軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第53話:善意のノイズと上昇気流

朝の準備広場。

私は壁際のいつものベンチで、本日の業務へ向けた装備の最終確認工程に入っていた。

足元、安全靴のイアン・ノット。

腰と胸のポケット。

止血剤、ポーション、予備のライト、ハンマー、そしてサバイバルナイフ。

すべて定位置にあることを確かめ、次にバックパックの中身へと意識を移す。

本日の目的地は、中層の暗所エリアだ。

昆虫系モンスターが多数生息し、視界が極めて制限される縦穴状の地形が連続する区画である。

そのため、今日持ち込む資材にはいつもと違い、少しばかりの変更を加えていた。

昆虫系モンスターを特定の罠へ誘導する、誘引フェロモン剤のガラスボトル。

事前の清掃や着火に用いる、トーチ型ノズル付きの可燃性スプレー。

それらが蓄光テープやロープといった通常装備の隙間に収まっている。

「……問題なし」

私が立ち上がると、少し離れた場所から、誇らしげな声が聞こえてきた。

「昨日、あの暗くて危険なルートに高輝度マーカーを設置しておいたじゃん?」

「見通しが悪くて危なかったからなぁ。けど、これで後続の安全も確保できるし。俺たちもいよいよ一人前って感じだよなぁ?」

「だな!」

最近、時々見かける、比較的新しい装備に身を包んだ若手探索者パーティーだった。

私も暗所エリアでは蓄光テープを使用する。

それは発光苔などの環境光を吸収し、微弱に再発光する受動的な光源だ。

光量はダンジョンの自然環境の範囲内に収まり、生態系への刺激は最低限に抑えることができている。

対して、彼らが口にした高輝度マーカーは、どうだろうか。

もし、自ら強烈な光を放つ能動的な人工光源だったとしたら——。

光の届かない環境に適応した生態系にとって、それは感覚の閾値を容易く超える異物となる。

特定の暗所に、本来は存在しないはずの強烈な人工光源が配置された可能性がある。

私はバックパックから手帳を取り出し、その事実を新たな環境変数として書き留めた。

本日の目的地は、中層の縦穴状の地形が連続する区画だ。

昆虫系モンスターが多数生息するこのエリアは、私にとっては安定した業務エリアの一つである。

フェロモン剤で対象を罠へ誘導し、効率的に処理する。

そのための段取りは確立済みだ。

そこに至る分岐路を越え、通路が緩やかに下降し始めた。

天井が高くなり、空間が縦に広がっていく。

「これは……」

通常、この区画に入ると最初に感じるのは、昆虫系モンスターの甲殻が擦れ合う乾いた微振動だ。

しかし今は、それが鋭い金属質の叫びに塗りつぶされていた。

私は岩陰に身を隠して、前方を観察する。

暗い縦穴の壁面の各所に、不自然なほど強烈な白い光が点在していた。

若手探索者たちが設置したという、高輝度マーカーだろう。

問題は、光そのものではなかった。

マーカーの放つ強烈な光に群がり、狂乱状態で岩壁に激突を繰り返している、無数の巨大な影である。

「…… 輝喰鳥(グリント・バード) 」

私はそのシルエットと特徴的な挙動から、対象の正体を識別した。

輝喰鳥は、普段は上の暗がりに生息する大型の鳥型モンスターだ。

下から漏れ出す発光苔の微弱な光を頼りに、昆虫系モンスターの甲殻が反射するわずかな煌めきを視覚で捉えて狩りをする。

協会が開示している生態データにもそう記載されているし、私自身も遠目に目撃したことがある。

視覚に極度に依存した捕食者。

通常であれば、ここまで降下してくることはなかった。

だが今、若手たちが善意で設置した強烈な人工光源を獲物の反射光だと錯覚し、輝喰鳥の群れは完全に狂乱していた。

群れはマーカーの一つ一つに殺到し、鋭い嘴で岩盤ごと削り取ろうと壁面に群がっていた。

削り落とされた岩の破片が、縦穴の底に向かって絶え間なく降り注いでいる。

拳大の岩塊が、私の3mほど前方の床に衝突し、鈍い衝撃とともに砕けた。

私は背後を振り返った。

来た通路の天井付近にも、一羽の輝喰鳥が張り付いていた。

マーカーの光に反応して降下してきた個体が、通路全体に散開していた。

退路もない。

