軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

18 オーリの願い

帰宅の途中で書店に寄ってもらい、アシュベリー・スバルツ辞書を買った。

辞書は一度手に取ったものの、値段を見て書棚に戻してしまうほど高価だった。私が買おうかやめようか迷っていると、ジェフリーがさっさと辞書を手に取ってカウンターへ進み、支払ってくれた。

「高いのに。ありがとう、ジェフ」

「シェンで働き続けて国の役に立ったんだ。辞書を買うくらいの褒美は出ている。気にするな」

家に帰ったらオーリがバーサと二人で庭の掃除をしていた。

オーリは濃い灰色のスカートと白いブラウスで、黒い靴を履いていた。髪をひとつに結んでいるせいか、きれいな顔が引き立っていて可愛かった。

「ただいま、バーサ、オーリ。お土産にケーキを買ってきたわよ。みんなで一緒に食べて」

「まあ、使用人にでございますか? ありがとうございます。奥様、オーリさんは働き者のようでございますよ」

「掃除は彼女が言い出したの? 言いたいことは通じてる?」

「はい、ご自分から申し出てくださって。掃除は言葉が要りませんから、なんとか」

「そう。バーサは私よりはオーリの母親と年代が近いでしょうから、懐くのも早いかもしれないわね」

オーリは自分が話題になっていることに気づいたのだろう。私を見てほんのり微笑みながらも箒を動かす手を止めない。うん、ほんの少しでも笑顔が見られたのは一歩前進だ。

ノンナはオーリを見ながら小さく足踏みしていて落ち着かない。オーリと仲良くなりたいのだろう。

六歳までノンナは孤独に育った。友達どころか一日中声を出すこともなく家の中で独りで過ごしていた。私と暮らすようになってからはクラーク様だけが遊び仲間。シェン国に居た時も家主の長男が唯一の遊び仲間だった。きっと女の子が珍しくて仲良くしてみたいのだと思う。

居間に向かいながら、ノンナに話しかけた。

「六歳の時のノンナもあんな感じだったわ。人に慣れていない可愛い子猫みたいだった。それもまた可愛くてたまらなかったけどね」

「ええー。そうかなぁ。私、言葉を知らなかっただけで、いろんなこと考えてたんだよ?」

「そうね、後からいろんな気持ちを話してくれたわね」

「うん。お母さんにいろんな気持ち、知ってほしかったから」

「きっと今のオーリもそうなんだと思うのよ。思うことはたくさんあっても、アシュベリーの言葉を知らないから。だから待ちましょう。待てなかったら、」

「待てなかったら?」

「私たちがスバルツ語を話せるようになればいいのよ」

「そうよね! お母さん」

二人でキャッキャ言いながら歩いている時、背中に視線を感じて振り返った。そこにはオーリとバーサしかいなかった。

(どっちが見てた?)

わからないまま一人で自室に入った。すっと顔を床に近づけてベビーパウダーを確認する。足跡はない。

この家の使用人は全員、エドワード様が選んでくださった使用人だけど、私は自分とノンナのためにしばらくは様子を見るつもりだ。何の確認もせずに見知らぬ他人を信用するには、私は仕事で嘘をつき過ぎていた。

居間に入ると、辞書を読みながらノンナがこしょこしょと呟いている。

その姿を見ながらさっきの視線のことを考えた。視線はあまり良いものではないように感じた。

昔、工作員の養成所で、とある教官が視線を感じ取る必要性を教えてくれた。

教官は私たちに背中を向けてから私を指名し、

「音を立てずに居場所を変えてから、俺を殺してやる! って気持ちで睨んでみろ」

と命じた。

私は足音を立てずにそっと場所を移動し、また自分の席に戻ってから教官を睨んだ。(後ろから思いっきり殴りつけてやる!)と思いながら。すると……。

「ふむ。場所を変えずに睨んできたな」

と当てた。

私の後で何人もの生徒が教官に挑戦し、場所を変えてから教官の後ろ姿を睨んだ。教官は背中を向いたまま、睨んでいる生徒の位置を「右後ろ」「真後ろ」「左の前の方」と全部当てた。

その授業以降、私のクラスでは『視線当て遊び』が大流行した。

遊びの中で、私は群を抜いて視線の有無と位置を当てられた。視線にはほんのわずかに圧力がある。生徒によっては最後まで視線を感じられない人もいたから、これは持って生まれた感覚なのだろう。

そんな昔のことを思い出しながら、私も辞書を見ていくつかの単語を覚えてみる。

「お母さん、スバルツ語、聞いて!」

「あら、もう覚えたの? ぜひ聞かせて」

「いいよ。『私はノンナ』『あなたの名前は?』この発音でいいのかな」

ノンナは発音記号を見ながらたどたどしく発音している。

おそらくだいたいの発音は合っているだろう。ノンナには私がみっちり語学指導をしてきた。

ノンナの母国語であるアシュベリー語の他に、ランダル語、ハグル語、シェン語を日常の会話ならできるようになっている。そして今度はついにスバルツ語も話せるようになるわけだ。まさに貴族令嬢の 嗜(たしな) みとして、なかなかのものではないだろうか。

「ノンナ、オーリを呼んでいらっしゃい。『私と一緒に来て』って言って誘うといいわ」

「ああっ! お母さんもう覚えてる!『私と一緒に来て』『私と一緒に来て』よし。行って来る!」

ノンナは貴族令嬢とは言い難い速さで走り去って行った。

すぐにオーリを連れて戻って来ると、戸惑っているオーリをソファーに座らせ、紙とペンを置いて話しかけようとした。

「待って、ノンナ。オーリが字を読み書きできるか聞いてからじゃないと」

「あっ、そうか。そうだよね」

辞書の助けを借りてオーリにいろいろな質問をした。

時間がかかったけれど、ひとつひとつ丁寧に尋ねる。こういう時、焦りは禁物だ。恐ろしい経験をした人は、少しのきっかけで心の扉を閉めてしまう。そうなってからもう一度扉を開いてもらうのは、並大抵ではない。

私が話を単語を並べて発音し、質問の意図が通じてオーリが答えたらノンナが記録する。ジェフリーやバーサにも知ってもらう必要があるから文字に残しておきたかった。

途中でお茶とケーキを運んでもらい、休憩を取りながら質問をした。その結果、オーリのだいたいの過去がわかった。

彼女は簡単な読み書きができ、逃げる前は農家で働いていたそうだ。強引に結婚させられそうになった農家の主人は四十五歳だったとか。しかもほとんど賃金を払ってもらえなかったが、誰にそれを訴えればいいのか、誰が森の民の味方をしてくれるのかがわからず、逃げ出すことしかできなかったらしい。

(四十五歳ですか。オーリの父親よりずっと年上でしょうね)

心の中でその男に鉄槌を下す場面を想像してしまう。一応文化国家のはずのスバルツ王国だが、形を変えた奴隷制度を見逃しているのか。それとも役人や王家の耳に入っていないだけなのか。

『あなたはこれからどうしたい?私はあなたの力になりたい』と書いた私の文章を読んで、オーリが書いた返事は短いものだった。

『クラークに会いたい』

オーリの願いはそれだけだった。

会話を書き取っていたノンナが「え?」と驚いてオーリの顔を見ている。

「ノンナ、きっとオーリはとても恐ろしい経験をしたあとに話しかけてくれたクラーク様を深く信頼しているんだと思う。アンダーソン家に事情を書いた手紙を届けてもらうわね」

「うん。わかった」