軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

365.ロートシュタインからの手紙

王国と聖教国の境界線上に位置する要衝、エストルンド。

そこには今、時代が動く凄まじいまでの地響きが鳴り響いていた。

ほんの少し前まで、ここは潮風に洗われるだけの、うらぶれた漁村に過ぎなかったはずだ。しかし、新たに建造された長大な桟橋には、腹を膨らませた商船が次々と横付けされ、異国の香りを孕んだ積み荷が絶え間なく吐き出されていく。浜辺に広がるマーケットには、聖教国の巡礼者から東大陸の豪商までが入り乱れ、未知の言語と熱狂が、かつての静寂を塗り潰していた。

そんな喧騒の端、波打ち際でひとり、ティナは破れた網を繕っていた。

彼女の瞳は、目の前の活気を見つめているようでいて、その実、どこか遠い空を彷徨っている。

村長が着手した新築宿の建設現場からは、大工たちの威勢の良い掛け声と、材木を引き上げる奴隷たちの荒い息遣いが風に乗って届く。だが、そのどれもがティナの心に届くことはない。

彼女の胸の真ん中には、ぽっかりと不自然な空洞があいていた。

埋めようのない喪失感に急かされるように、彼女は網を置くと、ふらりと歩き出した。

向かった先は、村の外れに佇む「ラルフの酒場」。

主を失った石造りの建物は、周囲の急発展から取り残されたように、静かに佇んでいる。ドアに掛かった「closed」の木札が、湿った海風に吹かれてカタカタと虚しく乾いた音を立てていた。

「……もう、誰もいないって、わかってるのに」

自嘲気味に呟きながらも、足は毎日ここへ向いてしまう。

扉の前に立つたび、あの日、風のように去っていった「ラルフ」という名の、底の知れない男の背中が脳裏をよぎる。

ふと視線を落とすと、店の脇に一台の魔導車が駐められていた。

無骨ながらも洗練されたフォルムを持つ、三輪の特殊な車両。それは以前、この村を訪れた運び屋の女性――確かマーサと言ったか――が駆っていた鉄の愛馬によく似ていた。

その時、遠くから野太い重低音が響いてきた。

ティナが振り返ると、巻き上がる砂塵の向こうから、まさに今思い浮かべたマーサ本人が魔導二輪車を走らせてくるのが見えた。

彼女は迷いのない直線を描き、この閉ざされた酒場へと真っ向から突き進んでくる。ティナがわずかに身構えた瞬間、マーサは鮮やかなブレーキングで彼女の目の前に停止した。

フルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てると、汗に濡れた短い髪が躍る。

「……ティナさん。久しぶりね。私のことを覚えてる?」

「えっ、あ……は、はい。えっと、確か、マーサさん。ですよね?」

不意に名を呼ばれ、ティナは戸惑いながらも頷いた。

「よかった。これ、ラルフ・ドーソン公爵さまから、貴女へのお届け物よ」

差し出されたのは、重厚な紙質の封書だった。

「ラルフ……、こうしゃく……?」

呆然とした声が漏れる。

彼がどこか高貴な出だという噂は耳にしていたが、それは村人たちの根も葉もない空想だと思っていた。それがまさか、真実だったとは。

「それにしても、それ……最新型じゃない!」

マーサが、店の脇に駐められていた三輪魔導車を指差して、羨望の混じった溜息をついた。

「え? これ、ですか?」

「そうよ。ジョン・ポール商会が放つ最新三輪バギー、通称『トライセル』。今は納車半年待ちなんてザラな代物よ。よく手に入れられたわね」

驚くティナを置き去りにしたまま、マーサは「確かに渡したわよ」と告げると、再びエンジンを咆哮させた。彼女の去った後には、長く伸びる道と、立ち込める砂埃だけが残された。