私は岩壁の窪みに身体を滑り込ませた。

マーカーを物理的に剥がせば、光は消え、彼らの狂乱は収まるだろう。

しかし、群れの制圧下にあるあの壁面へ接近するなど、自殺行為に他ならない。

かといって、あの大群をサバイバルナイフ一本では処理し切れない。

岩の窪みに潜んだまま、じっとしていればいずれ群れは去るだろうか。

……いや、それはあまりにも楽観が過ぎる。

岩盤の崩落は時間とともに進行している。

この窪みが安全である保証は、一秒ごとに削り取られている。

光に群がる群れの視覚が、この窪みに潜む私を捉える可能性も排除できない。

私はバックパックを下ろし、中に入っている資材を確認する。

光に執着している群れの注意を、別の、さらに強烈な刺激によって上書きできれば。

私の視線が、二つの円筒形の容器に止まった。

誘引フェロモン剤のボトルと、可燃性スプレー。

輝喰鳥の常食は、昆虫系モンスターだ。

高濃度のフェロモンは、彼らの極めて強い嗅覚と捕食本能を直接刺激するはずである。

しかし、ただ中身を撒き散らすだけでは、あの強烈な光の引力には勝てないだろう。

ならば、気化させ、空域全体へ拡散させればいいのではないか。

私は二つの容器を手に取り、岩壁の形状を確認した。

私のすぐ横に、上へと向かって煙突のように抜けている岩盤のくぼみがある。

「これなら……」

私は可燃性スプレーのトーチ型ノズルを、その岩盤のくぼみの奥へ向けた。

トリガーを引き込む。

圧縮された可燃性ガスが噴出し、ノズル先端の着火装置が火花を散らした。

一瞬の轟音とともに、くぼみの内部で炎が爆発的に燃え上がる。

閉鎖空間での急激な燃焼により、岩の表面が熱せられ、限定的だが強力な上昇気流が発生した。

私はスプレーを手放し、間髪入れずにフェロモン剤のボトルを握り直す。

炎が消えかけ、熱気だけが上へと立ち昇っていくその気流の根元へ向けて、ボトルを正確に投げ込んだ。

ガラスが岩盤にぶつかり、割れた。

液体が一気に高温の岩肌に広がる。

匂いが爆発した。

巨大な昆虫の体液を煮詰めたような、むせ返るほど濃厚なそれが煙の塊となり、人工的な上昇気流に乗って、狂乱する群れの中央の空域へ一気に立ち昇っていった。

「……」

岩盤を削る音が、ピタリと止んだ。

光への執着より、根源的な食欲の刺激が上回ったのだ。

鋭い鳴き声が交錯し、群れが一斉に、煙の塊へ向けて突撃を開始する。

視界を奪う煙の中で、巨大な質量同士が激しく衝突する鈍い音が響いた。

岩盤から、群れの意識と視線が完全に剥がれ落ちた。

その瞬間を見逃すわけにはいかなかった。

私はバックパックを掴み上げ、岩陰から飛び出した。

最短の退避ルートを、正確な足運びで駆け抜ける。

頭上では未だに群れの狂乱が続いているが、彼らの意識がこちらに向く気配はない。

私は一度も振り返ることなく、危険地帯からの離脱を完了させた。

定時より少し早い時間、私は探索者協会のロビーへ帰還した。

本日の業務は予定通りには進まなかったため、換金すべき魔石は手元にない。

だが、私はそのまま、権藤さんのいるカウンターへと向かった。

私が手ぶらで戻ってきたことに気づいた権藤さんが、僅かに眉を動かす。

「中層の縦穴区画にて、高輝度マーカーの過剰設置によるモンスターの異常誘引を確認しました」

私は告げた。

「輝喰鳥の群れが狂乱状態に陥っています。通行は極めて危険です。設置者への周知と、該当ルートの警告を推奨します」

私の報告を聞いた権藤さんは、事態の厄介さを瞬時に理解したのだろう。

表情を引き締め、手元の書類に素早くペンを走らせる。

「……すぐに対応しよう。よく無事で」

「ええ」

短い応答を残し、私は協会を後にした。

宿舎の自室に戻り、私はキッチンの前に立った。

今日の夕食は、出汁巻き卵と、作り置きしておいた筑前煮だ。

出汁巻き卵を一口。

柔らかな食感の奥から、やさしい出汁の風味が滲み出してくる。

続いて筑前煮。

中までしっかりと味が染み込み、根菜特有の歯ごたえが残っている。

派手さはない。

地味な食事だ。

しかし、無知で無思慮な善意という、時として悪意よりも始末に負えないものに振り回された今日、この滋味深い味が最高のご馳走だった。