軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

252.二人の聖女

エリカの母、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人は、散々「帰りたくない!」と駄々をこね、娘に縋りつきながらも、ついに王都へと帰路についた。その名残惜しさは、まるで後ろ髪をグイグイと引かれるようだった。

一晩をロートシュタインで過ごし、翌日の昼食、特製オムハヤシライスに再び涙を流して感激するという、感情豊かな一幕を挟み。

そして、商業ギルドでデューゼンバーグ伯爵家のための別荘建設予定地を仮予約し、この地を去っていった。その勢いは、いずれ王都ではなく、このロートシュタインに完全に住み着いてしまいそうなほどだった。

しかし、王族をはじめとする多くの貴族が、すでに王都とロートシュタインを行き来する二拠点生活を送っている。デューゼンバーグ家もまた、そう遠くない未来、その流れに加わることになるだろう。

リネアは、今度はエリカと一緒に、王都とロートシュタインの中間にある競馬場へ出かけようという約束をラルフと交わしていた。

ラルフは、エリカに続いて、その母であるリネアまでギャンブルに嵌るのではないかと、新たな懸念を抱くのだった。

そんな折、もう一人、この地を去らねばならない人物がいた。

「……こんなこと、貴女に言うのは、お門違いだとわかっているの。でも……でもね……。帰りたくない……」

聖女マルシャ・ヴァールが、腹違いの姉であるトーヴァ・レイヨンに、絞り出すようにそう語りかけた。

いつもなら、酔いに任せてマルシャを挑発し、煽り立てるトーヴァだが、まだ日も高い今は 素面(しらふ) だ。真剣な面持ちで、その言葉を聞き入っていた。

それは、いつもの尊大さや高潔さをまとった妹の声ではない。あまりにも弱々しく、今にも消え入りそうな、本音の響きだった。

おそらく、マルシャもまた、ロートシュタインの奔放な空気を全身で吸い込み、魅惑的な酒と、心を満たす料理をたらふく口にしてしまったのだろう。

そして、その充足を知ってしまったがゆえに、聖教国に戻り、大教会に籠もって祈りを捧げるという聖女の役目。その孤独。その先の閉塞的とも言える未来が、マルシャの心を今、まさに押し潰そうとしているのだ。

聖女になりたい。いや、ならなければいけない。

その使命感とも言える願いは、あっさりと叶ってしまった。

しかし、その先に待っていたのは、自分の人生をどう生きるか、どう死ぬか、という選択肢の消失だった。

「……でも、それは、貴女が願ったことでしょう?」

トーヴァは、それしか言うことができなかった。

領主館の庭園、秋空はどこまでも晴れ渡り、冷たくなった風が、二人の髪を静かに揺らしていた。

「そう……だから、これは、私のワガママだって、わかってるの……」

マルシャはそう呟き、深く俯いた。

「また来ればいいじゃない! 神託なんて、いくらでも偽装すればいいのよ! "ロートシュタインに赴けと女神様が言っている"とか言ってさ!」

トーヴァは、努めて明るい、冗談めかした声をかけた。

「ホントに、そんなこと、できるのかなぁ……」

マルシャは不安げに、トーヴァの顔を見上げる。

「大丈夫よ! 女神様はお優しいんだから。ちょっとくらい、目を瞑ってくれるわよ!」

すると、マルシャは、堰を切ったように、核心を突く言葉を零した。

「じゃあ、なんで? ……女神様がお優しいのなら、……なんで、私は命を擦り減らさなきゃいけないの?」

その孤独な問いかけに、トーヴァは目を見開いた。

つい先日まで、聖女だったのはトーヴァ・レイヨン自身だ。だからこそ、そのしきたりも、聖女の宿命も熟知している。聖教国を守護するために、聖魔法による加護と祝福を与えんとするための依代。それが、聖女という存在だ。

言い方を変えるなら、それは"生け贄"に他ならない。

「でも……。でもね……」

口を開こうとするが、トーヴァは何一つ言葉にできない。励ましも、慰めも、決して口にできるものではなかった。なぜなら、自分が、その聖女という役割を、この腹違いの妹に押し付けたも同然だからだ。

ふと気付くと、マルシャは、静かに、大粒の涙を溢れさせていた。そして、震える声で懇願する。

「助けて……。助けてよ……お姉ちゃん……」

その言葉に、トーヴァは堪らなくなり、力いっぱい、マルシャを抱きしめてしまった。

腕の中、マルシャはまるで幼子のようにしゃくり上げる。

これまで、ロートシュタインに来るまでは、まともに口を利いたことさえなかった。

マルシャはいつもトーヴァを侮蔑を込めて「平民」とか「お前」とかと呼んでいた。

しかし、確かに、同じ血を分けた姉妹なのだ。

いや、それ以上に、このロートシュタインでの短い間、二人は気の置けない、かけがえのない友人になれた。

一緒に酒を飲み、大騒ぎして、ドワーフ達と踊り、まるで馬鹿みたいに心底……、楽しかった。

トーヴァは、根拠のない、だが力強い言葉を、思わず口にした。

「大丈夫! 大丈夫よ! まっかせなさい!! お姉ちゃんがなんとか、してみせるわよ……」

抱きしめた、妹の小さな身体を、さらに強く抱きしめる。

だが、具体的な策はない。

聖教国のしきたり、聖魔法による加護、そして聖女という象徴の存在。

それらすべてを根本から、"ぶち壊す"必要がある。

敵は――、聖教国、そのもの。

あの国が何百年と受け継いできた、あまりに大きなしがらみと、その在り方を根底から覆す必要さえある。

普通なら、たった一人の小娘ごときに、どうこうできる話ではない。あまりに無謀だ。

しかし、ここには。

このロートシュタインには、そんな夢物語を、叶えてくれるかもしれない、そんな期待をしてしまう人物がいるのだ。

大魔導士ラルフ・ドーソン。

このロートシュタインを治める領主であり、そして居酒屋領主館のオーナー。

彼なら、なんとかしてしまうのでは……。この呪いのような聖女という呪縛を断ち切り、すべての解決策を見つけ出してくれるのでは?

トーヴァは、ふと領主館の二階を見上げた。執務室の窓。そこには、強い意志を込めた瞳をした、ラルフが静かに二人を見下ろしていた。