軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話「帰る場所の形」

シルヴィアは客間の荷物を鞄にまとめていた。

王宮。客間。謁見の翌日の朝。

昨日、国王が「裁可状は余が直接書く」と言った。その一言から一夜が明けた。

貸与衣装は衣装掛けに戻してある。謁見は終わった。衣装の役目も終わった。椅子の背にかけた自分のショールだけが、まだここにある。

ショールを手に取り、鞄に入れた。

今日、宮廷評議への報告が行われる。レナートが出席し、マルコが補佐する。シルヴィアは出席しない。王族の婚姻に関する評議は、当事者の出席を求めない慣例だとマルコが昨夜説明してくれた。

待つ時間だった。

客間の窓から、王宮の中庭を見下ろした。

朝の光が石畳に落ちている。回廊を歩く貴族たちの姿が見えた。正装の男女が連れ立って歩いている。すれ違いざまに会釈を交わし、立ち止まって言葉を交わし、また歩き出す。

誰かの視線が、この窓を見上げた気がした。

気のせいかもしれなかった。だが宮廷の空気を知っている体が、反応した。視線の鋭さ。品定めする目。あの種の目を、シルヴィアは知っている。ハイゼンベルト家の社交の場で、何度も浴びた。

窓から離れた。

机の上に、帳簿があった。

銀鈴亭の帳簿。旅に持ってきた十一ヶ月分の記録。

開いた。

数字を見た。仕入れ。売上。支出。収益。自分の手で書いた記録。ペンの筆圧の違い。忙しい日は少し雑になり、落ち着いた日は丁寧になる。数字の並びに、毎日の温度が残っている。

宮廷の中庭の中で、この帳簿を開いている。

王宮の窓の向こうに貴族たちが歩き、評議の間でレナートが報告を行い、国王が裁可状を書いている——その同じ時間に、シルヴィアは自分の宿の帳簿を読んでいた。

この数字がここにある。それだけで、足元が定まった。

帳簿を閉じた。

鞄の中にしまった。

窓辺の椅子に座り、待った。

午後。

客間の扉が叩かれた。

マルコだった。

「報告は完了しました」

声は穏やかだった。だがその奥に、張り詰めていたものがほどけた気配があった。

「概ね好意的でした。ただ、一部の貴族が『宿を営む王子妃は品位を損なう』と発言しました」

シルヴィアの指が、膝の上で止まった。

品位を損なう。

予想していた言葉だった。マルコが馬車の中で「反応は二分される」と言っていた通りだ。侯爵令嬢だった自分には、宮廷の貴族がその種の批判をすることの意味がわかる。

「殿下が反論されましたか」

「いえ」

マルコの声が、わずかに変わった。

「陛下が直接仰せでした。『品位は所作に宿る。所作に欠けることはないと余が保証する』と」

シルヴィアの呼吸が止まった。

国王が。評議の場で。シルヴィアの品位を、直接保証した。

昨日の謁見で、国王はシルヴィアの所作を見ていた。侯爵令嬢の礼法。一礼の深さ。視線の高さ。発言の間合い。その全てを見た上で——「品位は所作に宿る」と言った。

宮廷の最高権力者が、シルヴィアを保証した。

それは——かつてシルヴィアを「品位がない」と扱った人間への、最終的な回答だった。

「ありがとうございます」

声は静かだった。だが膝の上の指が、わずかに震えていた。

マルコは一礼して廊下に下がった。

客間に一人。

椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。

品位は所作に宿る。

あの言葉を、国王が言った。評議の場で。宮廷の貴族たちの前で。

シルヴィアの目頭が熱くなった。だが涙は落ちなかった。

深く息を吸った。吐いた。

窓の外を見た。午後の光が中庭に落ちている。貴族たちの姿は減っていた。評議が終わり、それぞれの場所に戻っていったのだろう。

夕刻。

客間の扉が叩かれた。

開けた。

レナートが立っていた。

謁見前夜と同じように、廊下に立っている。客間には入らない。マルコが廊下の先に控えているのが見えた。扉は開けたまま。

レナートの顔に、疲労があった。

目の下に影がある。肩の線がわずかに落ちている。評議の場で、貴族たちの視線と言葉を受け止めた後の体だった。

だがその奥に——安堵があった。

「終わった。評議は通った」

声は低かった。疲れた声だった。だがその底に、確かなものがあった。

シルヴィアは廊下に立つレナートを見た。

王子の正装。紋章。評議を終えた王族の姿。

だがその目は、あの窓辺の席に座っていたときと同じだった。

「……お疲れさまでした」

その言葉は、侯爵令嬢の言葉ではなかった。

宿の女将が、長い一日を終えた客にかける言葉だった。

レナートの表情が変わった。

口元が動いた。疲れた笑みだった。肩の力が抜けた、崩れた笑み。王子の顔ではなかった。

「——茶が飲みたい」

シルヴィアの手が止まった。

茶。

あの茶葉。閉店後の食堂で淹れる、少しだけ上等な茶葉。茶杯を二つ。窓辺の席。ランプの灯り。

「ここには、あの茶葉はないんです」

声が出た。自然に。考える前に。

レナートの目が、シルヴィアを見た。

「知ってる」

間があった。

「だから帰る」

シルヴィアの胸の中に、銀鈴亭の食堂が見えた。

五つのテーブル。白い壁。窓辺の席。棚の奥にしまった茶葉の缶。ランプの灯り。

ここにはないもの。

でも帰ればある。帰る場所がある。二人とも。

シルヴィアが笑った。

小さな笑みだった。声は立てなかった。だが口元が緩み、目の奥が柔らかくなった。

あの食堂で、国王の書簡を読んだ後に笑ったときと似ていた。だが今度の笑みは、あのときより静かだった。力が抜けていた。

「……淹れます。帰ったら」

レナートは頷いた。

何も言わなかった。だが目が笑っていた。疲労の奥で、確かに。

廊下のランプの灯りが揺れた。

二人の間に、銀鈴亭の窓辺の席が見えた。ここにはないのに、確かに見えた。

王宮の石壁の廊下で、あの食堂の時間が一瞬だけ現れて——消えた。

レナートが踵を返した。

足音が廊下に響き、遠ざかっていった。マルコの足音がそれに続いた。

シルヴィアは扉を閉めた。

客間に一人。

窓辺に立った。

夕暮れの中庭が暮れていく。灯りが一つ、また一つと回廊に灯されていく。

あの人は、評議を終えて、最初に「茶が飲みたい」と言った。

あの食堂の茶。あの席。あの灯り。

ここにはないもの。でも帰ればある。

帰る場所がある。二人とも。

翌朝。

マルコが客間に来た。

手に、封蝋のついた書簡を持っていた。

「陛下の裁可状です」

シルヴィアの手が止まった。