軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第60話:1年目の朝と、変容の兆し

探索者協会のロビーに入って、私が向かったのは壁面に固定された環境モニターの前だ。

液晶画面に表示された気圧、湿度、温度の数値を、バックパックから取り出した手帳に書き写していく。

「すべて平常範囲内」

そう呟き、手帳を閉じようとした時、そのページの日付に目が留まった。

「……そうか」

私はロビーの入口を振り返る。

次にカウンターへと視線を向けた。

そこには、顔なじみになった女性係員が立っていた。

彼女は私に気づくと、やわらかく微笑んだ。

「おはようございます、静河さん。今日も早いですね」

「……おはようございます」

私が短く返すと、彼女はこれまでと同じ、いつものように親しげな表情で頷いた。

そんな彼女に一礼し、私はロビーを抜け、準備広場へ向かった。

いつものベンチに腰を下ろし、チェックを始める。

靴紐をイアン・ノットで結び直す。

ポーションや止血剤、冷却スプレー、その他必要な資材や機材、サバイバルナイフを一つひとつ確認していく。

すべて問題なし。

ベンチから立ち上がり、ダンジョンの入り口へと足を進めようとしたところで、私の隣に並ぶ影があった。

「よう、静河」

大剣を背負った赤茶色の髪の青年、颯真くんだ。

軽く拳を突き出してくる彼に、初めて出会った頃のような無防備な熱気はなく、代わりに過酷な環境をくぐり抜けてきた確かな力強さがあった。

「おはようございます」

「そこは、拳で応えるところだろ?」

私は微かに苦笑し、彼の拳に自分のそれをぶつけた。

「調子はいいようですね」

「まあな。そういう静河もだろ」

「体調管理は基本ですから」

「だな」

それまでは笑っていた颯真くんだったが、ダンジョンが近づくにつれ、その表情が引き締まっていく。

「先にいかせてもらうぜ、静河」

そのまま行くかと思ったのだが、彼は立ち止まり、しかし振り返らずに言った。

「またな」

「ええ、また」

片手を上げて、彼がダンジョンに向かっていく。

今日まで積み重ねてきた、短いやり取りだ。

だが、だからといって、明日も大丈夫とは限らない。

ダンジョンは死がすぐ近くにある。

だからこそ、私は慎重に慎重を重ねて、ダンジョンに向かう。

今日を生き延び、再びここで会おう。

その言葉を虚しいものにしないためにも。

私がダンジョンへ足を踏み入れた時、他の探索者たちの姿の中に颯真くんの姿は見当たらなかった。

私は息を吐き出し、意識を切り替える。

「……業務を開始します」

本日の目的地は、中層の湿地エリアだ。

そこへ至るルートとして、浅層の風化して乾燥した斜面を通過する。

緩やかな坂道を下っていると、前方の物陰から小柄で醜悪な緑色の姿が現れた。

ゴブリンだ。

初めて遭遇した時は心臓が早鐘を打ち、恐怖で膝をついて震えた相手である。

私は歩みを止めることなく、足元に落ちていた手頃な石を拾い上げた。

それをゴブリンの背後の岩壁に向けて軽く放り投げる。

硬い音が響き、ゴブリンが反射的にそちらを振り向いた。

その一瞬の隙に、私は足音を殺して死角から接近し、腰から抜き放ったサバイバルナイフを首筋の急所へと突き立てた。

刃が沈み込む手応えとともに、ゴブリンは光の粒となって霧散する。

あの時のように脈拍は乱れていない。

だが、ダンジョンに対する恐怖が完全に消える日は来ないだろう。

それでも私は生きていく。

ここで。

ダンジョンで。

そのために思考を止めず、手を、足を動かし続ける。

中層の湿地エリアに到着した。

滞留するカビの臭いと重い湿気が、肌にまとわりついてくる。

私は首から下げていた防毒マスクを顔面に当て、後頭部のストラップを左右均等な力で引き絞って密着させる。

吸気口を掌で塞ぎ、息を吸い込んで完全な気密を確かめた。

周囲を見渡せば、若い探索者たちが苔による足場の悪さに苦戦している姿が見えた。

私は巻き込まれ事故を防ぐために彼らと距離を置き、滑る岩肌を確実に捉えながら、記憶している安全なルートを辿って奥へ進む。

前方の岩壁に沿って広がる水溜まりに、微かな揺らぎが生じた。

