軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第86話:それぞれの道、新しい道

宿舎の自室から出て、鍵を締める。

肌に触れる空気は、湿気を帯びつつも、夏が近い気配を孕んでいた。

私は少しだけ深呼吸をした後、探索者協会への道を歩き始めた。

駅へ向かう大通りは、平和で、穏やかな朝の風景そのものだった。

色とりどりのランドセルが弾むように揺れ、子どもの甲高い声がすれ違っていく。

その横を、足早に歩くスーツ姿の会社員たちが通り過ぎていった。

かつての『私』も、ああして駅へと急ぎ、満員電車に揺られていた。

彼らの歩む先にあるのは、私が知るような過酷な現場だろうか。

それとも——。

彼らは彼らの世界を生きている。

必死に。

守るために。

私も、私の世界を生きる。

探索者協会の自動ドアを抜けた。

空調の効いたロビーは、この時間、普段であれば熱気が満ちている。

しかし、今のロビーは違う。

行き交う探索者たちの数は少なく、話し声の反響も薄く、空間がやけに広く感じられる。

視線を巡らせれば、いつも定位置に陣取っていたパーティーや、見慣れた防具の探索者の姿がないことに気づく。

ダンジョンの変容がもたらした影響は、ダンジョン内だけに留まらないということだ。

私は壁面の掲示板へと歩み寄った。

数人の探索者が、足を止めて一枚の紙を見上げている。

それは協会からの公式な告知だった。

ダンジョンの広範な変容についての警告と、新たな調査チーム編成の通達。

昨日、権藤さんが会議室で私に語った内容が、そのまま明文化されていた。

去っていく者がいる一方で、協会という組織は新たな事象に適応しようと動き始めている。

私は手帳を取り出すことはせず、その事実だけを記憶に留め、準備広場へと向かった。

冷たい風が吹き抜ける広場は、ロビーと同じように人がまばらだった。

壁際のいつものベンチに向かい、腰を下ろす。

装備の点検を始めようとした時だった。

視界の端から、見覚えのある形状のアルミ缶が差し出された。

微かな温もりを持った、缶コーヒーだ。

顔を上げる。

「よう、相棒」

大剣を背負った、赤茶色の髪。

颯真くんだった。

眩しい笑顔だ。

声の張り、立ち姿の重心、完全に今までの彼を取り戻していた。

「……おはようございます」

私が缶コーヒーを受け取ると、颯真くんは隣に腰を下ろし、自分の手に持っていたカフェオレのプルタブを開けた。

「昨日は見かけませんでしたね」

私が尋ねれば、颯真くんは豪快に笑った。

「爆睡してて、気づいたら夜だったぜ」

「……お疲れ様です」

深層での極限の緊張。

それが解けた肉体が、休息を強制的に要求したのだろう。

彼が無理をしていない証拠であり、それは私にとって好ましい事実だった。

微苦笑を浮かべてみせれば、彼は肩をすくめてみせた。

私たちは並んでベンチに座り、それぞれの手にある缶に口をつけた。

目の前には、スロープからダンジョンへと降りていく数少ない探索者たちの姿がある。

「……深層には、もう行かねえのか?」

前を向いたまま、颯真くんがぽつりと言った。

「……そうですね。深層での私の業務は終えましたから」

私は、缶コーヒーの冷めかけた熱を掌で感じながら答えた。

私の目的は、生活圏を脅かす変容の正体を把握することだった。

ダンジョンが自らを作り直しているという結論を得た今、あの理不尽な空間にこれ以上踏み込む理由は、私にはない。

「そっか」

短い沈黙が落ちる。

気まずさは存在しなかった。

颯真くんがカフェオレの缶を傾け、一気に飲み干した。

空の缶を軽く握り潰し、立ち上がる。

「最高に楽しかったぜ、相棒」

彼が、私に向かって拳を突き出した。

私は颯真くんの笑顔を見てから、手元の缶をベンチに置き、そして、自らの拳を彼のそれに重ねた。

言葉にしなくとも、それで彼には充分伝わるとわかっていた。

「またな」

「ええ、また」

拳を離す。

颯真くんは私に背中を見せ、ダンジョンゲートへ向かって歩き出した。

その歩みには迷いがない。

深層に向かうのか、それとも中層で業務を行うのか、私にはわからない。

そして、それを聞く必要もない。

彼には彼の求めるものがあり、そのために進むべき道がある。

今回は、それがたまたま私の道と重なった。

ただそれだけのことだ。

彼を見送っていると、スロープを下りかけていた彼が、不意に足を止めた。

振り返ることはせず、背中を向けたまま言った。

