軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

277.夢幻と祝福

ロートシュタインの郊外に、眼にも鮮やかなエメラルド色の草原がどこまでも広がっていた。

吹き抜ける柔らかな風が、ラルフとアンナ、二人の髪を絹糸のように優しく揺らす。

天空は透き通るような青。その明鏡には、薄く、 天鵞絨(ビロード) のようにたなびく白雲が静謐な絵画を描いていた。

彼らは、ただ歩く。

ラルフは一歩前を、アンナはその背中を追うように、静かに。

「……いつも、面倒ばかりかけて、すまんねぇ」

唐突に、ラルフはアンナを振り返らず、その言葉を放った。

「いいえ。……それが、私の務めですから……」

アンナの返答は、感情を抑えた、いつもの無機質な響きだ。

「アンナはさぁ、なんで、僕についてきてくれたの?」

その問いに、

そういえば、何故だろう?

思考の糸は千切れ、言葉は喉の奥で形を成せない。

そして、彼女は悟る。

(ああ……。そうか、これは夢。夢の中の不確かさならば、仕方がない……)

アンナは、そう静かに納得した。

瞬く間に、景色は変転する。そこは、水上都市の岸辺。

湖の向こうには、巨大な離宮が王族の威厳を湛えて浮かんでいる。だが、この場所には、生者の気配がない。打ち捨てられたように湖面に佇む家々、岸に朽ちて打ち上げられた小舟。静けさが、湖面を滑る風にさえぎられることなく深く流れてゆく。

「後悔、したことない?」

ラルフが初めて振り返る。

いつもの、不敵で快活な笑み。だが、その瞳の奥には、微かな不安が水彩の染みのようにじんわりと滲んでいるのを、アンナは見逃さなかった。

「……後悔……。そうですねぇ……。している気もしますし、していない気もします」

曖昧すぎる回答だとわかっている。しかし、これが今のアンナの心の内にある、嘘偽りのない本音だった。

「してる、気もするんだ……」

ラルフは落胆を隠さず、その肩を重そうに落とした。

またしても、景色は幻のように変わる。

ここは、ロートシュタインの沖合に浮かぶ、荒々しい岩島。ゴツゴツとした岩場、海鳥の寂しい鳴き声、砕け散る白波が、大自然の厳しさを映し出す。

「……じゃあ、僕が勝手に居酒屋をはじめたことは?」

ラルフの核心を突く問いが、再び。

居酒屋?

それは、なんだっけ?

いや、それを、アンナは知っている。

しかし、記憶の糸を紡ぐ思考は、なおも覚束ない。

「旦那様のすることに、異論を挟むことはしませんよ……だって、私は……」

――旦那様のメイドだから。

ピキリッ!

と、目に見えない亀裂が景色に走る。

そうだ。自分は、アンナは、ラルフ・ドーソン公爵の妻などではない。

自分は、彼のメイドなのだ。

あの日、まだ幼い、十歳にも満たないラルフと初めて出会った、その日から。

ピシッ! ピシッ!

と、周囲の夢幻の景色が、ガラス細工のようにひび割れ始める。

やがて、二人は、いつの間にか、領主館の前庭に戻ってきていた。

「いつも、ありがとうね! アンナ……」

満面の笑みのラルフ・ドーソン。その顔は、日の光のように明るい。

アンナは目を見開いた。

そういえば、面と向かって、彼にこんなふうに感謝を伝えられたことがあっただろうか……。

酔っ払い過ぎたラルフの世話を焼き。

わけのわからない魔導具の散乱を片付け。

突如としてヘンテコな思い付きを言い出し、それに振り回され。

そんなことばかりの、日々。

(あれ? なんだっけ……この記憶は?)

しかし、アンナは、稀に見る穏やかさをもって応える。

「どういたしまして……。私は、有能なメイドなので」

珍しく、アンナは微笑んだ。それは少し恥ずかしそうに、そして、キレイに……。ほんのわずか、涙が溢れそうになったのは、彼には言えない秘密だ。

「そうだね! ……じゃあ、これからも、僕についてきてくれますか?」

それは、まるでプロポーズのような言葉。

しかし、彼は公爵。アンナとは身分が違う。これこそが、夢の中の出来事なのだ。

そして、彼女は心からの言葉を口にする。

「はい……。いつまででも……」

強風が吹き、雲が急速に流れ、強い日の光が一筋の祝福のように降り注ぐ。

「じゃあ、アンナ帰ろうよ……」

ラルフは、未来へ誘うように、手を差し伸べる。

「帰る? ここが、この領主館が、私達の帰る場所では?」

と、アンナは訝しげに聞き返す。

「ふふふふっ、違うだろ? 思い出せよ。僕らの、『居酒屋領主館』を!」

――居酒屋領主館。

刹那、周囲の景色が粉々に吹き飛んだ。

美しく淡い夢幻がガラスのように砕け落ち、アンナはハッと振り返る。

そこには、

夜の帳が降りた領主館。

冒険者や、貴族、エルフにドワーフにリザードマンまで、混沌とした常連たちが熱狂的な行列を成して、入店を待ち望んでいる。

芝生の上には、赤い巨躯のワイバーンが威風堂々と鎮座し、クレア王妃がじゃれ合う小狼たちを追いかけ回している。

窓の中、一階のホールには、人々の奏でる喧騒と心からの笑い声、乾杯の音頭が地鳴りのように響き渡り、カウンターの中に立つラルフは、修羅場と化したオーダーを捌きながら慌てふためき、破茶滅茶な客達の悪ふざけに頭を抱え、時には大声で厳しく注意したりと、息つく暇もない。

その騒乱の中心にいる自分、アンナは。

完璧な無表情を装いながらも、どうしようもない愛しき旦那様の姿を、心底呆れたフリをしつつ、堪えきれない笑みを噛み殺すのに必死だ。

とても、幸せそうに……。

その"現実"を目にしたアンナは。

愛しき旦那様に向き直り、決然と告げた。

「……旦那様……。一つ訂正します」

「なんだい?」

「……後悔など、まったくしていません」

その言葉を聞いたラルフは、ニカッと白い歯を見せ、光り輝くような笑顔を浮かべた。

まるで、初めて出会った時の、あの幼い少年のように。

悪戯っ子で、まるで暴風のように騒がしい、あの男の子……。

アンナは思う。この人は、これから、どんな世界を見せてくれるのだろう? と。

何もない、極めて平凡な暮らしも悪くはないだろう。

しかし、この人となら……。

大魔導士ラルフ・ドーソンとなら、彼が奔放に描き出す、予測不可能で突拍子もない、そして、極めて騒がしい毎日が繰り広げられるに違いない。

その、最も近く、ラルフの傍らに寄り添う権利を有するのは、自分だけだ。と、アンナは確信した。

「改めて、これからも、どうぞよろしくな!」

アンナの細い手を取るラルフ。

向かい合い、まるで神前の誓いのように、厳粛な瞬間が流れる。

「はい……。旦那様」

アンナは、少し俯き、静かに、しかし強い意志をもって返事をした。

夢が醒める。

世界は白く、純粋な光に塗り替えられてゆく。

その夢幻術の魔法から、二人の意識はゆっくりと、現実の現実世界へと浮かび上がっていった。