軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「父の問い」

あの子は、あの子の母親に似ている。——自分の足で立とうとする。

エルデシア王宮。東翼の私室。

国王アルベルトは窓辺に立っていた。手元に二通の報告書がある。一通はレナートの帰還報告書。遊歴中の滞在地域と期間を簡略に記したもの。もう一通は、東部視察の日程報告。

二つの報告書を、机の上に並べて置いた。

クレーネ。

遊歴中にも滞在し、視察でも立ち寄った町。通商路上の中規模の町とはいえ、二度訪れる理由としては弱い。

遊歴の帰還報告書には、クレーネに二ヶ月半滞在したと記されていた。東部視察では四日間。

国王の目が細くなった。

壁に掛けられた小さな肖像画に視線が移った。故人となった第二王妃の若き日の姿。穏やかな目をした女性だった。宮廷の軋轢の中で、最後まで自分の足で立とうとした人だった。

守りきれなかった。

その後悔は、十年経っても消えていない。

国王は肖像画から目を離し、侍従に告げた。

「レナートを呼べ」

午後。

レナートが私室に入った。一礼して、立ったまま待った。

国王は机の前に座っていた。二通の報告書が開かれている。

「遊歴で見つけたものは何だ」

前回の問いとは違った。前回は「同じ場所を回る理由は何だ」だった。今回は、もっと直接的だった。

レナートの喉が動いた。

一拍の間があった。

その一拍の中で、一つの顔が浮かんだ。あの食堂で、椅子を元の位置に戻しながら「座ってください。お茶を淹れます」と言った人の、あの笑み。

言葉を選ぶ前に、あの表情が先に来た。

「帰る場所です」

声は低かった。だが揺れなかった。

国王は黙った。

数秒の沈黙。

「相手は」

短い問い。

「エルデシアの町で宿を営む女性です」

平民と明言した。視線を逸らさなかった。

国王の目が動いた。政治家の目だった。王子が平民の女性に関心を持つことの意味を、瞬時に計算している目。

だがそれだけではなかった。その奥に、もう一つの目があった。息子の顔を見ている、父の目。

「考えさせろ」

否定ではなかった。許可でもなかった。

レナートは一礼して、私室を出た。

廊下で息を吐いた。

拳が握りしめられていた。いつからか、わからなかった。

国王は私室に一人、窓の外を見ていた。

しばらくして、侍従に告げた。

「マルコを呼べ」

マルコが私室に入った。近衛の正式な装い。深く一礼した。

「あの宿の女将について、知っていることを話せ」

マルコは姿勢を正したまま、事実のみを報告した。

一人で宿を切り盛りしている。他国から渡ってきた。後ろ盾はない。商人登録をして、自力で商売を軌道に乗せた。名前はシルヴィア。姓は聞いていない。

国王は頷いた。

「後ろ盾なしに、か」

その目に、政治家としての関心が浮かんだ。身一つで異国に渡り、商売の足場を築く人間は珍しい。

「……面白い子だな」

呟きは小さかった。マルコに聞かせるつもりだったのか、独り言だったのか。

マルコは何も言わなかった。頭を下げたまま、退室の許可を待った。

国王は肖像画を一瞥した。

自分の足で立とうとする女。

あの子の母親と、同じ種類の人間かもしれない。

「下がってよい」

マルコは一礼して私室を出た。

レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。

伯爵の書斎。

グレンとリゼットが、机の向こうに並んで立っていた。

伯爵は椅子に座ったまま、二人を見据えていた。白髪が増えた顔に、前回の叱責のときよりもさらに深い疲労が刻まれている。

机の上に、一枚の書面が置かれていた。

「お前たちの婚約を解消する」

声は静かだった。怒りではなかった。決定だった。

グレンの顔から、血の気が引いた。

「父上——それは」

「これ以上の信用低下を、家として許容できない」

伯爵の声は揺れなかった。

「お前とリゼットの婚約が、この家の信用低下の象徴になっている。社交の場で、商取引の場で、ハイゼンベルト家が嘲笑される原因の一つが、この婚約だ」

グレンの指が、体の横で握りしめられた。

「リゼットを守ると約束しました。僕は——」

「お前にはシルヴィアという婚約者がいた」

伯爵の声がグレンの言葉を断ち切った。

「あの娘の価値がわからなかったお前の判断を、もう一度信じろと言うのか」

グレンの口が開いた。

閉じた。

言葉が出なかった。一つも。

反論の理屈を探した。見つからなかった。父の言葉は事実だった。シルヴィアの価値を見なかった。帳簿を見なかった。三年分の記録を、存在すら知らなかった。

その判断をした自分を、もう一度信じろと——言えなかった。

リゼットが動いた。

隣に立っていたリゼットが、小さく口を開いた。

「兄さま」

声が震えていた。だが涙はなかった。

「もう、いいのではありませんか」

グレンがリゼットを見た。

妹の目を見た。

涙はなかった。泣いていなかった。

その目に浮かんでいたのは、諦めと、ほんの少しの安堵が混じった色だった。

あの帳簿を読んだ夜から、リゼットはわかっていたのかもしれない。自分にはあの記録の一頁分も書けないということを。兄の隣に立つことで得られた場所が、最初から自分の力で守れるものではなかったということを。

グレンは妹から目を逸らした。

反論の言葉を失っていた。

伯爵は机の上の書面を手に取った。

「この婚約は家内の取り決めだ。当主の署名で解消できる」

羽ペンを取り、書面の末尾に署名した。

インクが紙に沈む音が、静かな書斎に響いた。

「公文書館に提出する。明日には受理されるだろう」

書面を机に置いた。

グレンは動かなかった。

リゼットも動かなかった。

伯爵は二人を見た。

「下がれ」

グレンは一礼した。体が硬かった。足が重かった。

リゼットが先に書斎を出た。グレンがその後に続いた。

廊下に出て、リゼットの足音が遠ざかっていった。振り返らなかった。

グレンは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。

やがて、自室に向かって歩き出した。

自室の扉を閉めた。

椅子に座った。

窓の外を見た。夕暮れの庭。手入れの行き届いた薔薇。変わらない景色。

何も言えなかった。

何も、言えなかった。

エルデシア王宮。東翼の廊下。

マルコは私室を退出した後、廊下の窓辺で立ち止まった。

東に伸びる街道が、夕暮れの光の中に見えた。

背後から足音が近づいた。

国王の侍従だった。

「マルコ殿。陛下からの伝言です」

マルコは姿勢を正した。

「『レナートに伝えろ。次にあの町に行くときは——余の名代として行け。視察ではなく。相手がどういう人間か、余の目の代わりにマルコが見てこい』」

マルコは深く頭を下げた。

侍従が去った後、マルコは窓の外を見た。

東の街道。その先にある、小さな町。銀の鈴が掛かった扉のある宿。

否定ではなかった。

陛下は、否定しなかった。

マルコは窓から目を離し、レナートの執務室に向かって歩き出した。