軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

288.ブリっ!

聖教国での連合議会を終え、ウラデュウス国王が帰路につく航路は、荒々しい海の試練の中にあった。

聖都の運河からロートシュタインが誇る堅牢な船、"ウル・ヨルン号"に乗り込み、彼の王国を目指して船出したのが、二日前のこと。

まだ日が天頂に近しい昼時、穏やかだった海は突然牙を剥き、巨大なうねりを上げて船体を揺さぶり始めた。

しかし、その激しい揺れの中、国王の姿は常軌を逸していた。

「ウッハッハッハッハッハッ! まさに、入れ食いではないかぁ!!!」

白波を全身に浴びながら、ウラデュウスはまるで戦場の狂戦士のような、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。その剛腕に握られた、ぶっとい釣竿は、針にかかった獲物の抵抗を受けて、悲鳴を上げるように大きく弧を描いている。

「へ、陛下ァァァ! お気をつけ……うわぶっ!!」

宰相や家臣たちは、自らが仕える王の身を案じ、必死に手を伸ばそうとするが、激しいピッチングとローリング、そして船上に容赦なく打ち付ける冷たい潮水に、彼らは思うように船床を踏みしめることすら叶わない。嘔吐を堪えるのに精一杯だ。

「この機を逃すわけにはいかん! 釣れるだけ釣るぞぉ!!」

一国の王は、荒れ狂う波の上で、漁師の如く、いや、むしろ歴戦の勇士が如く、戦のような釣りに興じていた。

翌日。

「ブリかぁ……。良いねぇ」

居酒屋領主館の店主、ラルフ・ドーソンは、持ち込まれた大漁の鰤を前に、静かに、しかし確かな満足を込めて頷いた。それは、冷たい海が育んだ、まさに旬の至宝。

開店前の静寂を破り、国王ウラデュウスはその特権階級パワーを存分に行使し、すでにカウンター席で米酒をちびちびと舐めている。

その表情は、大戦に勝利したかのような得意満面さ。

その背後、テーブル席を囲み、船酔いで顔色を失い、見る影もなくゲッソリとやつれた宰相や家臣たちとは、まさに対照的だ。

「念の為にと、竿を持って行ってよかったわい……」

国王は、小皿の青豆をひょいと口に運び、再び温かなお猪口を傾ける。

「何が念の為だ?」

ラルフは、調理台に整然と並ぶ、氷に覆われた見事な鰤を指差し、呆れたように問うた。

「わざわざ船を手配して、むしろ、外交は二の次で、これが主目的だったのでは?」

一国の王と、公爵領主兼居酒屋店主という関係性としては、あまりにも砕けた、親しすぎるやり取り。だが、彼らの間柄は常にこのようなものだ。

痛いところを突かれた国王は、居心地悪そうに、少しばかり恥ずかしげに目を逸らした。

「はい。酔い止めポーションと青汁のミックスジュースよ」

厨房から現れたエリカが、船酔いで死人のような顔をしている人々のテーブルに、特製の回復ドリンクを配っていく。

「かたじけない……」

宰相は震える手でそれを手に取り、命の水とばかりに啜った。

「背脂スパイスカレーあるけど、貴方達、食べる?」

エリカが、この日のオススメメニューを無邪気に提案する。

「うぶっ!!!」

その強烈な料理の名を聞いた途端、宰相は慌てて口元を押さえた。船酔いで胃の中を出し尽くした後だというのに、あまりにも暴力的な響きを持つ料理の名に、また胃袋が内側から捩じり上げられるような感覚が湧き上がってしまったのだ。

そんなやり取りを横目に見て、ラルフは一つ深い溜息をついた。

そして、再び見事な食材である鰤に向き直る。

「刺身、照り焼き、ぶり大根、しゃぶしゃぶ……。にぎり寿司も良いなぁ」

ラルフの脳裏には、旬の鰤を最大限に活かす、和のレシピの数々が鮮やかに展開する。それを聞いた国王は、「ゴクリっ……」と生唾を飲み込む音が、カウンター席に響いた。

その時、店の外から、微かな、しかし興奮に満ちた囁きが聞こえてきた。

「テリヤキっ! おい、聞いたか、テリヤキだってよ!」

「それより、しゃぶしゃぶってなんだ? まだ新しい料理を隠し持ってるのか、あの領主様は?!」

どうやら、開店を待ちわびる人々――いつもの冒険者たちや、聖教国の神官たちが、こっそりと店内を窺っていたらしい。

国王や従者達が、"ただならぬ美味そうなモノ"をこの店に運び込んでいる姿を見た誰かがいて、その噂がロートシュタイン領を風のように駆け巡ったのだろう。

このような、美食を巡る騒動は、居酒屋領主館では日常茶飯事だ。

そこで、ラルフに悪戯心がふつふつと湧き上がった。

「鰤の漬け丼なんかもいいなぁ!」

ラルフは、わざと店の外にまで届くような声量で独り言を言うと、

「ドンブリっ!!」

という、麗しいが強欲さを秘めた声がすぐに返ってきた。間違いなく、あの腹ペコ女騎士、ミラだろう。

「う〜ん……。辛いモノ好きな人向けに、鰤のキムチ鍋や、南蛮漬けなんかもいいかなぁ〜」

さらに、追い打ちをかけるように、思いついた料理名を口にする。

すると、

「キムチ?! ナンバンっ?! なんなのだ?! なんなのだそれは?! おのれぇ、ラルフ・ドーソン……。いったい、どれほどに私を堕落させれば気が済むのだぁ!!」

未知の、そして魅惑的な辛味料理の名に、なんだかパニックのような、苦悶にも似た声が聞こえてきた。これもまた、比較的新しいの常連客の一人、聖教魔導士のオルティ・イルに違いあるまい。

ラルフは、ふっと薄く微笑んだ。

そして、調理台を離れ、従業員たちに声をかける。

「エリカ。アンナ……。今日は、早めに開店しようか」

まだ日は高くとも、集まる熱気に抗う術はない。ラルフは壁に立て掛けられていた暖簾を手に取った。

すると、外ではすぐさま堰を切ったように喧騒が始まった。

「おおっ! 聞こえたか?! さすがは領主さまだぜぇ!」

「ふぉー! ビールっ! ハイボールっ!!」

また騒がしくも、相も変わらぬ夜の始まりの気配に、ラルフはうんざりしたような表情を浮かべる。しかし、その背中を見つめる従業員たちの視線には、僅かな諦念と、客たちの喜ぶ顔を想像した薄い笑みがこぼれていた。