軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「名前を呼ぶ夜」

「あなた、名前は?」

声が出たのは、自分でも意外だった。

閉店後の食堂。 ランプの灯りが一つだけ残されている。シルヴィアはカウンターで帳簿を開いていた。ペンを走らせる音だけが、静かな食堂に落ちている。

レナートは窓辺の席にいた。 夕食はとうに終わっている。皿は下げた。なのに彼はそこにいた。

開業から二ヶ月。 レナートは週の大半を銀鈴亭で過ごすようになっていた。朝食を取り、日中は町を歩くか部屋で過ごし、夕食を食べ、そして——閉店後の食堂に、こうして残る夜が増えていた。

シルヴィアも追い出さなかった。 帳簿をつけている間、窓辺に人がいるだけだ。邪魔にはならない。

その夜も、そういう夜のはずだった。

帳簿の数字を追いながら、ふと顔を上げた。 レナートの横顔が目に入った。窓の外の暗がりを眺めている。ランプの灯りが頬の線を浮かべている。

宿帳に書かれた名前は知っている。 でもそれは紙の上の文字であって、本人の口から聞いたものではない。

問いは、考える前に口から出た。

レナートの体がわずかに強張った。

息が、一瞬だけ止まったのが見えた。

それから、窓の外に向けていた視線をシルヴィアに移した。

「……レナート」

姓はなかった。 名前だけ。宿帳に書いたのと同じ、名前だけ。

シルヴィアは追及しなかった。 姓を名乗らない客。最初からそうだった。今さら問い詰める理由はない。

「シルヴィアです。帳簿上はもうご存知でしょうけれど」

レナートの目が、ほんのわずかに見開かれた。

「知っていた」

間。

「だが、本人の口から聞きたかった」

その声は低く、静かだった。 いつもの簡潔さとは違う。言葉を選んでいるのではなく、選ぶ前に出てしまった言葉だった。

シルヴィアの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。

帳簿のペンを置く。 立ち上がり、厨房に入った。

棚の上段に、今日焼いた菓子が余っていた。 バターと蜂蜜の素朴な焼き菓子。宿の客に出すつもりで焼いたが、今日は泊まり客が少なく、いくつか残った。

小皿に三つ載せて、食堂に戻った。

レナートの前にそれを置く。

レナートは皿を見下ろした。 それから、シルヴィアを見た。

「余りものです。捨てるのも惜しいので」

言い訳をしている自覚はあった。 閉店後の食堂で、客に焼き菓子を出す宿屋の女将。業務の範囲からは、明らかにはみ出している。

レナートは無言で焼き菓子を一つ手に取った。

一口、齧る。

咀嚼する間、目を閉じた。 飲み込んでから、目を開ける。

「……これも、美味い」

その声を聞いた瞬間。

シルヴィアの口元が動いた。 唇の端がわずかに上がり、頬の筋肉がほんの少しだけ緩む。

小さく息を吐くような、ほとんど音のない笑み。

自分でも気づかないほどの変化だった。 だがレナートの視線が、その一瞬に固まった。

レナートが二つ目の焼き菓子に手を伸ばした。

指先が皿に触れ——そのまま、シルヴィアの指に当たった。

皿を置いたシルヴィアの手が、まだそこにあった。

熱い、と思った。 指先が燃えたわけではない。触れた面積はほんの爪先ほどだ。なのに、そこから熱が走った。

同時に手を引いた。

二人とも。

沈黙が落ちた。

ランプの炎が揺れる音すら聞こえそうな静けさ。

一秒。二秒。三秒。

シルヴィアは視線を逸らした。

「おかわりは自分で取ってください」

声が、わずかに硬かった。

レナートは「ああ」と短く返した。

その声も、いつもより掠れていた。

レナートは三つ目の焼き菓子を自分で取り、食べた。 シルヴィアは帳簿の前に戻り、ペンを取った。

数字を追う目が、文字の上を滑る。 集中できない。指先に残った熱が消えない。

食堂には二人きり。 ランプの灯りと、焼き菓子の甘い匂いと、どちらも何も言わない沈黙。

やがてレナートが立ち上がった。

「ごちそうさま」

初めて聞く言葉だった。 これまで食後に口にしたのは「美味かった」だけで、ごちそうさまは一度もなかった。

「おやすみなさい」

シルヴィアは帳簿から顔を上げずに答えた。

足音が遠ざかり、階段を上がっていく。

廊下の奥で、マルコの部屋の扉がわずかに開いていた。 食堂から漂ってきた沈黙の気配を感じ取ったのか、マルコは扉の隙間から廊下を確認し——何も起きていないことを確かめて、静かに口元を緩めた。

扉が閉まる。

食堂に一人。

シルヴィアはペンを置いた。

右手を見た。 さっきレナートの指先が触れた手。

反射的に、握り込んだ。

「……何を動揺しているの」

呟いた。

声は平坦だった。いつもの、感情を抑えた声。

なのに心臓が、まだ速い。

指先の熱が消えない。 名前を呼ばれたときの、あの低い声が耳に残っている。

名前を知っただけだ。 余った菓子を出しただけだ。 指が触れたのは、ただの偶然だ。

全部、それだけのこと。

なのに——閉店後の食堂の温度が、さっきまでと変わった気がする。

シルヴィアは握り込んだ手を開き、帳簿を閉じた。

ランプの火を消す。

暗闇の中で、深く息を吸った。

これは、距離を縮めたのではない。 客の名前を確認しただけだ。宿屋の主人として当然のことをしただけだ。

そう結論づけて、食堂を出た。

階段を上がる足が、いつもより少しだけ速かった。

レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家の応接間。

リゼットは椅子の端に腰かけていた。

目の前に、三人の令嬢が座っている。 近隣の貴族家から招いた社交茶会。リゼットがグレンの婚約者として初めて単独で主催した席だった。

「リゼット様、こちらのお茶はどちらのお店のものですか?」

ヴェルナー侯爵家の令嬢が、カップを持ち上げて尋ねた。

リゼットは一瞬、言葉に詰まった。

「えっと……使用人に任せましたの。おそらく、いつものお店だと思いますけれど」

「いつものお店、というのは?」

「その……」

沈黙が落ちた。

以前の茶会では、こうした質問に即座に答える人がいた。茶葉の産地、ブレンドの特徴、選んだ理由。それを話題の糸口にして、会話を広げていく人が。

リゼットの手が、膝の上で握りしめられた。

「あの頃は楽しかったですわね」

別の令嬢が、カップに口をつけながら呟いた。

「シルヴィア様がいらした頃は、もっと華やかでしたのにね」

声は小さかった。 だが、静かな応接間にはっきりと響いた。

リゼットの指が、スカートの布を掴んだ。

笑顔は保った。 保てたと思う。

「わたしもまだ不慣れで……これから頑張りますわ」

その言葉に、三人の令嬢は曖昧に微笑んだ。 会話は続いた。だがどの話題もリゼットの手の届く深さまでは降りてこず、表面を滑るように過ぎていった。

茶会が終わり、客が去った後。

リゼットは一人で応接間に残った。

テーブルの上に、手をつけられなかった焼き菓子が残っている。 カップの底に、冷めた茶が沈んでいる。

「……頑張れば、できるようになるわ」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

膝の上の手は、まだ握りしめられたままだった。