軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

249.娘と狼

リネア・デューゼンバーグは、魔導車が奏でる軽やかな振動と共に、そのハンドルを握りしめていた。

そう、このデューゼンバーグ伯爵夫人は、紛れもなく自らの意思で魔導車を駆っているのだ。

隣にいる夫、リック・デューゼンバーグ伯爵は、まるで幼い玩具を取り上げられた子供のように、哀愁を帯びた表情で助手席に沈んでいる。

魔導車は、ロートシュタインの領主、ラルフ・ドーソン公爵が発明して以来、燎原の火のごとく王国に普及した新時代の象徴である。

特に貴族階級においては、その高価さゆえのステータスシンボルとして、あるいは飽くなき道楽として、コレクションの対象となっていた。伯爵もまた、その熱狂的な愛好家の一人であった。

夫のこうした情熱を、リネアは貴族の妻として小言一つ言わず見守ってきた。しかし、ある日、……堪忍袋の緒が、切れた。

それは、最愛の娘、エリカまでもが魔導小型二輪車に跨り、自由奔放にロートシュタインと王都を行き来するようになってからのことだ。

エリカが久方ぶりに実家へ顔を見せにきた時のこと。

「競馬場のカツカレー、お父様食べたことないんですの? なかなかですよ!」

と、エリカは弾む声で言う。

「ほう? では、街道から一本それた村の。"カレーうどん"は知っているか? それはそれは、絶品でな!」

と、伯爵も負けじと応じる。

「ちょっとなにそれ?! どこよ?! あたしに黙って、どこの誰がやってるわけ?!!」

娘と父は、共通の話題、すなわち「乗り物で巡る美食の旅」について、それは楽しげに語り合った。

仲睦まじい親子の姿は喜ばしいはずなのに、リネアは、まるで自分だけが未知の冒険から締め出されたような疎外感を覚えた。

そして、帰り際。魔導小型二輪車に跨り、陽光をキラリと反射させるゴーグルを装着した勇ましい娘の姿に、リネアの胸に張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。

「では、お父様、お母様も……。また! ……カレーうどん……寄り道しても、日暮れまでにはロートシュタインに着けるわよね……」

魔導原動機のポッポッポという規則的な音を響かせ、エリカは颯爽と去っていった。

それは、まるで放たれた矢だ。自由に風を纏い、力強く成長した娘の姿。

リネアは、こみ上げる涙で滲む視界の中、決意を口にした。

「私も! 魔導車を運転したいです!!」

そして今、リネアは夫が別宅に隠し持っていた魔導車――美しい"ガブリオレ"のハンドルを握っている。

秋の色に染まり始めたロートシュタインの街道を、二人は走る。今夜は、娘エリカが働く居酒屋領主館での会食なのだ。

「のどかで、いい景色ですねぇ!」

リネアは、流れる景色へチラリと視線を送った。収穫を終えた広大な田園には、子どもたちが追いかけっこをしたり、空高くにカイトを浮かべたりしている姿が見えた。

「あ、ああ……。ま、前見て、走ろうな……」

リック伯爵は、気が気でない様子だ。自慢の愛車をぶつけられる恐怖と、妻の思いがけない行動力への戸惑いが入り混じっている。

ロートシュタインの街中に入ると、道行く荷車や魔導車の交通量も増える。リックが「運転を代わろう」と提案するも、リネアは「あら、必要ありませんわよ?」と、優雅にあしらった。

そのまま目抜き通りを抜け、目的地の居酒屋領主館に到着する。

正面の通りには、すでに数台の魔導車が駐車されており、デューゼンバーグ夫妻には縦列駐車の難関が待ち受けていた。

しかし、リネアは、その難関をまるでダンスを踊るかのように軽やかにこなしてしまう。

予想外にも、リネアは空間認識能力が高く、運転技術にも非凡な才能があったようだ……。リックは、冷や汗を拭うことしかできなかったが。

明け放たれた正門の中には、開店を待ちわびる客たちの長い行列が見えた。

冒険者や商人、更にはリザードマンやエルフ、ドワーフといった亜人族の姿まである。

さらに、どうにも見覚えのある、一人の初老の紳士。

ドワーフの職人たちと親しげに立ち話に興じている姿に、リネアの瞳が大きく見開かれた。

「えっ? あ、あの方、もしかして、国王陛下ではなくて?」

リネアは、思わず小声で夫に尋ねる。

「あ、ああ。ここでは、一応、お忍びだ。なので、"ヴラドおじさん"、という通り名でお呼びするように……」

――なるほど、確かに噂に聞いていた通りだ。

ここは、身分の差は関係のない、特別な場所。王都の御婦人方が集まるお茶会で耳にした、極上のお酒と未知の美食が味わえるという、そして――娘のエリカが働く場所。

その時、敷地の一角から、聞き馴染みのある、甲高い声が響いた。

「お母さん! ご飯よ〜」

紛れもなく、娘であるエリカの声だ。

しかし、エリカが自分を「お母さん」などと呼んだことがあっただろうか?

