軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第80話:交差する歩幅

中層、第11区画。

以前にも訪れた、鍾乳石と滑らかな石灰質の沈殿物に覆われた半水没の回廊だ。

私は防滑スパイクを装着した長靴で、足首まで浸かる、限りなく透明な冷水を掻き分けながら進んでいた。

岩柱の根元には、かつて上近少年がスケッチしていた青白く明滅する未知の水生植物が以前と変わらず群生し、淡い光を放っていた。

水深や地質、水温にも、以前から逸脱するような変化はない。

……いや。

離れた場所で水面が不規則に揺らいだ。

足を止める。

水流に逆らうような波紋の中心、その水底にあるのは、周囲と同じ石灰質の岩肌だけだ。

波紋を生み出すようなものは何もない。

だが、何もない場所に波紋が生まれるわけがない。

つまり、何かがいる。

私は腰のサバイバルナイフを引き抜いた。

手袋越しの掌に伝わるグリップの硬い感触が、研ぎ澄まされた集中力を引き出していく。

直後、水底の岩肌の一部が剥がれるようにして、水面下から襲いかかってきた。

岩肌に擬態していた、両生類型のモンスターである 岩隠擬蛙(ロック・フロッグ) だ。

前回遭遇した時と同じ、予測通りの軌道だった。

ならば、問題なく処理できる。

実際、その手順通りに対処し、魔石を拾い、ケースに収めた。

その後も順調に対象を処理していった。

予定していた数の魔石を回収した私は、本日の業務を滞りなく終える——そのはずだった。

だが、そうはならなかった。

足元の岩盤が、前触れもなく微かに震えた。

水流の圧力ではない。

過去の地質データに加え、足元を覆う石灰層の連続性や、水流に異常な濁りがないという直前の観測結果から、この地盤の崩落リスクはゼロに等しいと結論づけていた。

その理屈が、私の脳に安全だと誤認させた。

——させてしまった。

その結果、安全圏への余裕ある撤退が不可能になった。

私が撤退すべく後ろへ足を下げた時、直前まで私が立っていた岩盤が音もなく崩落した。

暗い大穴が開いたかと思うと、その底から凄まじい勢いで濁流が噴き上がってきた。

鼻を突く硫黄の臭いと、周囲の空気を一瞬で温めるほどの熱気。

地殻変動で生じた間欠泉のような、高温の熱水だった。

直撃すれば、重度の熱傷を負う。

ポーションはある。

いざという時のために。

熱傷を治すことも可能だ。

だが、噴き上がる熱水が退路を完全に塞ぎ、私の立つ僅かな足場も、周囲から崩れ始めていた。

その状況で、ポーションを使う余裕などあるわけがなく、間違いなく、私は行動不能に陥るだろう。

どれだけ入念に準備をしても、ダンジョンはそれを上回る理不尽さを発揮する。

恐怖、怒り、苛立ち。

抱かないわけがない。

だが、ここで感情に支配されれば、確実に命を落とす。

どうする?

