軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第72話:定点観測と、変わらないという事実

探索者協会のロビーに足を踏み入れた瞬間、空気が普段と違うことに気がついた。

熱を帯びた活気ではなく、冷たく重い、不安を含んだざわめきだ。

視線を巡らせる。

壁面に設置された掲示板の前に、不自然なほどの人だかりが形成されていた。

私はその人垣の背後へと近づいた。

人々の肩越しに、その張り紙が見えた。

『ダンジョンにおける異常な環境変容と、深層領域との関連性についての警告』

協会からの公式な通達だ。

私は少しだけ目を細め、その文面を一行ずつなぞる。

局所的な地形の変動。

未知の生態系の出現。

それら現在報告されている中層での異変が、深層からの何らかの影響によるものである可能性が否定できないという内容だった。

記載されているものはどれも私の記憶の中にあるもので、井葉さんに報告した事実が、こうして共有されたのだ。

「深層が中層に影響してる……?」

「……安全な場所なんてなくなるんじゃないの?」

「待ってくれよ。深層の化け物が這い上がってきたら、どうにもできねえだろ」

周囲の探索者たちから、焦燥に駆られた声が漏れ聞こえてくる。

彼らの不安は理解できる。

見えない脅威が足元から忍び寄っているかもしれないという事実は、誰にとっても恐ろしいものだ。

私とて、それは例外ではない。

胃の奥に冷たい塊を飲み込んだような、鈍い不安がある。

だが、ここで立ち止まり、彼らと一緒に怯えていても、生活が保証されるわけではない。

私が生きていくためには、ダンジョンに入るしかないのだ。

私は掲示板から目を離し、ロビーを抜けて準備広場へ向かった。

壁際のいつものベンチに腰を下ろす。

「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」

私はベンチから立ち上がり、ダンジョンへと続くスロープを下っていった。

中層の菌床地区が、今日の私の業務エリアだ。

湿気が重く滞留し、壁面に密生する発光苔と白い真菌類が独特の景観を作っている通路を、五感を限界まで広げながら進んでいった。

首から下げた防毒マスクを顔面に密着させ、後頭部のストラップを左右均等に引き絞る。

フィルター越しに吸い込む空気には微かな抵抗があるが、有害な胞子から肺を守るための必須の工程である。

足音の反響。

微かな気流の変化。

そして防毒マスク越しでも微かに感じることができてしまうカビの匂い。

それらを常に確認し、私が歩く現場と、自分の脳内にある地図とを照らし合わせていく。

足元の滑りやすい苔に注意を払いながら進んでいると、前方の岩陰に蠢くシルエットを見つけた。

このエリアで通常見かけることができる、昆虫系のモンスターだ。

……だが、本当にそうだろうか?

対象にいつもと違うところはないか?

私は歩みを止め、観察した。

ない、そのように見える。

もしかしたら目に見えない何かは存在しているかもしれないが、現時点では、協会が開示しているデータとも、私がこれまで積み重ねてきた記録とも、乖離しているものは見受けられなかった。

なら、問題なく処理できる。

私は歩みを再開した。

ただし、足音を完全に殺してだ。

対象は特定の匂いや気流の変化に敏感だ。

壁に寄り添うようにして気流の下流から死角へと回り込み、サバイバルナイフを静かに引き抜いた。

硬い甲殻の隙間、動きを制御する関節部分に切っ先を突き立てた。

対象が光の粒となって霧散した。

魔石を拾い上げ、観察する。

これまでと同じように見える。

私はケースに納めた。

その後も同じようにモンスターを処理していく。

今日のノルマは達成できたし、変容も確認できなかった。

いつもならこれで終わりなのだが、今日から、このあとに新たに組み込んだものがあった。

私は来た道とは別の、特定の座標へ向けて歩き出した。

そこは、空気の中に、鉄を加熱したような異臭と、雨の降り始めに感じるような特徴的な匂いが混じる場所だった。

防毒マスクのフィルターを通してさえ、その異質さは明確に感知できた。

私は立ち止まった。

先ほどまで平常だった心拍数が、上がっていくのが自分でもわかった。

足音をさらに殺し、壁に身を寄せる。

ざらついた岩肌の冷たさが、衣服越しに伝わってくる。

岩壁の陰から、前方を窺った。

岩盤が、抉られたように陥没している。

底が見えない、巨大な亀裂。

先日、私が黒い腕が這い上がろうとしているのを目撃した場所だった。

ここを観測すること。

それが、今日から業務に組み込んだ、新しいことだった。

私は亀裂の縁に近づきすぎないよう、数歩手前の安全な距離を保ったまま、観察を始めた。

ライトの光量を最低まで絞り、亀裂の周囲を照らす。

岩盤が崩れた跡。

あの黒い腕の指が食い込み、豆腐のように崩れ落ちた岩の破片が、そのままの形で転がっている。

新たな崩落の痕跡はない。

亀裂の縦幅、横幅。

目視で測れる範囲の深さ。

臭気の強さ。

周囲に危険がないことを確認してから、私はバックパックから手帳を取り出した。

初めてこの亀裂を観測した時のページを開く。

そこに記された記録と、今、目の前にある現実を突き合わせる。

「……変化なし」

亀裂の大きさ。

周囲の岩盤の崩れ具合。

私が以前記録したものから変わっていなかった。

新しいページに、今日の日付と時刻、そして、変化なし——という、その事実を書き留める。

ペンを走らせる手が、ほんの少しだけ軽くなる。

変化していない。

それは一見すると、何の情報も得られなかったように思えるかもしれない。

だが、違うのだ。

変化していないという事実は、過去の記録があるからこそ、初めて証明できるものだ。

昨日と同じであるということ。

今日、ここで何も起きていないということ。

それは、私の生活圏が今すぐ脅かされるわけではないという、確かな根拠になる。

張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩むのを感じた。

漠然とした不安に怯えるのではなく、自分の目で見て、測り、記録する。

自分の生活圏を正確に把握するための、これは絶対に必要な定点観測だった。

私は手帳を閉じ、バックパックにしまった。

ここでの仕事は終わった。

長居する理由はない。

変化していなかったとしても、得体の知れない臭気にこれ以上当てられるのは精神衛生上、よくないと感じた。

私は亀裂に背を向け、帰路についた。

ダンジョンの変容は続いていくだろう。

だが、今日のエリアは、私が構築した手順で安全に利益を出せる場所のままだった。

まだ、という但し書きがつくが。

探索者協会に戻ってくると、私は換金し、外に出た。

春が終わり、初夏を思わせる風が頬を撫でた。

スーパーマーケットに立ち寄ってから、宿舎に戻ってきた。

今日は鯵の干物と、ほうれん草のお浸しだ。

炊きたての白米とともに、鯵を食す。

一つ頷いてから、次にほうれん草のお浸しに箸を伸ばした。

シンプルだ。

だが、これが、

「……美味い」

いつ食べても変わらない味である。

今夜は、その、いつ食べても変わらない味をじっくりと堪能した。