軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

303.大きな樹の上で

「は、はやっ! 速い、速すぎるッ!!!」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

夜の 帳(とばり) が下りた、濃紺の宵闇の空。

冷たい風が容赦なく肌を刺し、分厚い雲すら切り裂いて滑空するワイバーンの背の上で、二人の聖女の悲鳴が木霊した。それは、金銭欲すら吹き飛ばしかねない、純粋な恐怖の絶叫だった。

「キャッハッハッハッハ! すごーい! 楽しいっ!!」

背後の二人の極限の恐怖など、まるで別の世界の出来事のように。ラルフの愛しきペット、巨大ワイバーン、"レッドフォード"を自在に操るのは、まさかのデューセンバーグ伯爵夫人、リネア・デューセンバーグその人だった。

彼女は、水上都市に住まう共和国移民の仕立て屋謹製の、洒落たフライトスーツに身を包み、目元にはドワーフの職人によるオーダーメイドの防風ゴーグルを装着している。

風を切り、長い金髪をなびかせながら、夜空を駆けるその姿は、一見すると貴婦人とは思えない、歴戦の竜騎兵のようにも見えた。

その全身から溢れるバイタリティは、夜の闇すら凌駕するかのようだ。

「リ、り、リネアさん! もっと高度を、落としていただけませんか?!」

寒さと、もはやアクロバットと呼ぶべき飛行の恐怖で、聖女トーヴァ・レイヨンの声は上擦り、震えていた。

「そ、そ、そ、そうですわ! もっと、安全な……飛行で、お願い、します?!」

腹違いの妹である聖女マルシャ・ヴァールも、奥歯を鳴らしながら、リネアの貴族のご婦人としてはあり得ないほどの、野性的なスキルと、謎の喜びに満ちた行動力に、心底から驚愕し、そしてドン引きしていた。

しかし、強風が耳元を猛烈な勢いで過ぎ去るリネアに、彼女たちの懇願の言葉は輪郭を失い、断片的な音として伝わるのみ。

それは、おおよそ聖女二人の願いとは正反対の、勘違いにも等しい間違った意図を、リネアに伝えてしまう。

「えっ? なに? もっと、速く、ですって? ……そうですわね! 帰りが遅いと、皆様心配なさるでしょうし。……さあ、行きますわよ! レッドフォード様!」

その「熱烈な要望」を汲み取った真紅の巨躯のワイバーンは、獰猛に目を光らせた。

まさに、人竜一体。リネアの狂気じみた高揚感に応えるように、堅牢な翼を更に大きく広げ、風を掴み、更に速度を増した。吹きすさぶ風は、もはやこの世の終わりを思わせる程の暴風と化し、二人の聖女の細い身体を、容赦なく叩きつけた。

「ギャぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

聖女二人の、もはや断末魔とも言える叫びは、風の轟音に完全に掻き消えた。

「キャハッハッハッハ!! あー、凄い!! 魔導車もいいけれど! これは病みつきになりそうですわね!!!」

狂気の笑いを上げるリネア・デューセンバーグの声だけが、冬の冷たい夜空に、遠くまで響き渡っていた。

その夜間飛行は、結果的に、王国と聖教国の往復最速記録を樹立したのだが、その事実は、当事者である聖女たちにとっては、口を開きたくもない「悪夢の記録」として、ひっそりと闇に葬られることになった。

しばらくして、王国。ロートシュタイン領、居酒屋領主館の客席にて――。

「ワイバーンも欲しい!!!」

カウンター席に座るリネアは、まだ幼い娘のように、その素直すぎる欲望を叫んだ。

「えっ。ええっ、……まあ、レッドフォードはウチの子なので、差し上げられませんが。共和国には、伝統的に竜騎兵が存在します。彼らに相談してみますか?」

カウンターの中で包丁を手に調理をしていた領主、ラルフ・ドーソンは、その突飛な要望に戸惑いながら応えた。

「是非、お願いします!!」

リネアは無邪気に、巨大な海老フライを咀嚼しながら、満面の笑みを浮かべた。

その隣では、聖女二人が、疲れとトラウマからゲッソリとしており、近くのテーブル席にいたリネアの夫は、なんだか冷や汗を流している。

このロートシュタイン領に関わってから、娘のエリカも、そして妻のリネアも、まるで何かに「覚醒」したかのように、新たな生き様に燃えているかのようだ。

彼女は、この夜も、お気に入りのハチミツ梅酒と、新たな美食である「本日のサービスメニュー」エビフライとタルタルソースに悶絶し、その興奮のまま、娘のエリカと涙を流しながらグルグルと回転して踊るという、わけのわからない一幕を挟んだ。