地下水路区画で行ったような、ロープやカラビナを取り出し、支点を構築する時間的猶予は、今の私には残されていない。

ならば、肉体と手持ちの道具だけで強行突破するしかない。

私は崩れゆく足場の最も強固な部分を見極め、防滑スパイクを食い込ませて力いっぱい蹴り込んだ。

迫り上がる熱水の柱の横をすり抜けるように、対岸の岩壁へ向けて身体を投げ出す。

「——ッ」

足の裏を強烈な熱気が掠め、右の長靴のゴムが焦げて溶ける不快な臭いが鼻を突いた。

ふくらはぎに、焼け付くような鋭い痛みが走る。

理屈に縛られず、野生の勘のような直感でこの異変を察知できていれば、こんな負傷はしなかったはずだ。

対岸の岩壁へ激突するように着地した。

だが、垂直に近い岩肌は、私の着地の衝撃を吸収してはくれなかった。

身体が下方へ滑り落ちそうになる。

私は咄嗟にサバイバルナイフを抜き放ち、岩肌の亀裂へ向けて渾身の力で突き立てた。

高硬度の特殊合金製の刃が岩に深く食い込み、不快な摩擦音とともに落下を食い止める。

肩と腕の筋肉が激しく軋み、関節が抜けそうなほどの負荷がかかる。

崖下に広がる熱水の上で、私はナイフ一本にすがりつくようにして宙吊りになっていた。

呼吸が浅くなる。

指先の感覚が麻痺し始めていく。

ここで手を離せばすべてが終わる。

剥き出しの恐怖が、限界を迎えた筋肉に無理やり力を込めるよう脳に命じ続けていた。

私は空いた左手を壁面に押し当て、靴底のスパイクを岩肌に食い込ませて、少しずつ、確実に身体を引き上げていった。

完全に這い上がった私は、安全な通路の上へ身体を横たえた。

荒い息を吐き出しながら、噴き上がり続ける熱水の柱を見つめた。

心臓が、耳元で鳴っているかのように激しく拍動している。

助かった。

その安堵に全身の力が抜けそうになる。

だが、同時に、自分がどれほど不確かな薄氷の上に立っていたかという事実が身体を震わせた。

ダンジョンの変容は、私が築き上げてきたすべてを根底から覆していく。

これが深層から波及する変容の余波だとすれば。

予測を拒絶する深層の環境下で、私は生きて一次データを持ち帰ることができるのだろうか。

……無理だ。

このままでは、変容という不確定リスクを管理可能な変数に落とし込むための、最初の観測すら果たせない。

冷たい恐怖が、足元からゆっくりと這い上がってくるような感覚があった。

私はそれを振り払うように立ち上がった。

これ以上の業務継続は不可能だ。

予定通りに業務は終えられなかったが、生きて帰らなければ明日は来ない。

私は迂回ルートを探し、ただ、無事に夕食を食べ、布団で眠るために、足を動かし続けた。

探索者協会のロビーで換金を済ませる。

井葉さんが私の泥と水にまみれた姿を見て心配してくれた。

だが、私の表情から何かを察したのか、多くは語らず、

「……お疲れ様です、静河さん。また明日」

と、静かに明細を渡してくれた。

その細やかな気遣いに私は感謝して、協会を出た。

夜のスーパーマーケットで食材をカゴに入れる。

宿舎の自室に戻り、装備の泥を洗い落とし、手入れを終えてからキッチンに立った。

今日は豚肉と白菜のミルフィーユ鍋。

豚肉の脂と白菜の甘みが出汁とともに喉を通り、冷え切った身体を温めていく。

その時、私は、箸を持つ自分の右手が、微かに震えていることに気がついた。

再び死んでいたかもしれないという恐怖を、私の身体は記憶しているのだ。

どれほど綿密に計画を立て、不測の事態に備えて機材を揃えようとも、予測を完全に超えた理不尽の前では、私の理屈は後手に回る。

「……ああ、そうだ」

届かない。

私一人では——。

翌朝の準備広場、私はいつものベンチに腰を下ろしていた。

確認しながら考えていたのは、昨夜のことだ。

私一人では届かない。

では、どうする?

どうすればいい?

答えが見つからない。

その時、視界の端に人影が映った。

颯真くんだ。

彼は真剣な表情で、自身の装備を一つずつ確かめていた。

大剣の柄に巻かれた滑り止めの感触を指でなぞり、腰のポーチの留め具が確実に閉まっているかを、何度も繰り返し確認していた。

その手つきはひどく不器用で、ぎこちなさがあった。

だが、彼は新しい手順を、準備の重みを、自分のものにしようと必死に足掻いていた。

直感を武器にダンジョンを生き残ってきた彼が、自らの生存確率を上げるために、必死でロジックを組み込もうとしていた。

深層に再び赴くために。

今の彼が、自分に足りないものは何かを考え、導き出した答えだ。

生き残る、そのことを考えれば、その答えは正しいだろう。

だが、それは彼にとって、本当に正しい答えなのだろうか。

彼の最大の武器は直感だ。

理屈によって縛られた直感は、どうなる?

コンマ数秒の反応の遅れが命取りになるダンジョンで、彼が無理をして不得手な理屈を回せば、必ず致命的なミスが起きるのではないか。

そこまで考えてから、私は呟いた。

「……ああ、そうか」

私だけでは届かない。

だが、私だけでなければ?

私が予測できない死角からの理不尽な暴力を、彼なら直感で察知し、受け止めることができる。

彼が直感ゆえに見落とす足元の罠や事前の備えを、私は理屈と手順で完全に塞ぐことができる。

——初めて一緒にダンジョンに入った時が、そうだった。

私は颯真くんの元へ、歩いていく。

私の足音に気づき、颯真くんが顔を上げる。

「おう、静河。今日も早いな」

いつもの笑みで言う彼の、不慣れな手つきでポーチの留め具をいじり続けているその手を、私は手で軽く制止した。

「颯真くん」

「あ?」

私の唐突な行動に、彼は怪訝そうに眉をひそめた。

私は彼の手からゆっくりと自分の手を離し、目を見据えたまま、事実だけを告げた。

「私に足りないものが、わかりました」

私の言葉に、彼が不思議そうな顔をする。

「私の目的は、深層の底に何があるかを暴くことではありません。ただ、私の生活圏を脅かす変容の正体を把握し、安全網を構築したい」

私は静かに、しかしはっきりと続ける。

「ですが、あそこへ踏み入り、生きてデータを持ち帰るためのピースが、私には一つ欠けていた。……私には、あなたが必要です」

颯真くんの目が、大きく見開かれた。

周囲の喧騒が遠のき、彼と私の間だけの静寂が降りた。

「私にしかできない予防保全があり、あなただからこそできる直感的な対応がある。私たちなら、あの不条理な現場に、安全な道筋を構築できるかもしれません」

彼は黙ったまま私を見つめ返していたが、やがて、いつもの無邪気で、それでいて力強い笑みを浮かべると、言った。

「気づくのが遅え。静河も、俺も」

「……ええ、そうですね」

「静河」

彼は自らの拳を、私に向けて突き出した。

少しの気恥ずかしさと、自分にはないものを補ってくれる存在を得たという、確かな頼もしさ。

それが、私の胸の奥をあたたかく満たした。

私は微かに口元を緩めると、その拳に自らの拳を合わせた。