いつも貴族令嬢として「お母様」と呼ぶはずなのに、という違和感を覚えつつも、リネアは声のする方へ振り返った。

間違いない。エリカの姿。

だが、リネアの目は見開かれた。信じられなかった。その光景が。

あまりに、現実離れしていた。

すべてが、スローモーションのように感じられた。

芝生の上に立つエリカ。

そして、そこに向かって。

巨大な、狼の魔獣が、口を開き、鋭い牙を覗かせ、地面を蹴り上げながら駆けていく。

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! エリカぁぁぁぁぁぁぁ!!」

リネアの悲痛な絶叫が、夕闇を切り裂いて木霊する。

すると、ポフっ、という鈍い音と共に、狼に飛び掛かられ芝生に押し倒されたエリカが、

「キャッハッハッハ! こらっ! 顔を舐めるんじゃないわよ! ほらっ、骨付き肉持ってきたわよ!!」

と、巨大な狼とじゃれ合いはじめた。

狼の後方からは、「キャンキャン!」と可愛らしい鳴き声を響かせ、子狼たちもぴょこぴょこと駆けてくる。

「……へっ?」

リネアは、わけがわからず、その場にへたり込んでしまった。

すると、リネアの絶叫に驚いた客たちは、事情を察したように苦笑いし始めた。

「ハハハっ、わかる! あの景色は、はじめて見ると肝が冷えるよなぁ」

「私達も、最初、助けに飛び込んじゃいましたもん……」

周囲で、そんな声が囁かれる。

夫の手を借り、なんとか立ち上がり、ヨタヨタと娘に歩み寄る。

そして、

「エ、エリカ……。その、それは?」

「あ! お母様!」

と、エリカは輝くような笑顔を花開かせて飛び起き、衣服についた芝を払った。

「え、えーっと……。その、魔獣は……」

傍らで、尻尾をフリフリしている巨大な狼を見つめる。

「あ、これは、”お母さん”! ……はいっ! おすわり! 私のお母様よ! 挨拶して!!」

と、エリカが巨大な狼に指示をすると。

狼はちょこんとお行儀よくお座りをし、「ワフ!」と答えた。

「え、ええ? こんな、大きくて。危なくないの?」

リネアはたじろぐが、

「撫でてみて下さい! お母様!」

リネアは、恐る恐る、その巨大な狼に手を伸ばす。

胸の辺りを手で触れると。

「あらっ、ふかふかー……」

その毛並みの柔らかさに、思わず顔が綻んだ。

「お母さん」と呼ばれた狼は、リネアの頭に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いでいる。

どうやら、野生の勘から、この小さく傲慢な人族であるエリカの母親だと理解したらしい。

もしかしたら、子を産み、母となった自らの境遇と重ねる部分があったのかもしれない。

「アウアウ、アーウ」

と、まるで話しかけているようだ。

すると、

「はい! お母様!」

と、エリカは一匹の子狼を抱き上げ、リネアに手渡してきた。

リネアは、恐る恐るそれを抱きとめる。

「うわぁぁぁ~。ちっちゃい! 温かい……」

リネアの胸の中、獰猛な片鱗を見せながらも、「クゥ~」と鳴く子狼。

似合わないほどに太い脚は、これからどんどん大きくなる証拠だ。

抱きしめた瞬間、リネアは、エリカが産まれた日の朝を思い出した。

「"奥様、頑張りましたね! 可愛い女の子ですよ!"」

教会から来てくれた産婆から受け取った、小さな我が子。フニャフニャして、頼りない、あの姿。

そして、今、目の前にいる。それが、あの時の、愛しくて堪らない程の感情を与えてくれた。逞しく成長した娘、エリカの姿。

思わずリネアは、

「ねぇ! この子をウチにくれないかしら?!」

と、叫んでしまった。

エリカも、夫のリックも戸惑うしかない。

するとそこへ、

リネアの肩をトントンと叩く人物が……。

「リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人……。是非、"モフモフ愛好会"への加入をと、打診いたしますわ……。貴女は、"同志"のようですから」

と、上品な声が響く。

「えっ? ……って、クレア様ぁぁぁぁぁぁぁ?!」

まさかの王妃様の登場に、リネアはまた腰を抜かしそうになってしまった。