軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「王都の空気」

シルヴィアが馬車から降りた。

足が石畳に着いた。

王都。王宮の外門前。

空気が違った。冷たく、硬く、人と石と権力の匂いがする。銀鈴亭の木と炭と香草の匂いとは、何もかもが違う空気だった。

背筋が伸びた。

自然に。無意識に。体が覚えている。侯爵令嬢としてこの種の場所に立ったことがある体の記憶。肩の位置。顎の角度。足の運び。命じたのではない。体が勝手に反応した。

マルコが先に立った。

「こちらへ。客間にご案内いたします」

王宮の外門をくぐった。中庭。石畳が整然と敷かれ、回廊が左右に伸びている。兵士が門の両脇に立っている。旗が風にはためいていた。

中庭を横切り、回廊を進む。

シルヴィアの足が、侯爵令嬢の足取りで回廊を歩いていた。「切り替えた」のではない。「切り替わっていた」。石壁の回廊に足を踏み入れた瞬間に、体が自動的にその所作を選んでいた。

客間に通された。

質素だが品のある部屋だった。窓から王宮の中庭が見下ろせる。机。椅子。寝台。簡素な調度品。

シルヴィアは鞄を机に置いた。

窓から中庭を見下ろした。石壁。回廊。兵士の歩く影。貴族らしい男女が回廊の先を歩いていく。

ここは銀鈴亭ではない。

白い壁はない。帳簿の棚はない。銀の鈴もない。五つのテーブルも、窓辺の空席も。

マルコが客間の入口に立ったまま、補足した。

「ヴァイスベルク侯爵家からの正式同意書は、先日届いております。手続き上の障害はありません」

シルヴィアの指が、鞄の取っ手の上で止まった。

父からの同意書。

「承知の上で送り出した」と返書に書いた父が、今度は正式な同意書を送ってきた。書類だけで全てを整える人。声は一度もかけてくれなかった。だが——書類だけは、送ってくれた。

もう一つの糸が、父から届いていた。

「ありがとうございます」

声は静かだった。

マルコは一礼して廊下に下がった。

客間に一人。

シルヴィアは鞄からショールを取り出し、椅子の背にかけた。自分の稼ぎで買った布。貸与衣装は既に客間に用意されていた。衣装掛けに吊るされた正装。上質な布地。仕立ての良い縫い目。

その衣装と、自分のショール。

明後日、これを纏って国王の前に立つ。

窓の外を見た。午後の光が傾き始めている。中庭の石畳に長い影が伸びていた。

夕刻。

マルコが客間に迎えに来た。

「殿下がお会いになりたいと。東翼の応接間でお待ちです」

シルヴィアは立ち上がった。

応接間。公的な場所。二人きりではない。側近が同席する場。

廊下に出た。

石壁の回廊を歩く。足の運びが侯爵令嬢のそれに切り替わっていることに、また気づいた。歩幅。足音の大きさ。すれ違う兵士への視線の向け方。全てが自動的に調整されている。

東翼の応接間の前で、マルコが扉を開けた。

部屋に入った。

レナートが立っていた。

窓辺に。応接間の窓から差し込む夕刻の光を背に、王子としての正装で立っていた。肩の線がきちんと出た上質な外套。王家の紋章が胸元にある。

銀鈴亭の窓辺の席に座っていたあの人とは、装いが違う。

だが目は同じだった。

シルヴィアの胸が、一拍だけ強く打った。

静かな目。真っ直ぐで、揺れのない目。その奥に、閉店後の食堂で茶杯を挟んだ夜と同じ温度があった。

「遠いところを、よく来てくれた」

レナートの声。公式の言葉。丁寧語。王子の声。

「お招きいただき光栄です、殿下」

シルヴィアの声も公式の声だった。侯爵令嬢の声。

殿下、と呼んだ。

レナートと呼びたい自分を、喉の奥に押し込めた。ここは応接間だ。マルコが扉の脇に控えている。公的な場だ。

だがレナートの目の奥には、あの窓辺の席の灯りと同じ光があった。シルヴィアにはそれが見えた。装いが変わっても、場所が変わっても、あの光は同じだった。

マルコが一歩下がった。

三人の応接間に、二人の間だけに通じる空気が流れた。一瞬だった。声にはならなかった。だがそこにあった。

レナートが口を開いた。

「明後日、父上への謁見となる」

声は落ち着いていた。王子としての声。だがその奥に、シルヴィアだけが聞き取れる温度があった。

「今夜は休んでくれ」

シルヴィアは頷いた。

「かしこまりました」

一礼した。体が覚えている礼の角度。侯爵令嬢の一礼。

退室しようと扉に向かった。

「シルヴィア」

足が止まった。

公的な場で。名前で。マルコだけが聞いている場で。

振り返った。

レナートの目がそこにあった。あの窓辺の席と同じ目。王子の正装の中に、あの人がいた。

「……ここまで来てくれて、ありがとう」

王子の声ではなかった。

レナートの声だった。

シルヴィアの呼吸が揺れた。喉の奥が熱くなった。

答えなかった。答えられなかった。

だが目が——ほんの一瞬だけ——潤んだ。

一礼して、応接間を出た。

廊下を歩いた。石壁の回廊。ランプの灯りが点々と並んでいる。冷たい空気。遠い灯り。

あの食堂とは何もかも違う。

なのに——あの人の声だけは同じだった。

殿下と呼んだ自分と、名前で呼ばれた自分。

どちらも自分だった。

客間に戻った。

ショールに手を伸ばした。椅子の背にかけた、自分の布。

指先が布地に触れた。織り目の感触。自分の稼ぎで買ったもの。

明後日。謁見。国王に会う。

あの書簡に「止めない」と書いた人に、初めて会う。

シルヴィアは窓辺に立った。

王宮の中庭が暮れていく。灯りが一つ、また一つと回廊に灯されていく。

四日間の旅路の疲れが、肩の奥にある。だが頭は冴えていた。

ここは私の場所ではない。

でも——私の場所はある。あの白い壁がある。あの帳簿がある。あの鈴がある。

あの人の声は、ここでも同じだった。