

その異様な、しかしどこか見覚えのある姿に、ラルフは強烈な既視感を覚えた。

前世の記憶。

あの、駅前の、"青い看板の立ち食いそばチェーン店"。その店内に飾られていた、一枚のモノクロ写真。

自転車の傍らで、信じられないほどのせいろの山を肩に担いで微笑む、あの伝説的な創業者の在りし日の姿……。

しばし感慨に浸り、目頭を熱くするラルフだったが、すぐに冷徹な現実を思い出した。

「おーいエリカ。すまん……全部、『マジックバッグ』に収納して運ぶから……」

ピタリ、とエリカの動きが止まる。

彼女は数秒の沈黙の後、慎重に、壊れ物を扱うような手つきで踵を返すと、再び慎重に、慎重にカウンターへと戻ってきた。

「……まあ、その方が、安全よね……」

小声で呟く彼女の頬が少し赤いのは、きっと厨房の熱気のせいだろう。

「……む、むう……! ああぁ! もう! マスター、この匂いは反則だ! 私は夜まで待てない! 一口、せめてカツの端くれだけでも!」

騎士としての矜持を、食欲という名の獣に食い荒らされたミラが、切実に叫ぶ。

甘辛いタレが衣に染み込み、熱々の白米と出会った瞬間に立ち上る芳醇な香りは、腹ペコの女騎士にとって、どんな禁呪よりも残酷な誘惑であった。

「わかった、……わかったから。これが終わったら全員分作る。だから今は手を動かしてくれ」

「いぇーい!」

「私はカツ五枚載せでお願いしまーす!」

領主館に集いし、日雇いの作業員たちが歓喜の声を上げ、現場の士気は最高潮に達する。

しかし、ラルフもまた、この場を満たす香りに、前世への深い郷愁を抱かずにはいられなかった。

――タレカツ丼。

それは、ラルフの前世において、新潟県民がソウルフードとして愛してやまない至高の逸品。

だが、日本という国には、卵とじではない「カツ丼」の宇宙が、地域ごとに無限に広がっていた。

埼玉県秩父の、丼からはみ出す巨大な『わらじカツ丼』。

群馬県下仁田の、醤油ベースのタレが染み渡る『下仁田かつ丼』。

岩手県一関に伝わる、独特の酸味が食欲をそそる『あんかけカツ丼』。

さらに、「ソースカツ丼」という名の下でも、群馬、福井、長野といった各地で、ソースの濃度、キャベツの有無、肉の厚みなど、独自の進化を遂げた食文化が覇を競っていた。

更には、

名古屋の誇る『味噌カツ丼』。

岡山で愛される漆黒の『デミカツ丼』。

そして新潟の離島・佐渡が生んだ、海の恵み『ブリカツ丼』……。

そこには、単なる「料理」の枠を超えた、その土地に生きる人々の連綿とした営みと、意地と、愛が詰まっていた。

今は遠き、――異世界の食文化。

けれど、ラルフの手元には、あの頃と同じ、鼻腔をくすぐる甘辛い醤油の香りがある。

失われたものを懐かしむ寂しさはあっても、自らの手でこの世界に新たな「美味」の歴史を刻んでいく高揚感は、何物にも代えがたい。

(……まあ、めちゃくちゃ、面倒くせーんだけどな!)

しかし、ラルフは、パンパン! と手を叩くと、

「はいよ! ラストスパートだ! 建築現場の連中を、驚かせてやろうぜ!」

「「「おー!!」」」

この場に、奇妙で力強い連帯感が生まれる。

ひとまず、あの汗水垂らして働く職人たちの、驚きと歓喜に満ちた顔が見られれば、それで十分だ。

……しかし、この時。ラルフはまだ知らない。

この「領主自らの出前」が瞬く間に噂となり、後日、ドワーフの道具屋街、水上都市の漁民たち、果ては郊外の大規模農園から、

「"居酒屋領主館に、出前メシの大量発注ができると聞いたのですが?"」

という問い合わせが、殺到することになることを。

――数日後。

領主執務室で山のような注文書を前に、ラルフは頭を抱え、青い顔で震えていた。

(また……、僕は、やりすぎちまったのか……?!)

彼の「良かれと思って」は、またしてもロートシュタインに新たな経済的動乱と、ラルフ自身の激務を巻き起こそうとしていたのである。