軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第50話:白霜の凍谷と熱衝撃の最適解

極寒冷エリアの境界線を越え、私は足を止めた。

猛烈な風が吹き抜け、視界を白く霞ませる粉雪が絶え間なく舞っている。

『 白霜の凍谷(フロスト・キャニオン) 』。

私はバックパックのショルダーストラップに固定したアナログ式の温湿度計へ視線を落とした。

文字盤の針は、すでに氷点下を大きく割り込む極低温の数値を示している。

ここに至る前、岩陰で入念に構築したレイヤリングが、今の私の生命線を維持していた。

乾燥した肌に密着する厚手のメリノウール製インナー。

体温の層を保持するミドルレイヤー。

そして、氷の粒を伴う暴風を完全に遮断するハードシェルアウター。

安全靴の上から被せた断熱用オーバーブーツと、氷面を確実に噛むためのアイゼン。

体温の喪失は計算通りに最小限へ抑え込まれている。

私は極寒地仕様の二重グローブに包まれた手で、左腰のドロップレッグホルダーに触れた。

内部に収まっているのは、種田精密と共に開発した新たな専用機材『局所急加熱スパイク』だ。

総重量は約2kg。

見た目は、工事現場で使用される大型の釘打ち機に似ている。

使い方は極めてシンプルだ。

このエリアに生息する 白霜狼(フロスト・ウルフ) の極厚氷装甲へ、スパイクの先端を押し当て、トリガーを引く。

先端部のみが一瞬で超高温に到達。

だが、その熱で装甲を融解させるのではない。

『白霜の凍谷』のマイナス数十度という過酷な冷気を利用し、温度差による膨張と収縮—— 熱衝撃(サーマルショック) で、叩き割るのだ。

種田氏が手作業で削り出したグリップ部分は、二重手袋越しであっても吸い付くように完璧に馴染む。

彼の職人技には感嘆の一言である。

本日の主目的はこの新機材の実地検証と、そしてもう一つ、新たな魔石回収ルートの安定的な開拓だ。

私は視線を前方の吹雪の中へ向ける。

白い幕の向こうに、微かに動く巨大なシルエットがあった。

以前、このエリアの一次データを採取するために訪れた際、白霜狼を巨大パイルバンカーで粉砕していた先駆者だ。

彼は、今日もあの時と同じ装備でこの過酷な環境で業務を行っていた。

「……接触は避けるべきですね」

私は彼の狩場と私の作業領域が干渉しないよう、頭の中で空間の座標を割り出した。

想定される射線、後退時の余白。

それらすべてに安全マージンを上乗せし、エリアの端に位置する氷壁の影を本日の作業拠点に設定した。

吹雪を背で受け流し、私は静かに業務の準備を開始した。

周囲の地形をマッピングしながら安全マージンの策定を行う。

数十分の時間を費やして退路と死角の確認を終える。

次に、本番前の機材テストとして、足元の氷柱へスパイクの先端を押し当て、トリガーを引いた。

内蔵された特殊回路が稼働し、スパイクの先端が瞬時に超高温へと達する。

水分の気化音の直後、スパイクを引き離せば、熱衝撃による小規模な亀裂音が、冷たい大気を震わせた。

この環境下でも想定通り、稼働する。

そのことを確認できた私が、業務を開始しようとした時、雪を圧縮する重い足音が風の音に混じって近づいてきた。

「……彼か」

私は足音の方角へ視線を向ける。

吹雪の中から現れたのは、想像した通り、先ほど遠目に確認した先駆者だった。

分厚い耐寒装備に身を包み、背には自身の体躯ほどもある巨大パイルバンカーを固定している。

私から数メートルの距離で立ち止まると、彼は厚い防寒ゴーグルとフェイスマスクをゆっくりと引き下げた。

「……ッ」

内心の驚愕を押さえきれなかった。

分厚い防寒着によって大柄な男性だと誤認していたその人物の素顔は、かつて協会のロビーに併設されたレンタルスペース付近ですれ違ったことのある、小柄で顔立ちの幼い女性探索者だったのである。

彼女の冷気に晒された白い肌と、獲物を射抜くような鋭い瞳が私を捉える。

「帰れ」

彼女の口から紡がれたのは、極低温の環境よりも冷徹な声だった。

「素人が無様に死ねば、血の匂いで環境が汚染され、わたしの狩場が崩壊する」

その言葉は、自らの領域にやってきた余所者を排除するための敵意と捉えるのが自然だろう。

だが、私は彼女の視線の動きが気になった。

彼女は私の装備を、そしてアイゼンの固定状況を確認しているようだった。

排除しようと考えている人間がそんなことをするだろうか?