水に擬態した半透明の粘性体、 酸性粘体(アシッドスライム) が這い寄ってくる。

私はバックパックのサイドポケットから、ホームセンターで新たに選定した代替品の化学凝固剤のボトルを取り出し、対象に向けて噴霧した。

溶液が対象の体組織を急速に石膏化させ、動きを完全に封じる。

私はすかさずナイフの切っ先を核へと突き立てた。

光が散り、後に残った魔石を拾い上げ、布片で拭って専用ケースに収める。

私は息を吐き、次の対象の走査を始めた。

予定数の魔石を回収し、私は定時に地上へと帰還した。

協会の換金カウンターにハードケースを置く。

担当は権藤さんだった。

彼はテスターで魔石の品質を確認し、書類にペンを走らせながら口を開いた。

「1年だな、静河さん。あなたが探索者登録から、今日で」

その言葉に私は少しだけ驚き、そして微かに口元を緩めた。

「……あの日、受付の手続きをしていただいたのは権藤さんでしたね」

彼が顔を上げ、私を見た。

私も彼を見た。

権藤さんがやわらかく微笑んだ気がした。

だが、すぐに権藤さんは表情を戻して、手元の別のファイルを広げ、私に示した。

そこには、改訂された安全規則が導入されて以降の、ダンジョン内の事故統計データが記載されていた。

未帰還者の数は明らかに減少し、生存率のグラフは上向きの曲線を描いている。

「君の活動が現場の安全基準を引き上げ、多くの者の命を繋いだ」

権藤さんの声はいつもどおりだったが、しかし確かな熱を帯びているように私には感じられた。

さらに、権藤さんは私に1枚の書類を差し出した。

受け取れば、以前、スライムから回収し、鑑定に回していた特殊な魔石の報告書だった。

そこには、分解という新たな属性として正式に登録された旨が記載されていた。

あの時の買取額では不足していたからと、その不足分も支払われることになった。

私は明細を受け取ると、権藤さんに会釈し、出口へと向かった。

その動線上で、立ち止まっている一人の人影が視界に入った。

颯真くんだ。

その防具には朝は見かけなかった擦り傷が刻まれ、衣服にはダンジョンの泥とモンスターの体液の乾いた染みがこびりついている。

彼は微動だにせず、壁の一点に食い入るように視線を向けている。

私も釣られるように、その視線の先を追った。

そこにあるのは掲示板だった。

彼の視線を集めていたのは、朝にはなかった緊急通知だった。

文字を追う。

深層の第12層より先の区画において、未知の連絡路が新たに出現したという報告だ。

ダンジョンがまた一つ、予測不能な変数を与えてきた。

これまで私が記録してきた異変と関係はあるのだろうか。

今はこの事実を記憶に留めながら、再び颯真くんを見た。

疲弊しているはずの彼の張り紙を見つめる瞳に宿っているのは、力強い熱だった。

これまで彼から、他の探索者のように英雄になりたいと言ったような言葉を聞いたことはないし、功名心や見栄みたいなものを感じたこともない。

私のように生きていくためとも違う、彼がダンジョンに求めるものがあるのだろう。

その眼差しが何よりも雄弁に物語っていた。

私はそんな彼にほんの少しだけ眩しさを覚え、声をかけずに、その場から離れて協会を後にした。

帰り道、私はスーパーマーケットに立ち寄り、夕食の食材を購入した。

宿舎の自室に戻り、キッチンに立った。

今日はツナマヨのおにぎりだ。

朝、手帳を見て、一年前、探索者登録した日のことを思い出した時、決めた。

あの日は売店で購入したものだったが、今日は自分で作った。

皿に盛り付け、急須で淹れたお茶と一緒にテーブルに並べた。

おにぎりを掴み、頬張る。

咀嚼し、飲み込む。

お茶を飲む。

「……美味い」

それ以外の言葉は必要なかった。

食後、私は机に向かい、手帳の最後のページを開いた。

「私が静河くんになって1年……」

いろいろなことがあった。

だが、ここに記すべきは思い出ではなく、事実だ。

——正式登録された、分解属性。

——深層に出現したという連絡路。

「……やはり、ダンジョンに何かが起きていると考えるべきか」

答えは出ない。

だからといって、立ち止まるという選択肢はない。

不確定要素がある。

その事実を加えて、私が私として生きていくための準備をしよう。