軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「王の天秤」

「父上。お時間をいただきたい」

レナートの声が、私室の空気に落ちた。

エルデシア王宮。東翼の私室。

部屋は広くなかった。窓際に書き物机が一つ。本棚。椅子が二脚。壁に掛けられた小さな肖像画——故人となった第二王妃の若き日の姿。

国王アルベルトは窓辺に立っていた。

背は高い。白髪が混じった髪を後ろに撫でつけ、目は穏やかだが深い。レナートが入室して一礼したとき、その目がわずかに変わった。

政治家の目ではなかった。

何かを覚悟した息子を見る、父の目だった。

「座れ」

レナートは椅子に腰を下ろした。

国王は窓辺に立ったまま、レナートを見ていた。

沈黙が落ちた。

レナートは息を吸った。

「以前、帰る場所があると申し上げました」

国王の目が動かなかった。

「あの町の宿屋の女将について、お伝えしていなかったことがあります」

声は低かった。抑制されていた。だがその底に、選び抜いた言葉を一つずつ置いていく慎重さがあった。

「あの人は——元はレヴィアンスの侯爵家の出身です」

国王の眉がわずかに動いた。それだけだった。

「ヴァイスベルク侯爵家の令嬢です。婚約を解消して他国に渡り、身分を伏せて宿を営んでいます」

間があった。

「私がそれを知ったのは、あの人自身が開示したからです。私が身分を明かした後に、あの人も明かしました」

レナートの喉が動いた。

「互いの身分を知った上で、名前で呼び合うことを選びました」

国王は動かなかった。窓辺に立ったまま、息子の顔を見ていた。

表情は変わらなかった。だが目の奥で、複数の計算が同時に走っているのが見えた。

侯爵家の令嬢。平民との婚姻という前例のない問題は、解消される。

だが「他国の貴族が身分を伏せて定住していた」という事実は、外交問題になりうる。

ヴァイスベルク侯爵家の当主が「娘の越境を承知していた」と表明するか、レヴィアンス王家が問題としないことを確認する必要がある。

さらに——レナートの婚姻相手が「他国の元貴族」であることは、エルデシア国内の貴族の反応にも影響する。

それらの全てを、国王は一瞬で計算していた。

長い沈黙が落ちた。

ランプの灯りが揺れた。壁の肖像画が、その揺れの中でかすかに明暗を変えた。

国王が口を開いた。

「侯爵家の娘が、身一つで他国に渡り、宿を軌道に乗せた」

声は穏やかだった。

「——なるほど、面白い子だと思ったわけだ」

否定ではなかった。

だが許可でもなかった。

国王は窓辺から離れ、机の前に歩いた。椅子には座らず、机の縁に手を置いた。

「外交の問題がある。ヴァイスベルク家の当主がどう出るかだ」

レナートは頷いた。

「それと——」

国王の目がレナートを見た。

「その娘自身は、王子の妃になりたいのか」

声は静かだった。だがその問いの奥に、政治家としての計算だけではない何かがあった。

レナートは即答しなかった。

一拍の間。

あの食堂の光景が浮かんだ。帳簿をつけるシルヴィアの手。白い壁に触れる指先。「この食堂にいる間は、レナートでいてください」と言ったあの声。

「あの人は、何も求めていません」

声が低くなった。

「ただ自分の場所を守っているだけです」

国王の目が、わずかに細くなった。

「侯爵家の令嬢を手放す伯爵家か」

短い言葉だった。シルヴィアの元婚約者の家に対する評。それ以上は言わなかった。

沈黙が戻った。

国王は壁の肖像画に目をやった。

第二王妃の若き日の顔。穏やかな目をした女性。宮廷の軋轢の中で、最後まで自分の足で立とうとした人。

レナートの胸の奥で、何かが鳴った。

母と似ている——その言葉を、国王は口にしなかった。だがレナートには、父の視線が肖像画とシルヴィアの話を重ねていることがわかった。

あの食堂で、椅子を元の位置に戻しながら「座ってください。お茶を淹れます」と笑ったシルヴィアの顔が浮かんだ。あの笑みと、壁の肖像画の穏やかな目が、胸の中で重なった。

言葉より先に、胸を打つものがあった。

国王が肖像画から目を離した。

「お前と似ている」

レナートの呼吸が止まった。

「何も求めず、自分の場所を守っている。——お前の母もそうだった」

その声は、王の声ではなかった。父の声だった。

レナートは答えられなかった。喉が詰まっていた。

国王は机の前に立ったまま、しばらく黙っていた。

やがて息を吐くように、言った。

「行ってこい」

レナートの目が動いた。

「あの娘に会って、全てを話せ。宮廷で噂が立っていること。文官が記録を調べ始めていること。お前が私に全てを打ち明けたこと。——全部だ」

間があった。

「その上で——あの娘が何を選ぶか。それを聞いてから、余は判断する」

否定しなかった。

二度目だった。「帰る場所です」と答えたときも、否定しなかった。そして今回は——「行ってこい」と言った。

あの人に選ばせろと。

国王はこの関係を握り潰すことも、即座に許可することもできた。そのどちらも選ばず、シルヴィア自身の意思を確認することを求めた。

レナートは立ち上がった。

深く一礼した。

「ありがとうございます」

声が掠れていた。

私室を出ようと扉に手をかけたとき、背後から国王の声がかかった。

「一つだけ」

レナートが振り返った。

国王は机の前に立っていた。その目に、政治家としての計算と、父としての何かが同居していた。

「外交上の問題は、王同士で片をつけるものだ。ヴァイスベルク侯爵への書簡は、お前が戻ってきた後で余が出す」

間があった。

「まず、あの娘の答えを聞いてこい」

レナートは頷いた。

扉を開けた。

廊下に出た。

息を吐いた。長く、深く。

拳が握りしめられていたことに、今になって気づいた。

マルコが廊下の先に立っていた。

目が合った。

マルコは何も聞かなかった。レナートの顔を見て、全てを読み取った。

「出発の準備を進めます」

「ああ」

レナートは廊下の窓から東を見た。

街道は午後の光の中に伸びている。

あの町に行く。あの人に会う。全てを話す。

父上は否定しなかった。二度目だ。そして今回は、行ってこいと言った。あの人に選ばせろと。

父上はわかっている。

これは俺だけの問題ではない。