……なるほど。

この絶対的な死が支配する極寒の環境下で、無知な素人を無意味に死なせたくないという、配慮に違いない。

……彼女は、真のプロフェッショナルだ。

この環境で、誰かを思いやることができるのだから。

「ご忠告、感謝します」

私は彼女の鋭い視線を真っ直ぐに見返した。

「ですが、私は私の業務を行います」

彼女は私の宣言を聞き、微かに眉を動かした。

「——ッ、勝手にしろ」

彼女はマスクとゴーグルを再び装着し、雪を蹴って自身の領域へと戻っていった。

私はその背中に一礼した。

業務を開始した私の視界の端で、彼女が白霜狼の群れを相手に立ち回っている。

極厚の氷の鎧を纏った凶悪なモンスターに対し、彼女はパイルバンカーを突き立てる。

赤熱する杭が氷を融解させ、直後に凄まじい衝撃が装甲を粉砕する。

莫大な排熱と、機構上の装填ラグ。

彼女はそれらすべての不確定要素を完全に計算に組み込み、芸術的なまでのペースで対象を処理し続けていた。

一方、私も自らの領域に侵入してきた白霜狼と対峙することになった。

環境と同化し、分厚い氷の外殻を形成した巨体が、低い唸り声を上げて前傾姿勢をとる。

私は斜め前方に踏み込み、対象の攻撃軌道から体軸をずらした。

すれ違いざま、右手に構えたスパイクの先端を、対象の首元の装甲の一点へ正確に押し当て、スイッチを入れる。

数秒の加熱。

私はスパイクを引き離し、後方へステップを踏む。

その直後。

熱せられた氷の局所に、マイナス数十度の環境冷気が牙を剥く。

急激な温度の落差。

絶対の強度を誇っていたはずの白霜狼の氷装甲が、鋭い亀裂音とともにガラス細工のように粉砕された。

その結果、柔らかな頸部が完全に露出する。

私はスパイクを素早く左手に持ち替え、サバイバルナイフを引き抜き、その無防備な急所へ迷いなく突き立てた。

白霜狼は断末魔の咆哮を上げようとしたが、それより早く光の粒となって霧散。

氷の床に魔石が転がった。

私はそれを拾い上げた。

「……仕様通りにいきましたね」

環境変数を利用したローコストな最適解が確立した瞬間だった。

私は微かな満足感を覚えながらも、すぐに意識を切り替え、次の対象へ向き直ろうとした。

その私の視界の端で、それまで完璧なリズムを刻んでいた彼女の動きが、僅かに遅滞したのが見えた。

だが、見ていたのは私だけではなく、彼女もだった。

おそらく、この環境において素人である私が惨殺されていないかという心配りと同時に、プロフェッショナルゆえの周辺への警戒だろう。

しかし、彼女の予想に反してそこにあったのは、その素人が強固な氷装甲を破壊し、モンスターを倒すという常識外れの光景だった。

その光景に対する驚愕が、彼女の完璧な思考プロセスにコンマ数秒のエラーを生じさせてしまったのではないか。

そしてその遅滞は、致命的な隙だった。

彼女の持つパイルバンカーの装填ラグ。

本来であれば流れるような体捌きでカバーされるはずのその空白に、白霜狼の一体が牙を剥いて飛び込んだのだ。

私は状況を俯瞰し、リスクを即座に計算した。

彼女なら、あの程度の後れは多少の被弾や陣形の乱れと引き換えに、自力でカバーできるだろう。

でなければ、この極限環境で単独探索を継続することなど不可能だからだ。

だが、彼女が自力でカバー行動を取るために生じるタイムロスや予測不能な立ち回りは、隣接する私の作業環境に不確定な影響をもたらすだろう。

「……予防保全です」

私は彼女を助けるためではなく、自らの作業環境の秩序を維持するために雪を蹴った。

アイゼンが氷を確実に捉え、間合いを一気に詰める。

白霜狼の側面に回り込み、再びスパイクを氷装甲へ押し当てる。

瞬時の加熱と、引き離し。

環境冷気による熱衝撃が装甲を破砕する。

砕け散る氷の破片の隙間を縫うように、私はサバイバルナイフの刃を滑り込ませた。

対象が光となって消え去る。

現場の秩序は、即座に正常化された。

私はナイフの汚れを拭い、鞘へ戻すと、再び自分の作業領域へと静かに後退した。

予定していた一次データの採取と、機能実証の業務をすべて終えた私は、スパイクをホルダーに戻した。

雪を圧縮する足音が近づいてくる。

振り返れば、彼女だった。

パイルバンカーを背に固定し、私の前で立ち止まる。

「……さっきのカバー、助かった。ありがとう」

私はバックパックのベルトを締め直しながら言った。

「私がいなくても、あなたならば何とかできたと考えています」

彼女はその言葉を否定しなかった。

ただ、ゴーグルの奥の瞳を和らげ、微かに笑った。

私は一礼し、地上への帰路につくため彼女に背を向けた。

「君、名前は?」

吹雪の音に負けない、凛とした声が背後からかかる。

私は立ち止まり、振り返る。

「……静河です」

「わたしは 狩能(かのう) 蒼衣(あおい) 。またね、静河くん」

「ええ、また」

私は短く応じ、今度こそ彼女に背を向け、白く霞む極寒の谷を後にした。

魔石を換金し、宿舎の自室に戻ってきた私は、冷え切った部屋を暖房で温めながら、簡易キッチンの前に立つ。

今日の夕食は、生姜と鶏肉の薬膳スープだ。

極寒環境下での労働により、どれほどレイヤリングを徹底しても、肉体の深部は確実に冷え切っている。

そこへ、体温を内部から強力に引き上げるショウガオールと、損傷した筋肉の修復に不可欠な良質なタンパク質を流し込む。

土鍋の中でスープが静かに煮立つ。

器に盛り、匙で掬って一口飲む。

鶏肉から滲み出た濃厚な旨味と、生姜の鋭い刺激。

「……ああ」

言葉はそれで充分だろう。

新機材の機能実証は完璧に完了し、新たな事業領域の確保にも成功した。

あとはただ、明日の業務への活力を摂取するだけで、ただそれだけでよかった。