ティナは手の中の封筒を裏返した。

そこには、威厳に満ちた深紅の蝋封と、乱暴だが迷いのない筆致で書かれた『ラルフ・ドーソン』の署名。

震える指で封を切ると、中から数枚の書類が滑り落ちた。

「……お店と、土地の、権利書?」

掠れた声で呟く。さらに、もう一枚。

それは彼からの手紙だった。

心臓が早鐘を打ち、全身の血の巡りが速くなるのを感じる。

周囲の喧騒も、絶え間ない波の音も、今はすべてが遠い世界の出来事のように思えた。

彼女は祈るような心地で、その文字列を追う。

『やあ。挨拶もなしにいなくなって済まない。……おそらく君がこれを読んでいる頃、……僕はもうこの世にいないだろう……』

「……っ!? はぁ!?」

ティナの顔から血の気が引いた、その直後。

『――なーんてね! 嘘でーす。一度こういう深刻な書き出しをしてみたかっただけなんだ〜』

「嘘かよっ!!」

絶望から一転、ティナは思わず地面を蹴りそうな勢いで手紙にツッコミを入れていた。

『その店だが、ティナに譲ることにした。迷惑なら売って金にしてもいい。もし継いでくれるなら……まあ、適当にやってくれ。実は改装費用はヴラドさんが出してくれたんだ。君の刺身定食をえらく気に入っていたからね。まあ、国王様からの勤勉な王国民の君への、ご褒美だと思って受け取ってくれ』

「ヴラドさん……? 国王……!? あの、酔っ払いの隠居じいさんみたいな人が!?」

次々と明かされる荒唐無稽な事実に、今度は別の意味で手が震え始めた。

『ああ、それと外にあるのは魔導三輪バギーのプロトタイプだ。もし気が向いて、いつかロートシュタインに来ることがあれば、乗り心地でも聞かせてくれ。モニター代わりの無料提供だ。リアカーを付ければ仕入れも楽だろうしね。……ああ、そうそう。店の名前も好きに変えていい。僕がいないのに、「ラルフの酒場」じゃあおかしいしね、「ティナの酒場」の方が収まりが良さそうだね! じゃあ、そんな感じで。またね〜』

貴族の品格など微塵も感じさせない、あまりにフランクで、あまりに彼らしい言葉。

封筒の底には、一本の真鍮製の鍵が収められていた。

ティナは、その鍵を震える手で差し込み、酒場の重厚な戸を開いた。

主を失い、埃に埋もれた荒れた店内を想像していた彼女は、その光景に言葉を失った。

そこにあったのは、見違えるような、一級品の家具が並ぶ空間だった。

鈍い光を放つ高級な椅子とテーブル。

整然とボトルが並ぶ硝子張りのワインセラー。

壁では精巧な大時計が、確かなリズムで時を刻んでいる。

カウンターの隅には、どこかユーモラスな木彫りのミミズク像が置かれていた。

厨房に目を向ければ、そこは料理人なら誰もが憧れる聖域へと変貌していた。

鈍い銀色を放つ包丁や鍋は、どれも超一級の職人による手仕事。

最新式の大型保冷庫を開けると、そこには今夜からでも営業ができるほどの、瑞々しい野菜や鮮魚が詰め込まれていた。

ふと、壁に貼られた王国の地図が目に留まった。

ティナは吸い寄せられるように歩み寄り、人差し指を伸ばす。

今、自分がいる「エストルンド」の小さな点を見つけ、そこからゆっくりと、地図上の道をなぞり始めた。

あの男が、ラルフが去っていった、遥かなる北への道。

指先を滑らせ、やがてその指は、「ロートシュタイン」の上で止まった。

遠いようでいて、同じ地続きの、決して届かない場所ではない。

再び、指をエストルンドへと戻す。

地図の上に描かれた、たった一本の道。

それを思うだけで、ティナの胸には、見たこともない広大な世界が広がっていくような感覚がした。

頬を撫でる、自由な海風のように、

彼は去っていった。

貴族という重い枷を背負いながらも、誰よりも自由を愛した男。

まだ幼さの残るティナにとって、彼こそが、停滞していた人生に吹き込んだ「海風」そのものだった。

人生という名の海原へ向けて帆を張るように、優しく、そして力強く、彼女の背を押してくれた。そんな気がした。

その時。

――チリン、チリンッ。

軽やかなドアベルの音が、静寂を破った。

ティナが弾かれたように振り返ると、そこには旅装束に身を包んだ、聖教国からの巡礼者の一団が立っていた。

「やあ……すまない、まだ開店時間には早かったかな?」

ティナは一瞬だけ呆気に取られたが、すぐにその顔に、凛とした微笑を浮かべた。

彼女はカウンターに置かれていた真新しいエプロンを手に取り、その紐を、決意を込めてギュッと腰に巻きつけた。

「いいえ、ちょうど今、開けようと思ったところです!」

彼女の声は、かつての迷いを振り払うように明るく響く。

「いらっしゃいませ! 『ラルフの酒場』へ、ようこそ!」