軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

265.夜の影と光

ヘストナ・ヴァールは、魔導車:ロードスターの助手席に身を沈めていた。

前方を照らす二筋のヘッドライトは、荒れ果てた夜の道をかろうじて捉えるのみ。光の届かぬ先は、すべて濃密な暗闇に塗りつぶされている。

サイドウィンドウに目をやれば、漆黒の森のシルエットが、音もなく、ただひたすらに後方へと流れていく。まるで、この世界から切り離されたかのような孤絶した光景だった。

「不安かい?」

運転席でハンドルを握る男、ジョン・ポールが、口元だけで弧を描き、尋ねた。彼の声は、排気音と風切り音にわずかに揺れながら、車内に響く。

「……私たちは、どこへ向かっているのですか?」

ヘストナの言葉には、いかなる感情の陰影も含まれていなかった。それは、ただ事態を整理しようとする、冷たい疑問符そのものだった。

「なあに。働き詰めの君に、私からの楽しい旅への招待だよ!」

ジョン・ポールは、その挑戦的な眼差しをちらりとヘストナに向け、ニヤリと歯を見せて笑った。その笑みには、底知れぬ企みが潜んでいるように見えた。

その瞬間、ヘストナは、まるで核心を突くように、しかしあくまで淡々と問いを発した。

「……私、殺されるのでしょうか?」

「クックック……面白いことを言うねぇ、お嬢ちゃん。お父様から聞いていないのかい? 君はしばらく休暇だよ。王国の、ロートシュタイン領に滞在してもらうことになったのだよ……」

その言葉を聞いても、ヘストナの表情は変わらない。彼女は再び、窓の外の闇に視線を戻した。

木々の濃い影の隙間から、時折、冷たい月の光が破片のように覗く。車は、まるでこの森の中心部へと誘い込まれるように、随分と奥深い道を走り続けている。

そして、彼女は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、静かに呟いた。

「私、……これまで、荘園から一歩も出たことがないのです」

ジョン・ポールは、肩をすくめた。

「そうか。ならば、記念すべき人生初の国外旅行じゃないか。存分に、外の世界を味わって来るといい」

「そう、ですね。でも……。やっぱり、少し……怖いかもしれません」

その、年相応の弱気で純粋な吐露に、ジョン・ポールは面白そうに片側の眉を吊り上げた。

「誰だって、未知の世界は怖いさ。だがね、お嬢ちゃん。この世には、面白いこと、心躍るような楽しいこと、そして魂を震わせる美味いものが、君の知らないまま山のようにあるのだ。世界は存外に広いぞ、若者よ。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし! ……ってね」

そう言って、彼は豪快に喉を鳴らして笑った。

「ジョンおじさんも、商人をはじめた時は、怖かったのですか?」

ヘストナは、嘘偽りのない、まっすぐな瞳で彼を見上げた。

「お……、おじさん、って……。ま、まあなぁ。自分の場合は……"なんとかなるだろう"って、ただひたすら猪突猛進でやってきたら、案外なんとかなってしまったのさ。……あまり参考にしない方がいい生き方だがな」

彼は魔導車の窓枠に軽く肘をつき、光が届かぬ遥か先の闇を見るかのように、遠い目をした。

ヘッドライトが切り裂く闇の先には、まだ、ただ荒れ地と森の境界線しか見えない。

その暗闇の先に、自分自身の未来の光景さえまだ見えないことが、ヘストナにとって、たまらなく恐ろしく、そして、ほんのわずかに――期待の混じった不安として、胸にのしかかっていた。

ロートシュタイン領の王族専用離宮、その重厚な木造建築の一室に、鬱蒼とした空気が満ちていた。湖面を滑り窓から吹き込む風も、どこか力を失っているようだ。

お気に入りのソファーに座す国王ウラデュウス・フォン・バランタインは、一国の君主とは思えぬほど重々しく、長いため息をついた。その息は、部屋の静寂をわずかに揺らす。

「で、ニコラウス。聖教国からの返答は、何と? なるべく簡潔に、要点だけを申してみよ」

問いかけられた宰相ニコラウスは、手にしていたの書簡から、疲労の色を隠せない瞳をゆっくりと上げた。

その表情には、二日間の不眠不休で原稿を絞り出した男の、極度の消耗が刻まれている。

「はっ……! 要約いたしますれば、陛下」

ニコラウスは深々と頭を下げ、重い事実を敢えて軽い口調で述べた。

「嫌だ、断る……とのこと。でございます……」

その瞬間、国王は、宰相の予想に反して案外あっけらかんと笑い飛ばした。

「まっ! そうなるわな!」

王は肘掛けに凭れ、肩を竦めてみせる。この反応は、国を統治する者として、相手が一度は強気の姿勢を見せるしかないことを、ウラデュウス自身が深く理解していたからに他ならない。