普段ならば聞こえないような囁くような声も、今はしっかりと耳に届いた。

「……またいつか、な」

彼がこの現場で生き続ける限り、道が再び交差する可能性はゼロではない。

「その時が来たら」

彼の囁くような声が聞こえたのと同様、私の返答も彼に届いたのだろう。

颯真くんは右手を軽く上げ、今度こそダンジョンの暗がりの中へと消えていった。

私は息を吐き、意識を切り替え、自らの業務の準備を開始した。

安全靴の紐を解き、指先の感覚を確かめながら締め直す。

いつもなら流れるように進むその動作は、ひどくゆっくりとしたものだった。

ポーションの位置。

各種溶剤の残量。

サバイバルナイフの刃の確認。

一つずつ目で見て、手で触れて。

そうして確認を終えても、かつてのような確信は得られなかった。

ダンジョンは自らを作り直している。

過去に得たデータが今日の安全を保証せず、これまでのやり方が通用しない現場で生き残るためには、常に自らの手順を疑い、更新し続けなければならない。

……この装備で大丈夫か?

私は声に出さず、自身に問いかけた。

……これで問題ないか?

一つとして、明確な答えはない。

これまでは、ここで意識を切り替えるための言葉があった。

全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) ——。

今の私は、それを口にすることはできない。

すべての前提が崩れた今、状況が完全に制御下にあると宣言することは不可能だったから。

私は瞼を閉じた。

暗闇の中、自分の呼吸を感じ、自分の鼓動を感じる。

生きている。

そして、生きていく。

今日も。

わからないなら、現場で一つずつ確かめていけばいい。

ただ、それだけのことなのだ。

瞼を開ける。

ダンジョンへ向かうため、立ち上がった時だった。

「あの」

声をかけられた。

視線を向ける。

そこに立っていたのは、小柄な少女だった。

真新しい、まだ傷一つない防具。

顔立ちは若く、かつての『私』から見れば子どものようなものだ。

上近少年と同世代くらいだろうか。

「教えてほしい。あなたのやり方を」

彼女は私を真っ直ぐに見つめ、そう切り出した。

私はバックパックのショルダーベルトから手を離さず、彼女を観察した。

探索者になったばかりの新人だろう。

だが、その目には浮ついた英雄願望は見当たらない。

「協会で色々と説明は受けた。でも、マニュアルを読むより、実際に現場に出ている先輩探索者に聞いた方がいい。だから」

「なぜ、私なのですか」

この広場には、絶対数が減ったとはいえ、他にも探索者たちがいる。

どうして私なのか。

「あなたが一番、丁寧に準備をしていたから」

彼女は、はっきりと言った。

「誰もが自分のことで手一杯に見える中、あなただけだった。自分の命を守るための手順を一番確実に行っているように見えたのが。だから、あなたのやり方を学べば、あたしはこのダンジョンで生き残ることができると考えた」

私は微かに息を呑んだ。

ダンジョンの変容により、探索者たちがこの場所を去っていった。

しかし、こうして新たな意思を持った者が、再びこの理不尽な現場に足を踏み入れようとしている。

組織も、人も、ダンジョンと同じように新陳代謝を繰り返し、姿を変えていく。

眩しい、とそう思った。

だが、私は探索者であり、教師ではない。

「……私には私のやり方があり、それがあなたの最善とは限りません」

私は事実を告げた。

他者の手順をそのまま模倣しても、不測の事態に応用することはできない。

それは、かつて私の装備を真似ただけの若者たちが証明している。

「なので、教えることは致しかねます」

私の明確な拒絶に、少女は目を丸くした。

そして、不満げに頬を膨らませた。

「……ケチ?」

「あなたがどう思うかは自由です。では」

私は短く会釈をし、ダンジョンゲートへ向かって歩き出した。

今の私には、他者に構っている余裕はない。

未知に溢れた現場で、自分自身の命を維持することだけで手一杯なのだ。

背後から、少女の通る声が追いかけてきた。

「なら、見て盗む!」

その宣言に、私は振り返ることはしなかった。

ただ、少しだけ口元が緩むのを感じた。

自分で観察し、自分の足で立とうとするのなら、それは彼女の生存戦略として正しい。

ダンジョン特有の臭いのする風が吹き上げてくるスロープを下る。

まだ見ぬ不確定要素に満ちた暗がりに足を踏み入れる。

私は今日も、私が生きていくための業務を開始する。