そして今夜も、いつからか意気投合し、身分や立場を超えた「気の置けない飲み仲間」という間柄になった、偉大なるエルフ、ユロゥウェルの住処——領主館の裏にそびえる、リグドラシルのツリーハウスにお邪魔した。

「あれっ? なんですか、これ?」

ユロウゥウェルの住処の床、一室に見慣れないものが置かれているのに気が付いた。

「ふむ、これは『コタツ』とかいうものでな。ラルフが、また妙なモノを発明したのだ。しかし、これが、また……良きモノなのだ」

ユロゥウェルは、その「良きモノ」を慈しむように説明した。

すると、リネアの背後から、騒がしい声が聞こえてきた。

「ちょっと! お姉ちゃん、早く登ってよ!」

「あ、も、もう、無理……。高いとこ、もう、無理……」

聖女二人は、長い梯子を登りながら、いつものように平和な姉妹喧嘩を繰り広げている。

どうやら、今夜はこの不思議な空間に、二人の聖女も泊まるようだ。

やっとこさっとこ、梯子を登りきった二人は、酔いと、聖教国との往復フライトの尋常ではない疲労もあってか、まるでアンデッドのように、這いずりながら、コタツの温もりに吸い寄せられた。

そして。リネアも彼女たちを真似て、床に直接座り、そのコタツの、温かい闇の中に脚を入れてみる。すると、

「えっ?! 中に、何か……。あらあら……アナタ、いたのね?」

足先にグニャリとした柔らかな感触を感じ、布団をめくり上げてみれば、いつものあの子狼が。なんだか迷惑そうな、あるいは諦めたような目で、こちらを見ていた。

「その子は、リネア殿が引き取るのか?」

と、ユロゥウェルが問いかけてくる。

「そうですねー。このロートシュタインの別荘で、飼うことになると思いますよ」

リネアは、愛おしそうに、その小さな狼を抱きかかえた。

娘のエリカから、「兄弟達と離れ離れにさせるのは、かわいそうだから……」と、純粋な眼差しで訴えられ、ならば、このロートシュタインに建築中の、デューセンバーグ家の別邸でこの子を世話しようと、計画は着々と進んでいた。

「お姉ちゃん、みかん、食べる?」

「あー。マルシャさんやー、かたじけないねぇ〜」

聖女二人は、コタツの温もりに溶け込み、そこではもはや聖女といった堅苦しさもなく、ただの仲良しの姉妹として、のんびりとしたやり取りを繰り広げている。

「さ、飲み足りなければ、これがあるぞ!」

エルフのユロゥウェルが、コタツの、上に、ドンッ! と、ボトルを置いた。それは、ラルフが「バーボンに似た酒」と評する、聖女達が蒸留魔法によって精製した酒で仕込んだ、極上の"梅酒"だった。

「お湯割りで飲みたいすね〜」

と、トーヴァ。

「干し芋もありますよ! ちょっと炙った方が美味しいのですが……」

と、マルシャ。

しかし、この四人。

誰もコタツから出たくない。

魅惑的でいて、蠱惑的で、極めて怠惰な温もりから、誰も動けなくなっていた。

もしかしたら、なんらかの魔力が働いているのかもしれない。あの、大魔導士ラルフが発明したモノなら、あり得なくはない。四人はそう納得し、湯を沸かすのも、干し芋を炙る火を熾すのも、静かに諦めた。

そして四人は、冷たい梅酒で、恭しい女だけのお喋りに興じる。

「あの、エビフライ。また、ヤバかったねー」

と、トーヴァは、海老料理の背徳的な美味しさを思い出す。

「ハンバーグとの相性も、凄かったわよ」

と、マルシャは、海鮮と肉料理とデミグラスソースとの相性の可能性を語る。

「あのタルタルソース? あれはズルいですわ!」

と、リネアは、その天才的なソースへの敗北感を認めた。

「聞けば、それほど難しい材料を必要としないようだが……。二万年生きてきた妾でも、はじめて知ったぞ……」

と、ユロゥウェルは、人族の料理という文化の奥深さに感嘆する。

あの若き領主が治める、このロートシュタイン領は、まさに、この――コタツだ。

"人々を、捕らえて放さない"、そんな"魔力"を秘めている。

この領地で、この居酒屋領主館で知り合った、国も身分も超越した、女四人の、飲み仲間の第二幕は、静かに、そして華やかに、夜を更かしていくのだった。