しかし、ニコラウスにとってはそうはいかなかった。彼は焦燥から頭を抱え、痛切な呻きを漏らす。

「ですが、陛下! これは王国、共和国、帝国の連名書簡ですよ……。まさか、このように完璧な論理と、人道的な大義をもって編み上げた外交文書が、こうも容易く一蹴されるとは……」

国王は、その宰相の狼狽を面白そうに見つめ、口端に笑みを浮かべた。

「ふんっ。まあ、いい経験になったではないか。……なかなかできることではないぞ! 三国間の連携をこの短期間でやってみせたのは、まさに偉業とも言える。……まあ、お前が頭を捻りに捻って、ポーションをがぶ飲みして絞り出した文章が、軽くあしらわれてしまったがな……」

国王の言う通り、今回の迅速な行動は、各国代表が居酒屋領主館に集結していたからこそ実現したものだ。通常ならば、三国が連携して共同の外交文書を作成するなど、途方もない時間を要するのが常識である。

ニコラウスが不眠不休、錬金薬学の天才アルフレッドの超回復ポーションの力をもって書き上げたその書簡は、あまりに精緻で、そして非の打ち所のない「平和的」な打診であった。

○三国連名書簡(骨子)

Ⅰ. 聖女制度の廃止:幼い少女の有限な生命を擦り減らす非人道的な習わしとして、現代的な人権意識に基づき、速やかな廃止を強く打診。

Ⅱ. 危機対策の現代化:聖女の力に依存せず、我が三国による冒険者ギルドの誘致・設立支援と、経済的・技術的支援による持続可能な安全保障体制への移行を提案。

Ⅲ. 開かれた外交通商:閉鎖的な体制を打破し、三国との物質的・文化的交流を深めることで、聖教国国民の生活の豊かさを実現。

Ⅳ. 不侵略の原則:本提言は聖女解放という人道的な一歩であり、教会の統治や信仰の自由など、貴国独自の在り方は全面的に尊重する。

「陛下……。もう私、隠居してよろしいでしょうか?」

宰相はついに、とんでもない弱音を吐いた。その声は、疲労の極致を物語っている。

「バカを言うな。まだ仕事が残っておるぞ……」

「はぁ……。これならば、いっそ普通の戦争の方がよっぽど楽ですよ。ラルフ・ドーソン公爵の企みに乗っていたら、過労死するのが先か、私の頭髪がすべて抜け落ちてしまうのが先か……」

ニコラウスは、ストレスによる薄毛を心底から憂慮した。この国家的重圧と、外交戦の繊細さこそが、彼の頭髪を蝕んでいる。

しかし、この薄毛の危機こそが、国王の関心を引いたようだ。ウラデュウスは身を乗り出した。

「むっ? お前、ジョン・ポール商会が扱っている、あの育毛ポーションを知らんのか?」

その言葉に、宰相は一瞬にして外交の重圧を忘れ、目を輝かせる。

「なんですって?! えっ! 何それ! 知らないんですけど!!」

遠く聖教国で進行している、周到に練られた経済的侵略の裏側で、王国の宰相を悩ませるストレスと、それに対する意外な解決策。実に平和的な、そして滑稽な夜が更けていくのであった。

夜の 帳(とばり) を切り裂き、魔導車:ロードスターの灯火が荒れた道を疾走する。

ジョン・ポールの視界に、ついに目的地――廃村の廃教会が、漆黒の闇からそのシルエットを浮かび上がらせた。

そこは、ロートシュタインの経済的尖兵たちが、聖教国の影で隠密に活動する、秘密の拠点。

今宵、ここで一夜を明かし、夜明けとともに聖女ヘストナ・ヴァールをレッドフォードの背に乗せて、ロートシュタインへと飛びたってもらう手筈だった。

しかし、目の前の景色。ハンドルを握るジョン・ポールの脳裏に、一つの異変が警鐘を鳴らす。

「ん? ……魔導車が一台も、見当たらないな」

廃村の中央、崩れかけた教会の前に魔導車を停車させる。

ヘッドライトの光が、蔦に覆われ、風雨に耐え抜いた石壁を、無数の影とともに照らし出した。

「ここで、降りるんですか?」

助手席から、不安げなヘストナの声が届く。

「ヘストナ。君は車の中にいなさい……」

いつもの如才ない笑みは消え失せ、彼の端正な顔立ちには、まるで鋼鉄のような真剣さが宿っていた。

ジョン・ポールは慎重に車外へ降り立つ。廃村特有の湿った冷気が肌を刺した。

教会の重厚な木製扉に手をかけ、押し開く。乾いた「ギギギぃ」という軋みが、静寂に包まれた夜の村に響き渡る。

作戦本部として使われていたはずの内部は、がらんどうだった。

テーブルはひっくり返され、膨大な量の書類が雪崩を打ったように床に散乱している。それはまるで、暴徒が押し入った後のような、凄惨な混乱の跡だった。

「チッ、大教会の襲撃か……」

ジョン・ポールは奥歯を噛み締めて呟く。

おそらく、ここにいたロートシュタインの工作員たちは、隠れ家の露見を悟り、予め策定していた作戦に従って、緊急の逃走を選んだのだろう。だが、この、ヘストナ・ヴァールの引き渡しを目前にした最悪のタイミングとは……。

彼は素早く心を切り替え、ロードスターへ引き返そうと歩み出した、その刹那――

ジョンは、自分と魔導車をグルリと取り囲む、無数の黒い影に気が付いてしまった。

「ふぅ……。なるほど、待ち伏せ、か。これは、まいったなぁ……」

彼は、まるで舞台の幕が開く前の役者のように、首元のネクタイをゆっくりと緩めた。

すると、暗闇の中から、一人の人物が静かに歩み出てくる。

「王国の商人、ジョン・ポールだな?」

その人物は、聖教国伝統の質素な神官服ではない。純白に、荘厳な紫を大胆に配色したローブを羽織っていた。それは、聖教国内でも特別な地位にある魔導士にのみ許される装束だ。

「なるほど……。教会も、どうやら、ただのバカではなかったようだ。想像以上に優れた諜報能力をお持ちで」

ジョン・ポールは、警戒心を隠さずに応じる。

「大人しく、聖女ヘストナ・ヴァールをこちらに引き渡せ。そうすれば、貴様の命だけは助けてやる」

簡潔にして、有無を言わせぬ命令。その紋切り型の台詞に、ジョン・ポールは思わず「ぶっ!」と噴き出して笑った。

「いやぁ、わかりやすい! わかりやすい台詞だぁ〜! 『大人しく引き渡せ、そうすれば命だけは助けてやる』だってぇ! いやぁ、まさか、こんなありきたりな台詞を、この人生で聞ける日が来るなんて! ちょっと、感動しちゃいますよぉ〜」

その軽薄ともとれる態度に、ローブの男の眉がピクリと動いた。

「《 聖呪封鎖(ホーリー・バインド) 》!」

教会の男は、詠唱もなしに聖魔法を発動させた。だが、その光がジョン・ポールに届く刹那。

「《 魔導障壁(プロテクション) 》」

恐るべき発動速度で、ジョン・ポールの右手に魔法の光が展開し、聖魔法の直撃を完璧に防いだ。

「おー、危ねえ、危ねえ。なるほど、教会にも、それなりの魔導士がいると……」

「貴様こそ、そこそこやるようだな、ジョン・ポール。……しかし、貴様は聖魔法を使うと聞いていたが?」

男の視線には、明らかな困惑が混じる。

「……聖魔法、"も"、使える、が正しいのでね……」

ジョン・ポールは、肩をすくめてみせる。

「なるほど……。やはり、異端か」

「偏ってますねぇ、その考え……。魔法なんて、色々使えた方が便利だと思いませんか?」

まるで物売りのような、軽やかな態度で宣う。しかし、その言葉の裏には、底知れぬ自信が垣間見えた。

「ほう? で……、そこそこ器用なだけの魔導士が、この人数を相手に、どうすると言うのだ?」

ジョン・ポールは、その人物への警戒を怠らず、チラリと周囲を見渡す。闇の中で微動だにしない影。二十人、いや、暗がりに予備戦力が潜んでいる可能性を考慮すれば、三十人から四十人ほどの聖教魔導士団か。

「うーん。……確かに、これは面倒臭い……。で、アンタが一番強い人かな?」

彼は先ほどのローブの人物に問いかけた。

「その通り。私は、聖教魔導士長、オルティ・イルだ」

その時、厚い雲が流れ去り、夜空に二つの月がその蒼白い光を地上へと注ぎ込んだ。

月明かりが照らし出したのは、意思の強そうな青い瞳と、短く不揃いに切られた、癖っ毛のシルエット。

男にしては高めの、少し掠れたハスキーな声だとは思っていたが――その人物は、紛れもなく、女性であった。

「あっらぁ。まさかの、レディだったか……」

ジョン・ポールは、一瞬、僅かに目を見開いた。

「それがどうした? 異教徒よ。女に討たれるのは、貴様の教義に反するとでも?」

オルティと名乗った聖教魔導士の手に、さらなる聖魔法の光が、激しく収束し始めていた。

周囲に展開する聖教魔導士たちも、一斉に聖句を唱え、一斉攻撃の準備に入る。

ジョン・ポールの頬を、冷たい汗が、一筋伝い落ちた。

「……これは、ちょっと、マズイか……」

その時、閉め切った魔導車の中から、ガラス越しにヘストナの悲痛な叫び声が響いた。

「ジョンおじさん!!!」

「ヘストナ! 来るな! そこにいろ!!」

ジョン・ポールは、両の掌に 魔素(マナ) を集中させる。

青白く淡い光が、闇夜の中に浮かび上がった。

そして、魔法が炸裂した。